たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

獣魂碑

2008年01月21日 10時32分25秒 | 人間と動物

先週の金曜日、大阪に着くのがずいぶん遅くなってしまったが、一路「獣魂碑」がある、大阪港近くの天保山公園を目指した。地下鉄・大阪港駅を出たときには、あたりがすでに暗くなりはじめていた。公園に入ると、人はまったく見当たらず、一匹の大きな黒い犬が、出迎えてくれた。というよりも、その犬は、じつは臆病なんだけれども、それがゆえに何をするか分からないような感じを漂わせながら、門のあたりをうろついていたのである。「獣魂碑」やいずこに?、と探しはじめた。いくつかの石碑や石塔に出くわしたが、当の「獣魂碑」を、なかなか見つけることができなかった。そのうちに、陽はどっぷりと暮れてしまった。誰かに問い尋ねようにも、人は歩いていない。「獣魂碑」は、どこか草むらのなかに隠れているのかと思って、茂みのほうに歩を進めたとたん、その暗がりから、さっきの黒い大きな、臆病そうな犬が飛び出してきた。びっくりした。向こうもびっくりしたようである。そのうちに、「テリー、テリー」という、女性の呼び声が聞こえきた。どうやら、その犬を探しているようだ。おいおい、夕暮れ時に、公園内で犬を放し飼いしないでくれよ。あ、そうだそうだ「獣魂碑」「獣魂碑」!ようやく、わたしは、お目当ての「獣魂碑」にたどり着いた(写真)。

特に、その碑が、いったい何のために建てられたのかについての説明書きは見当たらなかった。夜の闇に、おぼろげに「獣魂碑」という文字が浮かび上がっていた。以下は、ホームページなどから得たデータである。このあたりには、第二次世界大戦前に、陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)大阪支廠があった。糧秣廠とは、食糧製造所のことである。豚やニワトリなどの家畜が、ここで解体・処理されて、軍人の食糧として船積みされたのである。そのような家畜(の魂)を供養するために建てられたのが、この「獣魂碑」であったらしい。昭和17年7月に、大阪陸軍糧秣支廠長の土正雄が建てたという記録が残っているという。

わたしたち人間が生きるために犠牲となってくれた動物(獣)に対して、感謝を表明し、その霊を供養するという態度。それは、日本人の動物(獣)に対するいにしえの態度の特徴である。動物の命を奪って、その肉を食べることによって、生き延びられている人間。そのことを深く、重く理解していたからこそ、あるいはそのような理解が陸軍施設の人たちの間に深く浸透していたからこそ、
そうした石碑が建てられたのだと思う。

ひとつ気になることがあった。「獣魂碑」の周りに、いくつかの石が置かれていた。セメントでつくられたと思われるようなものもあった(写真には、「獣魂碑」の周りにいくつかの石が見られる)。「獣魂碑」にだけでなく、それらの石の前にも、
水と花が奉げられていた。ことによると、それぞれの石に献花がされるのが先で、「獣魂碑」にもなされているのかもしれないと思った。よく見ると、セメントづくりの前には、カタカナ3文字で名前らしきものが書かれた札が立てられていた。ひょっとすると、それは、「ペットの墓」ではあるまいか。「獣魂碑」という動物の供養碑の周りに、自らの愛したペットの墓をつくるということが、ペットを飼う人の気持ちとしては、あるのかもしれない。そして、その気持ちも理解できなくもない。それは、「獣魂碑」を支えるベーシックな考え方とは、いささか異なるのだけれども・・・

とにかく、それらについて、どういうことなのだろうという疑問があって、さきほど、公園を管理している大阪市の八幡屋公園事務所に電話で聞いてみた。事務所のスタッフは、そのようなものがあるとは知らなかったし、公園内に個人的な建造物の許可は、基本的に、認めていないということであった。きわめて新しい現象なのかもしれない。


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