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マルクス/レーニン小伝(連載第27回)

2012-10-25 | 〆マルクス/レーニン小伝

第1部 略

第5章 「復活」の時代

(2)エンゲルスからレーニンへ

エンゲルス没後のマルクス主義
 エルフルト綱領によってドイツ社会民主党がマルクス主義政党として再出発して以来、ドイツがマルクス主義のメッカとなる。従って、エンゲルス没後のマルクス主義をリードしていくのはドイツ社民党のイデオローグたちであった。
 しかし、(1)でも触れたように、エルフルト綱領はマルクス主義に立脚しながらもゴータ綱領以来の穏健な改良主義的要素をなお残しており、この要素は党が議会政党としてめざましい成功を収めるにつれて次第に色濃くなっていく。
 そうした傾向を代表するイデオローグがカール・カウツキーとエドゥアルト・ベルンシュタインであった。二人はともに晩年のエンゲルスの薫陶を受けたマルクス主義第二世代のイデオローグであった。
 このうちベルンシュタインはエンゲルスの死後いち早く1899年に主著『社会主義の諸前提と社会民主主義の諸課題』を発表し、マルクスの唯物史観や剰余価値といった基礎理論に始まり、階級闘争やプロレタリアート独裁といった実践論に至るまですべてを総批判するとともに、ドイツ社民党は資本主義の枠内で労働者の生活状態を改善していくことに努力を集中すべきことを説いたのである。
 こうしたベルンシュタインのマルクス主義内部からの公然たるマルクス批判は当然にも波紋を呼び起こし、彼は「背教者」「異端者」呼ばわりされ、彼と彼を支持するグループには「修正主義」のレッテルが貼られることとなった。
 しかし、フェビアン協会など英国の改良主義的な社会主義の影響を受けていたベルンシュタインの所論は、マルクスの批判的経済理論を捨てて、カール・メンガーらの限界効用理論へ転向するものであったから、実質的にみてマルクス理論の単なる「修正」にとどまらない「離脱」を示しており、正確には「離脱主義」と呼ばれるべきものであった。こうして、彼こそは反マルクス主義的・反共主義的な現存社会民主主義の祖でもあった。
 ベルンシュタインは余りに公然と党の改良主義的穏健化路線を称揚しすぎたため非難を浴びたのだったが、当時彼を批判した一人でもあったカウツキーも、マルクス理論を希釈化して穏健化路線に符丁を合わせていく点では同様の基盤を持っていた。
 エンゲルスがやり残した『資本論』第4巻の編者となったチェコ出身のカウツキーはベルンシュタインほど公然とマルクス理論を放棄しなかったとはいえ、プロレタリア革命論については、これを大幅に抽象化して、資本主義が将来必然的に崩壊する寸前の政権移行事務のようなものに限定しようとする。従って、それまでの間、社民党は議会政治の枠内で活動し、革命の時機が訪れるのを待機していればよいとされる限りで(革命待機論)、穏健化路線の支持者となるのである。
 こうしたカウツキーの立場は、ベルンシュタインのように資本主義を積極に受容する右派、あくまでもプロレタリア革命の道を具体的に追求すべきとするローザ・ルクセンブルクらの左派に対して中央派とも呼ばれるが、実質的にはカウツキーのような立場こそ、マルクス理論を穏健主義的に解釈し直す「修正主義」と呼ばれるのが正確であろう。ただし、カウツキーも最終的に、ベルンシュタインの路線が党内に浸透し始めた1910年代には「離脱主義」へ合流していくのである。

革命家レーニン登場
 ドイツのマルクス主義が次第に改良主義的穏健化の道を進んでいく頃、ロシアでは別の動きが始まっていた。元来、ロシアでは1872年にいち早く『資本論』初の外国語訳としてロシア語版の訳者となったニコライ・ダニエリソーン(筆名ニコライ‐オン)、『共産党宣言』のロシア語新版の訳者となったヴェラ・ザスーリチら生前のマルクスとも文通していたナロードニキ系知識人・運動家によってマルクスの紹介がなされていた。
 そうした中で、やはりナロードニキからマルクス主義に転向したゲオルギー・プレハーノフがロシア・マルクス主義の理論指導者として台頭する。プレハーノフの所論はロシアでも1880年代頃から急速に資本主義が勃興し始めた社会変化を反映して、ナロードニキが従前主張してきたような農業国ロシアの特殊性に基づく資本主義を飛び越えた農民革命・農民社会主義ではなく、西欧と同様にマルクス的なプロレタリア革命を通じた社会主義をロシアでも展望することができるとの主張であった。
 その際、彼はまずブルジョワ革命によりロシア帝政が打倒され、自由主義的な「法治国家」が樹立された後、資本主義が高度に発達し、資本主義的諸関係の矛盾が爛熟した時点で、プロレタリア革命により社会主義へ移行するという道筋を描いた点で、マルクス理論を図式化する教条主義的な立場を採っていた。
 こうしたプレハーノフの影響を受けつつ、ロシア・マルクス主義の次世代リーダーとして台頭してくるのが、ウラジーミル・レーニン(本名ウリヤノフ)であった。ナロードニキを経由せずに初めからマルクス主義者となったロシアにおける最初の世代である彼は、弁護士となり、非合法の政治結社を組織したかどで検挙され、流刑を終えた後、頭角を現した。
 彼は1903年、ブリュッセルでプレハーノフらとともにマルクス主義政党・ロシア社会民主労働者党の再建―最初の党組織は1898年にミンスクで別のグループによって結成されたが、直後に当局の弾圧を受けて事実上解体していた―を主導するのである。


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