日本を代表する音楽家「貴志康一氏」の生家でもあった西尾邸は
「仙洞御料の庄屋を務めていた 旧西尾家住宅」の続きです。
主屋を出て庭園の木立の中を歩いて行くと・・・左手に
緑を愛でながらお茶が点じられる茶室「積翠庵」がありました。
茶室「積翠庵(せきすいあん)」
この茶室は薮内流10代家元・休々斎の指導で明治26年(1893)に建てられたもので、薮内家を代表する名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られています。燕庵を模して造ることが許されるのは、薮内流皆伝を授かった者だけでした。
写真の茶室「積翠庵」は、当主の号に因み積翠庵と名づけられたそうです。離れて造られているのですが、水屋を介して巧みに結合させ一棟になっていました。
お一人のお客様の時に使われていたそうです。
(積翠庵の写真右側です。)
当時、年に数回ある「積翠庵のお茶席」は抽選だったので
遠くからも何度も申し込まれて、来られていたそうです。
抽選に当たった方は
お庭にある「四腰掛」でご亭主のお出迎えを待ちます。順番が来るとお茶室の前にある手水で、左手、右手、口の中を清め、勺を立てて持ち手に水をかけ元通りに置いてから、お茶室に向かいます。
四腰掛の説明です。
四腰掛(よつこしかけ)
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われる「四腰掛」は
どの腰掛に座っても、他の腰掛に座っている人とは正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛でした。
宝形屋根(ほうぎょうやね)
明治三十九年(1906)ごろの建築だと
庭園に関する記録から推定されています。
私が行ったのは、2009年06月17日でしたので同じ年の
2009年(平成21年)12月8日、重要文化財に指定されました。
「仙洞御料の庄屋を務めていた 旧西尾家住宅」の続きです。
主屋を出て庭園の木立の中を歩いて行くと・・・左手に
緑を愛でながらお茶が点じられる茶室「積翠庵」がありました。
茶室「積翠庵(せきすいあん)」
この茶室は薮内流10代家元・休々斎の指導で明治26年(1893)に建てられたもので、薮内家を代表する名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られています。燕庵を模して造ることが許されるのは、薮内流皆伝を授かった者だけでした。
写真の茶室「積翠庵」は、当主の号に因み積翠庵と名づけられたそうです。離れて造られているのですが、水屋を介して巧みに結合させ一棟になっていました。
お一人のお客様の時に使われていたそうです。
(積翠庵の写真右側です。)
当時、年に数回ある「積翠庵のお茶席」は抽選だったので
遠くからも何度も申し込まれて、来られていたそうです。
抽選に当たった方は
お庭にある「四腰掛」でご亭主のお出迎えを待ちます。順番が来るとお茶室の前にある手水で、左手、右手、口の中を清め、勺を立てて持ち手に水をかけ元通りに置いてから、お茶室に向かいます。
四腰掛の説明です。
四腰掛(よつこしかけ)
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われる「四腰掛」は
どの腰掛に座っても、他の腰掛に座っている人とは正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛でした。
宝形屋根(ほうぎょうやね)
明治三十九年(1906)ごろの建築だと
庭園に関する記録から推定されています。
私が行ったのは、2009年06月17日でしたので同じ年の
2009年(平成21年)12月8日、重要文化財に指定されました。
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