下御茶屋→中御茶屋のつづき・・・
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中御茶屋から上御茶屋へ向かうには、下御茶屋東門を出たところに戻り
東方向(正面)の松並木の連絡路を進みます。
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連絡路から見える、横一直線に延びる三段の高生垣と大かりこみは
丘陵をつないでいるように見えます。
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上御茶屋表門(御成門 ごせいもん)の手前に電気さくがあります。
田畑の農作物を守るための電気さくでしょうか?
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上御茶屋表門
下御茶屋の御幸門とよく似た簡素なつくりの門ですが
欄間には大きい花菱模様の透かし彫りが施されています。
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表門から隣雲亭に向かう石段からの眺望です。
正面近景には山端(やまはな)・松ヶ崎・宝ヶ池・深泥池が、右手に岩倉から鞍馬・貴船の山々が北山につづき、左手には京都市街を一望して、遠く愛宕山から西山の峰々が見渡せます。
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隣雲亭(りんうんてい)です。
海抜149メートルあまりの高所に建っています。
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赤と黒の小さい鴨川石「一二三石 (ひふみいし)」
隣雲亭の西側と南側には深い土廂(どびさし)をめぐらし、土廂の下は葛石(かずらいし)で縁取りをした叩きの土間に埋め込められています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/ae/9bc4860f3000a9ba4881b6a63330118a.jpg)
六畳の一の間
隣雲亭の亭内は北側から四畳ほどの洗詩台(せんしだい)と呼ばれる板間、六畳の一の間、三畳の二の間で構成され、壁が、床、棚もなく、外回りも間仕切りすべて明障子(あかりしょうじ)を建て込んだだけの景観眺望のための亭です。
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万松塢(ばんしょうう)
千歳橋と呼ばれる石橋が、窮邃亭(きゅうすいてい)のある中島万松塢をつないで架けられています。
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千歳橋
切り石を組んだ橋脚二基に一枚いしを渡し、二つの橋脚に宝形造りと寄棟造りの四阿風(あずまやふう)なものを建ててこれをつないでいる。中国的な感じです。
宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものです。
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楓橋
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楓橋を渡って中島にある窮邃亭(きゅうすいてい) へ
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窮邃亭の上段の間
後水尾上皇の宸筆「窮邃」は、それぞれの文字を八角形で囲み、まん中を水引結んだ対称な意匠の扁額です。その下には、四角いくつぬぎ石が据えられています。
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窮邃亭の内部は十八畳の一間で、床も飾り棚も簡素なつくりですが、西から北に鉤(かぎ)の手に曲がった台目畳六畳の上段がしつらえています。
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浴龍池北岸の舟着
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舟着から千歳橋を見る。
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西浜から、窮邃亭より渡った土橋が見えます。
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西浜苑路から見える西側の眼下。
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西浜の苑路より隣雲亭を望む。
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雌滝
池の南岸東隅、表門近くの苑池にあり修学院離宮参観の終点でもありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ba/1e0ff090735e914b47609ba53605d70b.jpg)
浴龍池(よくりゅうち)
島の形を泳ぐ龍の姿に見立てたものといわれ、池を巡って苑路があります。
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下御茶屋東門(中御茶屋と上御茶屋に通ずる門)
上御茶屋を出ると、下御茶屋東門から北側を通り御幸門へと戻りました。
修学院離宮は、谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園でした。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となり、中御茶屋は同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入されました。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられ、宮内庁が管理となりました。
見学には、事前に宮内庁京都事務所に申し込んで参観してきました。
宮内庁のホームページ こちらでご覧ください。
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中御茶屋から上御茶屋へ向かうには、下御茶屋東門を出たところに戻り
東方向(正面)の松並木の連絡路を進みます。
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連絡路から見える、横一直線に延びる三段の高生垣と大かりこみは
丘陵をつないでいるように見えます。
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上御茶屋表門(御成門 ごせいもん)の手前に電気さくがあります。
田畑の農作物を守るための電気さくでしょうか?
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上御茶屋表門
下御茶屋の御幸門とよく似た簡素なつくりの門ですが
欄間には大きい花菱模様の透かし彫りが施されています。
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表門から隣雲亭に向かう石段からの眺望です。
正面近景には山端(やまはな)・松ヶ崎・宝ヶ池・深泥池が、右手に岩倉から鞍馬・貴船の山々が北山につづき、左手には京都市街を一望して、遠く愛宕山から西山の峰々が見渡せます。
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隣雲亭(りんうんてい)です。
海抜149メートルあまりの高所に建っています。
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赤と黒の小さい鴨川石「一二三石 (ひふみいし)」
隣雲亭の西側と南側には深い土廂(どびさし)をめぐらし、土廂の下は葛石(かずらいし)で縁取りをした叩きの土間に埋め込められています。
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六畳の一の間
隣雲亭の亭内は北側から四畳ほどの洗詩台(せんしだい)と呼ばれる板間、六畳の一の間、三畳の二の間で構成され、壁が、床、棚もなく、外回りも間仕切りすべて明障子(あかりしょうじ)を建て込んだだけの景観眺望のための亭です。
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万松塢(ばんしょうう)
千歳橋と呼ばれる石橋が、窮邃亭(きゅうすいてい)のある中島万松塢をつないで架けられています。
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千歳橋
切り石を組んだ橋脚二基に一枚いしを渡し、二つの橋脚に宝形造りと寄棟造りの四阿風(あずまやふう)なものを建ててこれをつないでいる。中国的な感じです。
宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものです。
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楓橋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/28/b41aea88de8d0aadee0c0f2662c9f4aa.jpg)
楓橋を渡って中島にある窮邃亭(きゅうすいてい) へ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/f6/77b20500bf59609926ad9173283f564e.jpg)
窮邃亭の上段の間
後水尾上皇の宸筆「窮邃」は、それぞれの文字を八角形で囲み、まん中を水引結んだ対称な意匠の扁額です。その下には、四角いくつぬぎ石が据えられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/7e/dd87caf1fb9cbc5602e6e72033e4e95e.jpg)
窮邃亭の内部は十八畳の一間で、床も飾り棚も簡素なつくりですが、西から北に鉤(かぎ)の手に曲がった台目畳六畳の上段がしつらえています。
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浴龍池北岸の舟着
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舟着から千歳橋を見る。
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西浜から、窮邃亭より渡った土橋が見えます。
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西浜苑路から見える西側の眼下。
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西浜の苑路より隣雲亭を望む。
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雌滝
池の南岸東隅、表門近くの苑池にあり修学院離宮参観の終点でもありました。
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浴龍池(よくりゅうち)
島の形を泳ぐ龍の姿に見立てたものといわれ、池を巡って苑路があります。
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下御茶屋東門(中御茶屋と上御茶屋に通ずる門)
上御茶屋を出ると、下御茶屋東門から北側を通り御幸門へと戻りました。
修学院離宮は、谷川を堰き止めた人工池を中心とした広大な庭園でした。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となり、中御茶屋は同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入されました。修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられ、宮内庁が管理となりました。
見学には、事前に宮内庁京都事務所に申し込んで参観してきました。
宮内庁のホームページ こちらでご覧ください。
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