十六 中国共和革命:辛亥革命
(2)前段階的ナショナリズム
20世紀初頭の中国で共和革命が勃発するまでには、19世紀後半期におけるかなり長い前段階的プロセスを必要とした。その過程では、二つのナショナリズムの潮流が動因として相次ぎ興隆している。初めの一つは、満州人(女真族)に支配された異民族支配王朝である清朝に対する漢民族のナショナリズムである。
この漢族ナショナリズムは、かつてモンゴル人の元朝に対する抵抗運動に際しても動因となったものであり、この時は最終的に漢民族系の明朝の成立として実現したのであるが、清朝に対する漢民族の抵抗はいささか変則的な形で現れた。それが、1853年から64年にかけ、南京を占領して清朝の権力が及ばないある種の解放区を形成した太平天国である(拙稿参照)。
太平天国はキリスト教の影響を受けつつ、中国土着の宗教を習合させた新興宗教結社である拝上帝会を中心とする宗教的ユートピアであったが、軍を組織して決起するに当たり、「滅満興漢」のスローガンを掲げたことが成功要因となった。
清朝成立以来、明確に清朝支配の打倒を掲げた運動が地方的とはいえある種の革命に結実したのは、これが初めてであった。とはいえ、太平天国はその理念において万民平等や男女平等などの革新性を示しはしたものの、最高指導者で教祖の洪秀全が「天王」を称して君臨する一種の宗教王国であり、近代的な共和制には程遠いものであった。
最終的に洪秀全が病死すると、間もなく清朝軍の掃討作戦により滅亡に追い込まれ、結局全国的な体制となることなく太平天国の夢は潰えた。同時に清朝がなお健在ぶりを示したことで、「滅満興漢」も現実性を失ってしまった。
一方、この時代の清朝はアヘン戦争敗戦後にあって、英仏をはじめとする西洋列強からの攻勢にあい、租借の形で領土を蚕食されている最中であった。その延長上で、19世紀末にはフランスや日本との戦争にも相次いで敗れ、中国は半植民地化の状態に陥っていった。
こうした中で、新たに対外的な関係で清朝を救い、国の独立を回復しようという方向のナショナリズムが興隆する。これを象徴するスローガンが「扶清滅洋」であり、それが一気に対外戦争として表出されたのが1900年における「義和団の乱」であった。
この戦争は、従来のように清朝対列強という国家間戦争ではなく、民衆蜂起の形を取った抵抗戦争であった点に特徴があり、それを主導したのが新たな新興宗教結社の義和団、またの名を義和拳教であった。義和拳教は宗教性を帯びた武術団体を基礎とする宗教結社で、拝上帝会のようなカリスマ的教祖を持たない自然発生的な民衆組織であった。
義和団の蜂起はこれを時の清朝最高実力者であった西太后が支持したため、事実上清朝対日本を含む列強八か国間の戦争に発展したが、このような多国籍軍を相手とすれば、清朝に勝算はなかった。
清朝が態度を一変して義和団を反乱軍と認定し、鎮圧に動くと、朝廷の裏切りに失望した義和団は「掃清滅洋」にスローガンを変え、清朝と列強双方の打倒を目指すようになった。ここから、改めて清朝打倒の動因が再生されたのである。
とはいえ、「滅満興漢」にせよ、「掃清滅洋」にせよ、それは近代的なナショナリズムとは異質の思想であり、その運動を担う勢力はいずれも前近代的な思考になお係留された宗教結社であったことに本質的な限界があった。「掃清滅洋」が近代的な革命運動に結晶するには、別筋からのナショナリズムの台頭を待つ必要があった。