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マルクス/レーニン小伝(連載第24回)

2012-10-05 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり(続き)

「ゴータ綱領批判」をめぐって
 
ドイツ社労党綱領を批判したマルクスの論文「ゴータ綱領批判」は、ほとんど逐条的な形式で細かな字句の使い方に至るまで立ち入って綱領文言を「添削」しているが、それに付随する形で『共産党宣言』でもほとんど空欄とされていた共産主義の定義やその内実について初めてかなり具体的に開陳している点で重要な文献である。
 それによると、資本主義社会からプロレタリア革命・プロレタリアの革命的独裁の時期を経て到達する共産主義社会とは「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会」と定義づけられる。しかも、この共産主義社会は「資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」(低次共産主義社会)と「それ自身の基礎の上に発達した共産主義社会」(高次共産主義社会)の二段階に整理されている。
 このうち「経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母胎である古い社会の母斑をまだ付着させている」と形容される低次共産主義社会では、なおブルジョワ的な等価交換原理が残存するものの、商品交換は廃され、各人は賃労働で得た賃金で商品を購入するのではなく、自らの労働量(労働時間)に相当する量の物資―そこから社会共同目的に供出される分が控除される―を取得することができる。例えば8時間労働をした労働者Wは、資本主義社会におけるように8時間労働で得た賃金の範囲内で商品Cを購買するのでなく、同等の8時間労働に相当する量の物品G(t8)―以下、当該物品の労働時間量をこのように表記する―を取得するのである。
 こうした等労働量交換の仕組みを担保するための手段として、マルクスは一定量の労働を給付したことを証する「労働証明書」なる一種の有価証券の制度を提唱している。それによると、例えば先の例で、労働者Wは8時間労働分の労働証明書の発行を受け、これと引き換えに消費財G(t8)を取得する。従って、8時間労働分の労働証明書では10時間労働に相当する消費財G(t10)は―それを分割できない限り―取得できないことになる。
 このような低次共産主義の段階ではすでに階級格差は廃されているが、個人の能力や既婚・単身の別や子どもの有無・人数などによる格差はなお残される。しかしそうした権利内容の不平等は、マルクスによれば「長い産みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では避けることができない」のである。
 それでは「共産主義社会のより高い段階」である発達した共産主義社会(高次共産主義社会)とはどういうものか。これについては、マルクスのいつになく美文調の文学的表現をそのまま引用してみよう。
「すなわち、分業の下への諸個人の奴隷的な従属がなくなり、それとともに精神労働と肉体労働との対立もなくなった後で、諸個人の全面的な発達に伴い、かれらの生産諸力も増大し、協同組合的富のあらゆる源泉がいっそう溢れ出るほど湧き出るようになった後で、―そのとき初めて、ブルジョワ的権利の狭い限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗に次のように書き記すことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」
 このような共産主義の最高段階に達すると、低次共産主義社会における等労働量交換も廃され、人々は各自の能力に応じて労働し、かつ各自の必要に応じて消費することができるようになるのである。言い換えれば、それは労働(生産)と消費(分配)とが完全に分離された社会にほかならない。
 なお、マルクスはあえて明言しないが、共産主義社会では貨幣制度(正確には商品‐貨幣交換)も廃されることが暗黙の前提とされている。
 このようなマルクスの「二段階共産主義」テーゼをいかに受け止めるべきかは、なかなか難しい問題である。実はマルクスが提唱する低次共産主義社会における「労働証明書」とはロバート・オーウェンの「労働貨幣」にヒントを得たものであるし、高次共産主義社会の標語「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」も、マルクスがパリ遊学時代に交流を持ったフランスの初期共産主義者カベーのユートピア小説『イカリア旅行記』から採られている。
 しかし、オーウェンやカベーは、つとに『共産党宣言』の中で「空想的社会主義(共産主義)」として却下されていたはずのものであった。そしてエンゲルスによれば、マルクスは唯物史観と剰余価値の「発見」を通じて「空想から科学へ」到達していたはずであった。すると、マルクスは晩年に至って、今度は「科学から空想へ」逆戻りしてしまったのであろうか━。
 また、『ドイツ・イデオロギー』では共産主義は創出されるべき一つの状態とかあるべき一つの理想ではなく、現実的な運動であると言明されていたはずであるのに、「ゴータ綱領批判」のマルクスは共産主義社会を創出されるべき状態またはあるべき理想として描き出そうとしてはいないだろうか━。
 こうした揚げ足取り的な疑問はさておくとしても、等労働量交換原理を基礎として労働証明書で消費が規律される低次共産主義社会と労働と消費とが完全に分離される高次共産主義社会とでは、単に低次・高次という程度問題を超えた基本原理の相違があり、その間には新たな社会革命を必要とするのではないだろうか━。
 また、そもそも『共産党宣言』でも提示されていた生産手段が国有化される過渡期の状態から「協同組合的な社会」である共産主義社会への移行―それは国家論としてみれば政治国家から経済国家への転換に対応する―はいかにして可能なのであろうか━。
 このように数々の疑問が浮かぶわけであるが、マルクスをして「ゴータ綱領批判」の中で付随的な形ではあれ、従来の自説に抵触しかねないような共産主義テーゼを吐露せしめたものは、ラサール主義によって弛緩させられたドイツ社労党とその綱領に対する失望と憤懣とであっただろうことは、想像に難くない。

フランス労働者党との積極的関わり
 ドイツ社労党との関わりが批判的なものであった反面、マルクスがより積極的な関わりを持ったのは故国ドイツよりもフランスの労働者政党のほうであった。
 フランスでは、先述したように、1871年にパリ・コミューンが敗北した後、コミューン関係者に対する大量処刑・投獄が行われ、革命運動は一気に再び冬の時代に入っていた。しかし、第三共和政は75年に憲法を制定した後、コミューン関係者を大赦するなど抑圧を緩和する姿勢を示したことから、フランスでも労働者政党を結成する動きが生じた。その最初の試みは、当時のフランスにおける数少ないマルクス理論の紹介者であったジュール・ゲードとマルクスの次女ラウラの夫でもあったポール・ラファルグを中心に結成されたフランス労働者党であった。
 マルクスとエンゲルスはラファルグを通じて党綱領の作成に関して相談を受けたことから、80年5月、ロンドンにマルクス、エンゲルスとラファルグ、ゲードが集まって党綱領の起草について協議したのであった。
 その際、マルクスが口述したものをゲードが筆記した綱領前文では、プロレタリアートの解放は生産手段の集団所有によってのみ可能であること、そしてそのような集団所有は一つの確固とした政党に組織されたプロレタリア階級の革命的な行動を通じてのみ立ち現れること、同時にプロレタリア階級は普通選挙への参加を通じて当面の要求を実現することも必要であることなどが明記された。
 前文に続いて、マルクスとエンゲルスの見解も反映しつつ当面の最小限要求事項を掲げる「政治綱領」と「経済綱領」とを含む綱領は、80年11月の党全国大会で一部修正のうえ採択された。
 こうして正式に発足したフランス労働者党はマルクス理論に依拠した初の近代的政党であった。しかしマルクスは間もなく、自身の理論を教条的に理解するゲードやラファルグとも関係が悪化していくのであった。この時吐露されたマルクスの有名な言明が、「もし彼らの政治がマルクス主義を代表しているなら、私自身は決してマルクス主義者ではない」であった。

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