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旧ユーゴスラヴィア訪問記① サラエヴォ、スレブニツァ編

2024-09-22 | Weblog

コロナ禍もあり、遠ざかっていた久々の欧州旅行。訪れてみたかった旧ユーゴスラヴィアを目指した。理由はまだ紛争終結から30年もたっていない地であるから。特に1995年7月に起こったスレブニツァ虐殺ではボシニャク人およそ8000人超が犠牲となり、その墓碑と近くにメモリアルセンター(https://srebrenicamemorial.org MC)が整備されているのでガイドツアーを申し込んでいた。

MCは、閉業した電池工場の建物を利用して、だだっ広い空間にパネル展示と記録映像。最初に案内してくださった施設スタッフの英語は全く聞き取れなかったが、パネルや映像は理解できる。第二次大戦や沖縄戦などテレビで放映されるような古びたものではない。つい30年前なのだ。傷つき、力無く映る人たちの様子は現代、現在そのもの。しかし間違いなく殺され、時に殺した人たちなのだ。

スレブニツァは、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サレエヴォから3時間も車で走ったセルビアとの国境も近いところ。ツアーは1日がかりだ。それでも行ってみたかった。あの悲劇の記憶をどう遺し、伝えようとしているのか。例えば規模は大きく違うが、世界遺産にもなっているアウシュヴィッツ国立博物館は見せる工夫に長けているし、スタッフも多い。ベルリンの「ホロコースト記念碑」やユダヤ博物館は、現代アートを思わせるようなデザイン性に優れていて来訪者を驚かせる。その点、MCは廃屋の工場で展示の洗練さはない。しかし、工場の事務所棟の狭い部屋に区切られた展示スペースは、テーマごとにまとめられていて鑑賞しやすいし、来訪者が必ず見るビデオも分かりやすい。どこか手作り感もある。何も立派な施設を作る必要はない。どう記憶し、つなぐかということだろう。新たな悲劇を生み出さないために。

サラエヴォ1日目の午前は最大の旧市街の繁華街バシチャルシァの街めぐり。無料であったが、ガイド女性の英語は話題が飛び、ほとんど聞き取れず。その点、午後の「1984 Olympic、1992-1995 Besieged Saraevo(1984 オリンピック、1992-1995包囲されたサラエヴォ)」ツアーではガイドの青年は紛争時まだ4歳と言っていたが、身内に兵士もいて(ボシニャク人側)歴史を伝える活動をしているそうだ。英語も聞き取りやすかった。彼とスレブニツァまで運転手兼ガイドの方も何度か口にしていたのが「reconciliation」。「和解」だ。ボシニャク人からすれば多くの人が「殺された側」、特にスレブニツァ虐殺などの記憶からすれば、被害者から「和解」を言い出すのは、彼らが一方的な「被害者」と位置付けるのを拒否しているからとも言える。ボスニア紛争では欧米側メディアのプロパガンダもあり、セルビア人が一方的に悪者と捉えられることも多かった。サラエヴォ市街にはセルビア人狙撃手が道ゆくボシニャク人を「無差別に」撃ったという「スナイパー通り」もある。でも、仕返しを繰り返していては平和は決して訪れないというのも歴史の教訓だ。

サラエヴォ・ツアーでは爆撃された病院跡や、包囲されたサラエヴォとセルビア軍の外側を繋いだトンネル博物館、オリンピックでは華やかであったろうルージュ競技場(セルビア軍が一時陣地としたていたとも)などを訪れた。街の、平和に暮らす人々の日常は戦争であっという間に壊され、それら廃墟と被害を受けた人々の思いは容易に癒されることはない。

MC近くの墓石群は訪れる者を圧倒する。ムスリムが圧倒的だったボシニャク人の墓石に混じって、正教徒の墓石もある。墓石群入り口のモニュメントには「8372」という犠牲者数を示すが、骨片のかけらなどから割り出した数字で正確なとことろは分からない。一人ひとりの犠牲も数字になってしまう。それが戦争の実相の残酷な一面でもある。(左:サラエヴォ市内の爆撃された病院。銃弾の跡が無数に。右:MC近くの集団墓地。)

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