③「大寅→劔鎧護法堂(けんがいごほうどう)」の続きです。
劔鎧護法堂から赤門前の大寅へ戻ってきました。
今から1400余年の昔、聖徳太子がこの山で毘沙門天王をご感得され、ご利益を頂かれたのが「寅の年、寅の日、寅の刻」であったといわれています。
張り子の寅は
ゆらゆらと首を振る姿から「よく首が回る(何事にも不自由しない)」というご利益があると云われています。
赤門前に小寅がいました。
小寅の上に「本堂」が見えています。
寛政5年(1793年)7月再建。
赤門を入って本堂に向かいます。
赤門を入って振り返ったところです。
矢印の所が、劔鎧護法堂への参道になります。
私たちは、左の道から本堂へ向かいました。
信貴山はとても広いですが、心強い友人が一緒なので
体力の許す限り歩きたいと思ってます。
参道右から寅が少し見えています。
まだ信貴山の入り口ですが
参道から「寅」が見守ってくれているようです。
本坊に向かっていますが
写真の左上に、何か見えています。
聖徳太子御像
その像は「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けた
横笛を吹く「聖徳太子(厩戸皇子(うまやとのみこ))」です。
彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう)氏の作で
あの有名な「長崎平和祈念像」の作者でした。
「かやの木稲荷稲荷大明神」の石碑があります。
樹齢1500年の「榧(かや)の木」です。
蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。
この御神木を敬い稲荷社を建立されていました。
本坊は、1854年頃に大阪堂島の木綿屋・梅蔵が寄進されました。
本坊の玄関です。
奥には生花が飾られ、寅が迎えてくれています。
「銘木 梅の木」 樹齢400年余年
西暦1540余年、織田信長の攻略にあい灰じんになった本堂を豊臣秀頼公が再建し、この地に梅の木を手植えして祈願所にしました。
長くなりますので、次へと続きます。
劔鎧護法堂から赤門前の大寅へ戻ってきました。
今から1400余年の昔、聖徳太子がこの山で毘沙門天王をご感得され、ご利益を頂かれたのが「寅の年、寅の日、寅の刻」であったといわれています。
張り子の寅は
ゆらゆらと首を振る姿から「よく首が回る(何事にも不自由しない)」というご利益があると云われています。
赤門前に小寅がいました。
小寅の上に「本堂」が見えています。
寛政5年(1793年)7月再建。
赤門を入って本堂に向かいます。
赤門を入って振り返ったところです。
矢印の所が、劔鎧護法堂への参道になります。
私たちは、左の道から本堂へ向かいました。
信貴山はとても広いですが、心強い友人が一緒なので
体力の許す限り歩きたいと思ってます。
参道右から寅が少し見えています。
まだ信貴山の入り口ですが
参道から「寅」が見守ってくれているようです。
本坊に向かっていますが
写真の左上に、何か見えています。
聖徳太子御像
その像は「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けた
横笛を吹く「聖徳太子(厩戸皇子(うまやとのみこ))」です。
彫刻家・北村西望(きたむらせいぼう)氏の作で
あの有名な「長崎平和祈念像」の作者でした。
「かやの木稲荷稲荷大明神」の石碑があります。
樹齢1500年の「榧(かや)の木」です。
蘇我一族と物部一族が政治の実権を握るため争っていた大和朝廷の時代に、一粒の榧の実が萌芽して以来、有為転変する世相を鳥瞰してきた御神木です。
この御神木を敬い稲荷社を建立されていました。
本坊は、1854年頃に大阪堂島の木綿屋・梅蔵が寄進されました。
本坊の玄関です。
奥には生花が飾られ、寅が迎えてくれています。
「銘木 梅の木」 樹齢400年余年
西暦1540余年、織田信長の攻略にあい灰じんになった本堂を豊臣秀頼公が再建し、この地に梅の木を手植えして祈願所にしました。
長くなりますので、次へと続きます。
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