たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『西瓜糖の日々』

2010年09月13日 07時44分41秒 | 文学作品

国分拓著『ヤノマミ』のなかに、こういう記述があった。「・・ただ、雨だけが降っていた。そんな時は、ハンモックに寝転がって本を読むことにした。時間は有り余るほどあると思ったから、僕は小説・紀行・ミステリーなど、様々なジャンルの本を持ってきた。その中から、気晴らしになりそうなミステリーを選び、読み始めた、だが、中々活字が頭に入らず、ページが進まない。思えば、本の舞台は僕らの社会のどこかで、飛行機が飛び、町は明るく、洒落た恋愛模様があり、主人公は何かに急かされているのが常だった。それは、僕の目の前にある風景や時間とは余りにもかけ離れていた。一方で、ガルシア・マルケスやリチャード・ブローディガンの非現実で不思議な物語はするすると頭に入ってきた。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は三回目の通読だったのだが、以前読んだとき以上に夢中になった。その世界観はより濃密にかつ豊饒に、余韻はさらに深く、そして何よりも、小説なのに不思議なリアリティを感じるようになった。例えば、『四年と十一ヶ月と二日間雨が降り続いた』という挿話があるのだが、そんな法螺話も、ここにいると実話のように思われてくるのだ・・」(66~67ページ)。よく分かる気がする。わたしにとっても、小説だけでなく、現実社会のあれこれを扱った本は、未開社会では、まったく波長が合わないのである。例えていうならば、宴会の最中に、一人だけ『歎異抄』の解説本を読むようなもの(そんな奴はふつういないが、無理矢理コンパに連れて来られた『歎異抄』研究会のメンバーならやるかも)、教会の説教中に、マリノフスキーの『未開人の性生活』を読むようなもの(話が二方向に分裂して、分けが分からない)、満員の学食で官能小説を読むようなもの(そわそわして、読めない)。わたしは、ギデ○ズの社○学、ロ○ルズの正○論、村○春樹など(だったかな、たぶん)、大量の本をプナンのフィールドに持ち込んだことがあったけれども、それらは、活字がまともに頭に入ってこなかったし、そのうちの何冊かを、何かの拍子に、焚き火のなかにくべて燃やしてしまったことがあった。それに加えて、プナンでは、プライベートな時・空がなく、本を読む隙がないということもあるが。それとは対照的に、本をめくるたびに突拍子もないことが起きるガルシア・マルケスのマジック・リアリズムは、未開社会向きではないか。わたしも、そう思う。ああ、ガブリエル!ということで、前置きがずいぶんと長くなっってしまったが、ブローディガンもガルシア・マルケスと同じように未開社会向きなのだろうか??とい立って、ブローディガンを読んでみた。リチャード・ブローディガン『西瓜糖の日々』、藤本和子訳、河出文庫。

読むのに、数時間もかからなった(209ページ)。村の中心にあるのは、アイデス(iDEATH)という共同宿舎。その村では、家、燃料などあらゆるものが、西瓜糖(スイカトウ)から作られているという。アイデス(私、死)という
名前とは異なる、そのぼんやりとした平和な場所のイメージに対置されるのが、<忘れられた世界>である。インボイルと20人ほどの碌でなしたちは、その<忘れられた世界>の近く、雨漏りのする惨めな小屋がしみったれたようにひとかたまりになっているところに住んでいる。そうした空間的配置が小説のベースにある。主人公は、子どもの頃、父親と母親を目の前で、虎に殺されて、アイデスに移り住んだ。「わたしたちの家族は川沿いの小屋に住んでいた。父は西瓜を育て、母はパンを焼いていた。わたしは学校に行っていた。九歳で、算数が苦手だった。ある朝のことだった。わたしたちが朝食をとっていると虎たちがやってきた。父が武器を手にする隙も与えず、かれらはかれを殺した。そして、母も殺した。両親は息をひきとる前に、なにか言い残すことさえできなかった。わたしはまだ玉蜀黍がゆを食べていたスプーンを手にしたままだった。『怖がるんじゃない』と虎たちの一頭がいった。『おまえには何もしない、子供には手を出さない。そのまま、そこに坐っておいで。そしたら、お話をしてあげるからね』一頭がわたしの母を食べ始めた・・・(54~55ページ)。ヒトは捕食され(この着想はなかなか奇抜である!)、虎は、ことばを喋り、子供に算数を教えてくれたのだという!8×8の解答は、間違っていたけれども(虎は、56だと言った)。やがて、最後の虎が殺されて焼かれ、<虎の時代>は終わり、虎が葬られた場所に、鱒の孵化場が作られる。その後、インボイルたち碌でなしたちは、ジャックナイフで突然自殺し、主人公に恋心を抱いていたマーガレットは、首吊り自殺をする。マーガレットの自殺を、主人公と恋仲になったポーリーンは、自分のせいではなかったのかと気にする。やがて、マーガレットの葬儀が行われ、葬儀の後のダンスのために、楽士が位置について、楽器が弾ける手前で、物語は終わる。これは、全体に、希薄感とでもいうべきものが漂う、淡い感じの物語である。浮遊している感覚というのだろうか、ガルシア・マルケスのとは違う超・現実といってもいいかもしれないが、でも、現実感の欠如といったほうがいいのかもしれない。しかしながら、そうした希薄な印象とは裏腹に、読んだ後に、じわじわと、じつは、この作品は、人間の生きる、ある真実を抉り出しているのかもしれないとも思えてきたりもする。リチャード・ブローディガンの文体とは?岡野・豊崎の『百年の誤読』(アスペクト)によれば、「かなり飛躍した比喩を用い、深い心理描写を故意に欠いた簡略化された文体で独特の幻想世界を描く(250ページ)であるらしい。そう、心の襞の描写がすっ飛ばされている気がする。ブローディガン派には申し訳ないのだけれど、好きか嫌いかと問われると、わたしとしては、それほど好きなほうではない。★★★


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