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マルクス/レーニン小伝(連載第23回)

2012-10-04 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第4章 革命実践と死

(5)労働者諸政党との関わり

マルクスと政党
 マルクスの晩年になると、ようやくヨーロッパ各国で議会制が発達してくるのに照応して近代的な政党組織・運動も活発化し始める。それに伴い、労働者階級も政党作りを模索するようになった。マルクスの故国ドイツでも1869年には中部の都市アイゼナハで社会民主労働者党(アイゼナハ派)が結成される。この党は、ラサールによって63年に結成されていたドイツ労働者総同盟から分裂してできたものであった。
 しかし、マルクスはこの党の結成にも運営にも直接関わることはなかった。それは単に彼自身は労働者でなかった、というよりなれなかった―彼は長く寄稿し、ほぼ唯一の収入源としていた米国の新聞『ニューヨーク・トリビューン』が南北戦争渦中で南部の奴隷制諸州への妥協的姿勢を強めたことから61年、同紙への寄稿を打ち切り、翌年にはある鉄道事務所に就職しようとしたが、マルクスによれば「悪筆」が原因で不採用となった―ということ以上に、マルクスが党派的活動には相当慎重な見解を持っていたことによるであろう。
 マルクスは若き日に『共産党宣言』を高らかに発したにもかかわらず、終生自ら共産党を結成しようとはしなかったし、その種の政党に加入しようともしなかった。逆説的ではあるが、マルクスにとって「共産党」は存在しない。このことは、まさに『共産党宣言』の中でも、「共産党」という語は表題で使われているだけで、本文では複数形の「共産主義者(たち)」という語が専ら用いられていることに表れている。
 マルクスによれば、共産主義者は他の労働者党に比べて特殊な党でもなければ、特殊な原則を掲げてプロレタリア運動を型にはめようとするものでもなく、他のプロレタリア党からはただ二つの点で区別されるにすぎない。
 その一つは「プロレタリアの種々の国民的闘争において、国籍とは無関係な、プロレタリア階級全体の共通利益を強調し、貫徹する」こと(国際性)、今一つは「プロレタリア階級とブルジョワ階級の間の闘争が経過する種々の発展段階において常に運動全体の利益を代表する」こと(総代表性)である。
 このような「区別」からすれば、共産主義者の役割は「実践上は全諸国の労働者党の中で最も断固とした、常に推進的な部分」であること、「理論上はプロレタリア階級の他の集団にましてプロレタリア運動の条件、進行及び一般的結果を洞察する力量」を持つことにあるものとされる。
 従って、共産主義者マルクスにとっても、自ら共産主義政党を結成したり、それに加入したりすることよりも、諸国の労働運動を代表する国際労働運動に関わりつつ、各国労働運動を推進し、洞察する仕事のほうが優先順位が高いことになる。そのために、マルクスと労働者諸政党との関わりは間接的で、時として批判的なものとさえならざるを得なかったのである。

ドイツ社労党との批判的関わり
 マルクスの政党との関わりが最も特徴的な形で現れたのが、故国ドイツの労働者政党との関わりである。先述したように、ドイツでは1869年に社会民主労働者党が結成された後も、このアイゼナハ派とまだ優勢なラサール派の対立がしばらく続いたが、やがてラサール派の勢力が弱まった75年に両派合同の機運が生じ、改めて社会主義労働者党が結成された。
 この新党の綱領はその発祥地の名を取って「ゴータ綱領」と呼ばれたが、それはラサール派との合同という政治的成果を優先したため、まさにラサールの思想を強く反映した穏健な内容に仕上がっていた。そのため、これに目を通したマルクスは大いに不満であり、早速に批判論文「ドイツ労働者党綱領に対する評注」を執筆した。この論文は生前には公刊されなかったが、エンゲルスがマルクス死後の91年になって公表したものである。
 この論文はゴータ綱領の批判的分析を通して、今は亡きラサール―彼は64年、一女性をめぐって決闘死を遂げていた―の思想と対決する意義をも持っていた。
 1825年生まれでマルクスより一回り年下のラサールはベルリン大学出身の労働運動家で、やはりヘーゲル哲学に傾倒した一人であった。しかし彼の場合、マルクスとは違ってヘーゲル右派的立場から観念的歴史観に基づいて強力な国家を理想化していたため、当然にもプロレタリア革命には反対であり、ストライキなど労働者の経済闘争さえも否定したのである。
 代わって彼が提唱したのは、労働者の生活改善の手段としての国庫補助による生産協同組合という構想であった。そのため、彼は「アメとムチ」政策の鉄拳宰相ビスマルクにすら接近していく。こうしてラサールは今日ではむしろ主流を成しているとも言える保守的な右派労働運動の祖と言うべき人物でもあった。
 同時にラサールはまた、「平均的労賃は生命の維持と生殖のために一国民において習慣的に必要とされる不可欠の生計費に常に限定される」とする有名な「賃金鉄則」や、「労働者は労働の全収益を取得すべきである」とする労働収益論のような誤った、もしくはあいまいな命題を引っさげた「理論家」でもあった。
 生前のラサールはマルクスとも交流し、あの『政治経済学批判』の公刊に際しては出版社探しの労を取ってくれた「恩人」でもあったから、マルクスもラサール生前には彼を公然批判することを避けていたふしもあるが、ラサール死して十余年、なおドイツ労働界に残るラサールの影響を除去することは、まさに諸国の労働運動の中で最も断固たる推進的部分にして、他のプロレタリア集団にもまして強力な洞察力を持つべき共産主義者としての自らの使命と認識したことが、「全く唾棄すべき、また党の士気を阻喪させる綱領」(マルクス)に対する徹底批判の動機となったものであろう。

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