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終わりの始まり

2011-08-22 | 時評

ドル安が止まらない。

今後一時的に持ち直すことはあり得ても、長期的に見れば、ドルの価値は1970年代から長期低落傾向にある。2008年の世界大不況(俗に言うリーマン・ショック)以来、米国債とともに凋落が加速しているだけのことだ。

これは要するに、資本主義総本山・米国の凋落を象徴している経済現象である。総本山の凋落はひいては資本主義全体の終わりの始まりを意味すると読むのが自然であろう。

いや、これからは中国だ、インドだ、ブラジルだ・・・という意見もある。たしかに、これらいわゆる新興諸国の資本主義的成長は目覚しい。けれども、新興国の正体は途上国。非常に不安定な土台の上に立ってアクロバット的体操を試みるに等しいことをやろうとしている。中国での新幹線事故はその小さな兆候であった。

こうした超短期での野心的な経済成長を狙った発展モデルはおおむね戦後日本の発展モデルの焼き直しであるから、基本的に日本と同様のプロセスを辿るだろう。その日本はといえば、1950乃至60年代にかけての「驚異の高度成長」を経て石油ショック不況を経験した1970年代半ば以降、30年以上かけてゆっくりと下り坂を転げている。新興諸国の成長にもいつか限界点が来ることは確実だ。

総体としてみれば、新興諸国の成長現象も、「資本主義の終わりの始まり」現象の渦中で咲いているあだ花と見ておいて損はない。

となると、そろそろ「資本主義の次」を考え始めてよい時期だろう。これについての筆者の管見は別ブログに連載した『共産論』で展開しているが、もちろん拙見だけが唯一の解答であるなどと言い立てるつもりはない。今は、百家争鳴的に多様な考えが出されるべき時だ。

ただ、ポイントは「計画経済の再発見」にあると思う。

現在の世界が当面する地球環境問題や食糧問題、さらに先進国でも表面化する貧困問題といった深刻な問題群を根本から解決するのに、「市場」という観念が役に立たないことはすでに明白であり、やはり必要な財・サービスを生態学的にも持続可能な方法で計画的に生産・分配するという計画経済の原理を練り上げ直す必要は否めないからである。

とりわけ、現在は生態学的持続可能性という課題が、計画経済を要請している。

この点については、欧州の緑の党をはじめ、エコロジストらの認識も甘いのではないか。かれらの多くは「環境にやさしい市場」を構築可能だと信じたがっているように見えるからだ。だが、現実がそれほど生やさしくはないことは、気候変動問題一つとってもはっきりしていないか。利潤蓄積を死活原理とする資本主義―それなくして資本主義は持続しない―に地球の姿は目に入るまい。

もちろん、計画経済といっても、評判の悪かった旧ソ連型の官僚的な計画経済モデルを博物館から引っ張り出してくる必要はない。もっと実効的で、人間の顔をした計画経済を新たに創案することである。

そういうことに寄与しようとする人々がもっと増えれば―現状、ほとんどいない?―真の「希望」も見えてくるだろう。「資本主義の終わりの始まり」を意識しないままに「希望」を説いても、それは「絶望」のもう一つの顔にすぎないのだから。


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