たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

ブラッド・メリディアン

2010年03月26日 07時20分01秒 | 文学作品

血の子午線、わたしはこういった思わせぶりなタイトルが大好きだ。コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』(原著1985年、黒川敏行訳、早川書房、2009年。この小説を読み始めたのは、そういう動機からであったが、読み終えて、緻密な作品の仕組み立てにわたしは唸った。とりわけ、自然と人間というテーマに関して、大きな示唆があった。

 「人間は狼より貪欲でも凶暴でもないというのか。この世界のあり方は花が咲いて散って枯れるというものだが人間に関しては衰えというものがなく生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の絶頂(meridian)は同時に黄昏でもあるんだ」と、冷徹な殺戮の知的武装を行う、身長2メートル10センチの判事は言う。

ブラッド・メリディアン、「血の絶頂」は、この作品の舞台となる19世紀半ばのアメリカのメキシコ不法侵略を背景として描かれるグラントンの頭皮狩り隊の蛮行を示している。わたしたちはこの書から、判事による虐殺を肯定するたくさんの言葉があふれているにもかかわらず、インディアン殺害などの数々の残虐な社会事件や人間の精神の脆弱性を非難するというような倫理観のしずくを一滴
たりとも読み取ることはできない。それは、コーマック・マッカーシーの作家としての力量によるとでも言おうか、血を流す殺害のシーンが、殺害そのものとしてたんたんと繰り返し描かれているからである。そのなかで、以下のようなくだりが出てくる。

 子犬は穴に潜りこむ動物のようにもがきながら少年の手のなかに戻ろうとしたがその薄青色の公平な眼は寒さと雨と判事を同じように怖れていた。 
 両方くれ、と判事は言った。ポケットに硬貨を探した。
      (中略)
 
 さあとれ。 少年は硬貨をじっと見つめた。
 判事はその掌を拳に握ってまた開いた。硬貨は消えていた。指を宙でくねくね動かしながら少年の耳の後ろへ持っていきそこから硬貨をつかみとって少年に渡した。少年はそれをミサのパンを入れる聖体箱のように両手で捧げ持ち判事を見上げた。だが判事は子犬をぶらさげてすでに歩き始めていた。石橋を渡り増水している水を見おろして子犬を持ちあげ川に投げ棄てた。


まさかと思う。それだけはやらないでほしかったと思う。同時に、そうした命を粗末に扱うシーンをつうじて、子犬を川に投げ棄てることがどうしていけないことなのか、人と同じ生命を有しているから可哀相に感じるからなのかという問いがわたしのなかから沸き起こってくる、
この作品では、そういった根源的な問いに、いたるところで出くわすことになる。  

さらに、自然をめぐる記述に関して、この作品はじつに含蓄のある言い回しが用いられる


分け隔てのない厳しさが支配するこの土地はすべての現象が平等の地位を与えられおり一匹の蜘蛛であれ一つの石であれ一枚の草の葉であれどんなものも優先権を主張できない。蜘蛛や石や草の葉といった事物がはっきり見えていてもそれらが親しい事物であることにはならない。というのも眼はある特徴や部分を根拠に全体を判断するがこの土地ではあるものがつねに明るいとか暗いとかいうことがないのだからこのような土地の視覚的な民主主義のもとであらゆる優先順位は不動のものではなくたとえば人間と岩とは思いもよらない共通点を持っているのだ

 わたしは(研究の文脈で)、これまで、こうした言葉を探してきた。じつにあっけらかんとここに答が示されている。光線だけに優位をあずけようとはしない自然のある部分では、事物の
順位はつねに入れ替わるというのである。だからこそ、人と岩には共通性がある。その延長線上に、判事がいう次の言葉には合点がゆく。

判事は野営している暗い森のなかを見まわした。自分が蒐めた標本のほうへ顎をしゃくる。そこにある匿名の生き物たちはこの世界のなかで取るに足りない存在あるいはまったく無にすぎないと思えるかもしれない、と判事は言った。だがごくちっぽけな屑みたいなやつがわれわれを滅ぼすかもしれないんだ。岩の下にいる人間の知らないちっぽけな生き物がね。自然だけが人間を奴隷にできるのであってありとあらゆるものが掘り出され人間の眼の前で裸にされて初めて人間はこの地球の宗主になれるんだ

人間は自然を奴隷化しなければならないというふうに判事は考える。言い換えれば、自然だけが人間を奴隷化できるがゆえに、人間は自然を克明に知ることによって、地球の宗主となれるのである。ここに描かれているのは、人間の自然に対する西洋形而上学の
弁証法の典型ではないだろうか。同じ理屈で、判事は、人が人を支配するために、支配される奴隷の証として、いとも簡単に他者に死をもたらしたのではあるまいか。

もう一点加えて、マッカーシーの文体は特異である。人の語る言葉に引用符がない。動物の動きも人の動きも、同じようなものとして、一文のなかに記述が凝縮されている「訳者あとがき」でも触れているように、こうした技法は、「人間だけを特権化しない」記述法になっているのかもしれない。たしかに、人の言葉は、自然と人間の連続性の位相において捉えるならば、鳥のさえずりや樹々の揺れと同じように、“音”であるにすぎない。この作品を読んで、わたしには、人類学のモノグラフは、文体が一律的であり、記述理論の洗練さにおいては、もっともっと前へと進まなくてはならないのではないかと
感じられた。


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