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貨幣経済史黒書(連載第31回)

2019-12-08 | 〆貨幣経済史黒書

File30:ソ連解体と「ショック療法」経済

 1991年12月、世界を驚かせたのは、アメリカ合衆国と長く対抗してきた超大国ソヴィエト連邦が突然、解体されたことである。その背景的な要因としては、前回見た「不足経済」のような構造的な経済危機もあったが、解体自体は同年8月の保守派クーデター未遂事件後のある種革命的な動乱という政治的要因によるものであった。
 ここでの問題は、解体された後の経済的大混乱、とりわけソ連邦を構成した15の共和国の中でも盟主格だったロシアで起きた大混乱の件である。同様の大混乱は、程度の差はあれ、他の構成共和国、さらには同時期にソ連型の社会主義体制を脱した東欧諸国でも起きていたが、人口も多いロシアのそれが最も悲惨な結果を招いた。
 この大混乱は、ソ連時代の社会主義中央計画経済を資本主義市場経済に転換する過程で起きた。そのような転換の当否はさておき、経済体制の歴史的転換を実現するには、混乱を最小限に抑制するための周到なプログラムを要するはずだった。ところが、当時ロシアを率いていたのはソ連解体を主導したボリス・エリツィン大統領で、彼はある種の“革命家”として、より急進的な方法を望んだ。
 それが「ショック療法」と呼ばれる一連の経済政策であり、これは「純粋資本主義」を目指し、資本主義市場経済化を一挙に実現しようとする過激な政策であった。その背後には、戦後の通貨制度の番人とも言える国際通貨基金(IMF)とその実質的な司令塔であるアメリカの助言、さらにはアメリカで主流的なマネタリストのイデオロギーがあった。
 価格・貿易・通貨すべての自由化に及んだ「ショック療法」の中でも、人々の生活を直撃したのは、価格統制の撤廃であった。これにより、ソ連時代の「不足経済」は解消され、商品は流通するようになったが、年率2500パーセントを超える異常なハイパーインフレーションを来たした。かつては買う金はあるが、品物がない状態から、今度は品物はあるが、買う金がない状態への転換である。
 非効率で、「不足経済」の元凶でもあった国有企業の民営化も「ショック療法」の主要なプログラムであったが、エリツィン政権が財政危機対策として導入した株式担保融資という便法により、多くの国有企業が自身の蓄財を動機とする思惑的な新興企業家の手に渡り、生産活動を停滞させた。
 結果、新生ロシアの国内総生産(GDP)は発足二年目の1992年、前年比で15パーセント近く落ち込み、エリツィン政権が続いた1990年代を通じて半分以上も低下した。これは恐慌とは別種ながら、症候としては恐慌に類似した現象であった。識者の中には、かつてソ連が回避できた1929年大恐慌になぞらえる者もいたほどである。
 この間、失業・貧困の増大で20世紀最終年度の2000年には貧困率30パーセントという状況であったが、その一方で、国有企業の民営化過程で形成された新興資本家オリガルヒは寡占財閥を形成し、政権とも癒着するある種の政商となった。こうした粗野とも言うべき露骨な貧富格差構造が生まれたのも、「ショック療法」経済の帰結である。
 歴史的に見れば、「ショック療法」は帝政ロシア時代晩期に未成熟ながら形成されていた独占資本主義段階に立ち戻るような帰結をもたらしており、これは凄惨な内戦という代償を払って成功させたロシア革命を否認する反革命反動であったが、貨幣経済をうまく制御できなかった点では、ソ連時代の中央計画経済も同列である。
 ともあれ、「ショック療法」経済はエリツィン政権の1990年代を通じて続いたから、新生ロシアにとっての1990年代は、同時期、全く異なる要因から経済危機に直面していた日本とともに、「失われた10年」となった。それが収拾されるのは、2000年のウラジーミル・プーチン大統領の就任をはさみ、21世紀のことである。


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