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科学と賞

2012-10-10 | 時評

毎年、ノーベル賞の季節になると不可解に思うことがある。それは日本人科学者が受賞すると、「日本人」という属性を強調してまるで国家的行事のように大騒ぎすることである。反面、外国人の受賞者については、それが日本人受賞者との共同受賞であってもほとんど関心を払われない。思うに、こうした場合、科学的関心よりも「日本の誇り」といったナショナルな感情が先行しているのだ。

しかし、ノーベル賞は国が受賞対象となるのではなく、受賞対象はあくまでも科学者個人であるから、受賞者の国籍や民族籍は無関係である。それは、すぐれた科学的研究成果が人類普遍的な共有財産であることを考えれば、当然のことであろう。

その点では、今年のノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥氏のiPS細胞研究などは典型的に普遍性の高いものであるだけに、氏が日本人であることは重要な問題ではない。

従って、「日本という国が受賞した」という氏のコメントは疑問である。この発話は謙遜とも受け取れるし、またiPS細胞研究に破格の研究予算がついて事実上の国家的プロジェクトとなっている現状を表したものかもしれないが、本来学問は国家から自由に行われるべきものであるから、日本という国家が受賞したのではなく、あくまでも山中氏個人が受賞されたのである。

さらに、科学的研究成果が人類普遍的な共有財産であるということは研究のプロセスについても言えることであり、すべての科学研究には土台となった先行研究がある。山中氏の研究では、共同受賞した英国人研究者ジョン・ガードン氏の半世紀前に遡る基礎研究が土台である。そういう意味では、科学賞は科学者個人に対する栄冠というよりは、―時に受賞対象から外れる―先行研究者も含めた顕彰である。

科学研究がそういうものであるなら、科学にそもそも賞は必要なのかも疑問となってくる。受賞はなくとも、貴重な研究成果はあまたあるだろうからである。

ただ、科学賞には研究者の研究意欲を刺激する意義はあるかもしれない。しかしそれも行き過ぎて受賞のための競争的な研究に走れば、データ捏造のような不正行為に手を染める研究者も出てくる。

科学賞の意義はゼロでないとしても、あまりに賞を過大視することは科学研究を歪める恐れもあり、まして受賞を国家的行事のようにとらえることは科学の本質に反する本末転倒である。

[追記]
山中氏の受賞直後、別の日本人研究者がiPS細胞を使った世界初の心臓移植手術に成功したとするスクープ報道がなされたが、その内容が虚偽である可能性が明らかとなった。この見事な勇み足は、またしても「日本人」という属性に目を奪われ、研究内容の信憑性には二次的関心しか示さない主観的なナショナリズムのなせる業と言える。

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