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農民の世界歴史(連載第12回)

2016-11-01 | 〆農民の世界歴史

第3章 中国の農民反乱史

(4)太平天国の夢

 李自成の農民反乱を横取りする形で中国大陸の新たな覇者となった女真系後金は間もなく、清に国号を改称し、中国最後となる王朝を確立した。これもモンゴル系元と同様の異民族王朝であったが、はるかに卓越した統治能力を持つ王朝であった。
 清の繁栄は17世紀から18世紀にかけて続き、この間、農業生産力の増大もあり、今日の巨大人口・中国につながる最初の人口爆発現象が起きる。この時代の人口爆発は、ほぼ農民人口の増大を意味していた。繁栄の果実であった人口爆発は食糧難の要因となり、かえって19世紀以降、清体制が衰退・同様する契機ともなる。対外的にも、西洋列強の進出が活発化し、1840年のアヘン戦争が大きな転機となる。
 アヘン戦争での敗北後、アヘン輸入量の増加とそれに伴う銀の高騰は、銀納税が定着して久しい農村経済を圧迫し、流民を出す一方で、農民の団結力を高め、結社運動も盛んになった。そうした中、1851年に勃発したのが太平天国の乱である。これは、客家出身の科挙試験落第者洪秀全を指導者とする宗教結社太平天国が起こした乱で、南京を占領し、十年以上にわたり一種の解放区を維持したもので、歴史用語としての単なる「乱」を越えた革命であった。
 太平天国は当初、拝上帝会を名乗っていたように、当時中国社会にも広く浸透していたキリスト教から派生した新興宗教結社である点で、従来の宗教結社とは異なる新しい潮流を象徴していた。しかも、太平天国というわかりやすいユートピアのイメージも、大衆を動員し得た秘訣であったろう。
 参加者は必ずしも農民とは限らなかったため、太平天国の乱を単純な農民反乱とみなすことは正確でないが、その末端は貧農や逃亡農民等であったため、農民反乱の性格をも帯びていた。同時に、「滅満興漢」の民族主義的なスローガンも掲げる漢人の民族主義レジスタンスの性格もあった。
 しかし、従来の一揆的な反乱とは異なり、天朝田畝制のような明確なイデオロギーと政策綱領を擁していた。その中心は農地を生産性により九階級に分け、男女問わず分配し、生産物は個自の消費分以外は国庫に保管し私有は認めない。冠婚葬祭儀礼の費用や孤児・老人の扶養料は国庫から支出するといったもので、全体として農村共産主義の先駆け的な思想を示していたのである。
 これだけ見れば、農村共産主義革命と評価できる点もあり、事実、後の中国共産党は太平天国を先行の範例として大いに参照したのである。しかし、共産党体制と異なり、太平天国は持続的ではなかった。一つには当時の清朝は動揺しながらもなお事態掌握力を保持していたこともあるが、それ以上に、太平天国指導部が堕落したことである。
 如上のような理想主義的綱領は何一つ実現しなかったばかりか、洪秀全は天王を称して壮麗な宮殿に鎮座し、皇帝然として民衆とは接しなかった。統治手法も、清朝との対峙を名目に、軍事独裁制に近いものであるばかりか、天王以下指導部にだけ一夫多妻特権を認めるなど、道義的にも堕落・反動化していた。しかも、天王洪秀全は政務を主導しようとしないため、当初は炭売り出身の楊秀清が事実上の宰相格となり、次第に専横化していく。
 楊独裁に対する反感から、指導部の内紛も激しくなり、56年の内乱(天京事変)では楊一族とその配下二万人が粛清される事態となった。それでも、洪秀全の権威の下、新指導部を再編して太平天国は続いていくが、清朝側でも弱体化した中央軍に代え、地方軍閥や西洋人傭兵隊による掃討作戦が展開され、太平天国は追い詰められていく。
 最終的には、64年の洪秀全の死が打撃となり、太平天国は崩壊した。結局のところ、この革命は洪秀全個人のカリスマ性によって支えられていた点に限界があった。同時に、革命が理念・綱領倒れに終わりやすいことを示す教訓事例でもあった。
 こうして、太平天国は儚い夢として潰えたが、その経験は後の近代革命家たちにも少なからぬ影響を及ぼし、巨大な農村人口を擁する農業大国・中国における革命のあり方に関しては、半世紀以上後のロシア革命以上に重要な先例となるのである。


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