kenroのミニコミ

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戦争の民営化の実相  ケン・ローチ「ルート・アイリッシュ」

2012-04-08 | 映画
ジャーナリストの安田純平さんがイラクで取材中武装勢力に拘束され、日本で「そのような危険なところ行くから」「自己責任だ」とすさまじいバッシングを受けたのが2004年。安田さんはその後、民間会社の手による軍事進攻の象徴たる米軍展開後のイラクの実相をルポしようと、料理人として入り込んだ。『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書)としてイラク戦争がいわば国家の戦争ではなく、ある意味私企業主導であること、公務員たる軍人を派遣するより「民間人」を募ることによってはるかに安くつくこと、そしてその「民間人」にも明らかな人種格差、貧困の実態が深層にあることを明らかにして好著だった。
ケン・ローチの最新作は、イラクでの民間(軍事)会社(PMC)のすさまじい関与の実態と、そこに雇われたコントラクター(民間兵)の傷をあますところなく描いていると思う。戦争が国家による国軍兵士による、国家の責任と管理・統制によって行われていたのは20世紀の話。イラク戦争はアメリカの石油関連企業が自己の営利目的を遂行するのにサダム・フセインが邪魔であるからおこしたとまことしやかに言われていたが、あながちウソではないと思う。イラクに展開した米軍を支えたのはPMC、石油利権が大きいハリバートンであるとか、ベクテルであるとか、昨年NYを席巻した貧困デモ「我々は99%だ」の対極に位置する年収が億単位の経営者たちの会社だ。
ストーリーはローチらしく複雑なものではない。イラクでコントラクターの経験のあるファーガスは会社を興し、イギリスに帰国している。幼馴染の親友フランキーがイラクで襲撃され死ぬが、その死に疑念が。フランキーの遺された妻レイチェルとも惹かれあうが、フランキーの死を調べていくうちに恐るべき真相が。自車の走行中、無実のイラク民間人を殺してしまったフランキーは自責の念にかられ、会社の罪を告発しようとするが、それをもみ消したい勢力にフランキーは消されたのでは。
主人公のファーガスもイラクでコントラクターとして働き、派兵するなどきれいな人間ではない。フランキーの仇討とファーガスはフランキーの汚い同僚のコントラクターやPMCの経営者や直接関係のない人まで手にかけるが、ファーガスにも正義はない。そう、ローチが描きたかったのは、戦争の暗部ではなく、戦争には暗部以外はないということだ。
イラクで展開した「多国籍軍」のリーダーは当然米軍である。その米軍兵士がイラク民間人に対しテロリスト探しを理由にすさまじい拷問をくり返す。アブグレイブなど、早い段階から米軍の蛮行は明らかになっているが、彼らにとってイラク人は同じヒトではない。イラク戦争での民間人犠牲者は8万人とも10万人とも言われるがもちろん正確なところは分かっていない。アメリカは「数えていない」そうであるから。戦争の民営化は国際法規さえも無視する。民間人がしたことだからということで真相究明も、被害に対する補償もないがしろにされ、従軍したコントラクターの年金、精神疾患など正規兵なら当然のアフターケアが不要であるからこれほど安くつくことはない。
戦争はするべきではないし(アメリカはけしかけたのが明らかであるが)、民間に任せてはいけない。そういえば、イラク戦争に参加すると決定した小泉首相は「民間でできることは民間で」が口癖であったような。イラク帰りの自衛隊員が国会議員になり、憲法9条や対中、対北朝鮮などで強行な主張を繰り返すこの国では、ケン・ローチのような作品は生まれまい。ましてや支持率の高い橋下大阪市長率いる「維新の会」は9条を廃棄、軍事強化を企図しているような昨今。
ローチが本作を撮った動機は明快だ。イラク戦争で無辜の民を殺したブッシュもブレアも責任をとらないことを告発したいためと。小泉首相を戦争犯罪人として国際法廷にかける動きはどうなったのだろうか。「カルラの歌」「大地と自由」「麦の穂を揺らす風」など主に過去の戦争を描いてきたローチが初めて現代の戦争を描いた本作は「許さない」ことを「忘れない」というメッセージだと思えたのだが、どうだろうか。
コメント
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