2022年6月28日(火)に「九州北部・四国・中国・近畿・北陸が梅雨明けしたとみられる」と気象庁の発表がありました。 でも、梅雨明けの数日後から今朝も梅雨のような雨の日が続いています。
手水処「弘法岩五鈷水」のつづきです。
正面の山は一の谷に繋がる山です。
「源平の庭」は、この道の左にあります。
左の道に入ると、蕪村の句碑がありました。
「笛の音に 波もよみくる 須磨の秋 蕪村」
須磨寺には、句碑・歌碑 他など合わせて24の碑があるそうです。
左に見える建物は、通り過ぎてきた「楼寿院」です。
源平の庭
句碑のすぐ右に見えるのが「源平の庭」でした。
源平の庭は、一の谷の戦いでの
平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭です。
源平合戦は、1180年の以仁王の反乱から1185年の壇ノ浦の戦いまでの5年間の源氏と平氏の争いのことです。
平 敦盛(たいら の あつもり)
笛の名手「平 敦盛」は
平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。
平家一門として、一ノ谷の合戦に出陣しましたが
16歳の若さで命を散らした悲劇の貴公子です。
熊谷 直実(くまがい なおざね)
一の谷の戦い(1184年)で、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、法然上人の門に入り修行に励みました。
直実は法然上人の勧めによって、建久元1190年に高野山で敦盛の七回忌法要を執り行い、青葉の笛は須磨寺に奉納され宝物館で保管されています。
多くの人に歌われた「青葉の笛」は
熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛のことです。
宝物館で「青葉の笛」を見ることが出来るので楽しみです。
経塚
宝物殿の近くにある経塚です。
濱田篤三郎(竹坡)翁が、明治39年(1906)に建立しました。
濱田篤三郎氏は
東の渋沢栄一、西の濱田篤三郎と言われるほど
大物の実業家だったそうです。
植桜記碑
「花千母登 むかし稚木の さくら哉 神田松雲」
写真左の「源平の庭」から「経塚」→「植桜記碑」を通り
唐門へ上がる階段の下に出てきました。
この後も長くなるので、次へとつづきます。
手水処「弘法岩五鈷水」のつづきです。
正面の山は一の谷に繋がる山です。
「源平の庭」は、この道の左にあります。
左の道に入ると、蕪村の句碑がありました。
「笛の音に 波もよみくる 須磨の秋 蕪村」
須磨寺には、句碑・歌碑 他など合わせて24の碑があるそうです。
左に見える建物は、通り過ぎてきた「楼寿院」です。
源平の庭
句碑のすぐ右に見えるのが「源平の庭」でした。
源平の庭は、一の谷の戦いでの
平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭です。
源平合戦は、1180年の以仁王の反乱から1185年の壇ノ浦の戦いまでの5年間の源氏と平氏の争いのことです。
平 敦盛(たいら の あつもり)
笛の名手「平 敦盛」は
平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。
平家一門として、一ノ谷の合戦に出陣しましたが
16歳の若さで命を散らした悲劇の貴公子です。
熊谷 直実(くまがい なおざね)
一の谷の戦い(1184年)で、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、法然上人の門に入り修行に励みました。
直実は法然上人の勧めによって、建久元1190年に高野山で敦盛の七回忌法要を執り行い、青葉の笛は須磨寺に奉納され宝物館で保管されています。
多くの人に歌われた「青葉の笛」は
熊谷直実に討たれた平敦盛が身に着けていた竹笛のことです。
宝物館で「青葉の笛」を見ることが出来るので楽しみです。
経塚
宝物殿の近くにある経塚です。
濱田篤三郎(竹坡)翁が、明治39年(1906)に建立しました。
濱田篤三郎氏は
東の渋沢栄一、西の濱田篤三郎と言われるほど
大物の実業家だったそうです。
植桜記碑
「花千母登 むかし稚木の さくら哉 神田松雲」
写真左の「源平の庭」から「経塚」→「植桜記碑」を通り
唐門へ上がる階段の下に出てきました。
この後も長くなるので、次へとつづきます。