たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『森は考える』をふたたび考える

2016年05月22日 12時34分17秒 | 自然と社会

(ボルネオ島の森)

『現代思想』の対談における春日直樹による『森は考える』のまとめは、当を得ている。

コーンはVdCの影響を受けつつ、その言語中心主義を批判して、森や山の環境で間を含んだ有機体たちがシンボルでなくアイコンやインデックスの水準でいかに複合的に意味のネットワークを形成しているのかを分析しています。それぞれが自己であり視点の持ち手であって、互いをそう認め合うことで人間を超えた森の水準で思考をみいだすことができるというわけです(『現代思想』3月臨時増刊、2016年、168頁)。

そう、『森は考える』の中で、人類学者エドゥアルド・コーンが徹底的にこだわったのは、人間の持つ「言語の牢獄」に他ならない。私たち人間は、象徴と一体化した言語によって思考し、世界を組み立てることに雁字搦めに縛られてしまっている。

私たちは言語を地域化する必要がある。…私たちはまず、全ての表象は人間的な何かであり、ゆえにあらゆる表象には言語のような特性があると見なすことによって、このとりわけ人間的な傾向を普遍化している。特殊なものとして限定されるべきものが、代わりに私たちが表象について抱く想定の岩盤となってしまっている(『森は考える』72頁)。

人間の言語の中に最も明瞭に表れるのが「象徴」である。言語は、規約的で恣意的な他の同様の象徴の体系の中に埋め込まれている。それは、今日の社会理論では、ソシュール言語学によって、概念化されている。しかし、それは、「あまりに人間的な」枠組みであるがゆえに、人間―動物関係などの「人間なるものを超えた」領域にあてはめることはできない。何が問題なのかと言うと、ソシュールの図式では、人間の精神と残りの世界の間にくっきりと境界線が引かれ、区分けがされているということである。

この二元論を克服するもっとも生産的な方法は、・・・・私たちが表象であるはずだと受け取るものとはいったい何であるのかを根本的に考え直してみることである。このためにまず求められるのは、言語を地域化することである。ヴィヴェイロス・デ・カストロの言葉では、「思考を脱植民地化する」ことが、私たちに伴うのが求められる。考えることは必ずしも、言語や象徴的なるもの、人間的なるものによって囲まれていないことを理解するためにも、そうしなければならない(76頁)。

現在において未来を表象することによって未来のために事をなすのは、私たち人間だけではない。・・・・それゆえに、人間的なるものを超えて広がる、生ある世界の中に、行為主体性があるというのが適切である(77頁)。

コーンは私たちの「言語の牢獄」を乗り越えて、「思考の脱植民地化」を目指す。

要点は、私たちは関係性について考えるあらゆる特定のやり方によって植民地化されているということにある。私たちはもっぱら、人間の言語を構造化する連合の形式を通じて、諸々の自己と諸々の思考が連合を形成する仕方を想像しているだけである。そのために、たいてい意識されることなく、このような仮説は間に投影される。そのことに気づかずに、私たちは自らの特性を間に与え、またそのことをこじらせるかのように、間に対して、自らの矯正された鏡像をさし出すことを、自己陶酔するように求めるのである(42-3頁)。

私たち人間は、人間が当たり前のように使用している言語を、人間以外の領域にも知らず知らずのうちに当てはめてしまっている。そこに、問題があると、コーンは見る。つづけて、彼は、この点をひっくり返そうとする。「森は考えるのに良い素材である。なぜなら、森はそれ自体で思考するからである。森は考える」(43頁)と。さらに、「私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである」(43頁)とも述べる。「それゆえ、本書を通して、私たち人間を例外的なものにするものに対してのみ・・・向ける注意の結果から生じている積み重なった過剰な概念上の荷物から、私たちの思考を解き放つことへと歩みを進めよう」(43-4頁)。

具体的には、どのようにして、この枠組みにおいて、私たちの思考を解き放つのだろうか? コーンは、ソシュール的な言語学の軛から自由になり、C.S.パースの記号論とともに、歩みを進めていく。そしてそのことは、森の中のすべての有機体を「記号論的自己(セミオティック・セルフ)」であると捉えることに密接に結びついている。

全ての生命は記号論的であるのだけれども、その記号論的な特性は、類を見ないほど多種多様な自己がひしめく熱帯雨林において増幅し、より明確になる。森が考える方法に注意を向ける方法を私が見出そうとするのはこのためである。熱帯林は、生命が考える筋道を増幅し、さらに、その筋道をよりはっきりと私たちに示してくれる(138頁)。

彼は、エクアドル東部のアヴィラの森の内部とその周りに広がる生ある思考が織りなす編み目を「諸自己の生態学(エコロジー・オブ・セルヴズ)」と名づけて、人間や動物などのあらゆる有機体だけでなく、死者や祖先までもその中に含めて、森がいかに思考するのかを描きだそうとする。

コーンが具体的に取り上げるのが、ハキリアリである。それは、年に一度、他のコロニーからやってきたアリと交尾させるため、数分間にわたり、それぞれのコロニーが同時に、 数百の丸まると太った、羽つきの女王アリを 早朝の空に解き放つ。アリは、脂肪を有り余るほど貯えていて、人間だけでなく、他の生きものにとってごちそうになる。熱帯では、季節変化に乏しく、春の一斉開花もないために、森の中の有機体の相互作用の他には、アリが飛ぶ時期をあらかじめ知らせてくれる合図はない。人々によれば、ハキリアリは雷鳴と稲妻、川の氾濫を伴う豪雨の期間の後の穏やかな時期に現れる。この時期をもって、八月あたりに起こる相対的により乾燥した時期は終わる。人々は、アリの出現を果物の実り具合、昆虫の増加、動物の活動の変化に関わる様々な生態学的な兆しと結びつけて予測する。様々な指標が「アリの季節」の接近を告げると、人々は夜通し、兆しを探しに出かける。残骸でできた入り口を片づける護衛アリがいたり、無気力なアリを2、3匹見かけたりすることなどが、その兆候である。

アリが飛び立つタイミングに関心を向けるのは、人間だけではない。カエル、ヘビ、小型のネコ科動物といった他の生きものが、アリやアリに誘われてきた他の動物に引きつけられる。それらの生きものは、おしなべて、「兆し」を求めてアリを監視し、また、アリを監視している動物に対して目を配る。アリがまさしく飛び立とうとする時間は、アリが捕食者に気づかれるか気づかれないかということに対する反応である。アリが巣穴にいるときには、攻撃的なコロニーの護衛アリが彼らをヘビ、カエル、その他の捕食者から守っている。しかし、アリが夜明け前に一旦巣から飛び立てば、護衛アリはそばにはいない。アリは、果実食のコウモリの餌食となることがある。コウモリは、飛行中のアリに襲いかかって、脂肪が詰めこまれて膨れた腹部を噛みちぎってしまう。

アリがコウモリが世界をいかに見るのかを認知しているかが、その生命のゆくえに影響を与える。この夜明け前の時間帯には、コウモリが活動できる時間はあと2、30分程度になる。午前6時ころにトリが出てくる頃には、メスのなかには交尾をすませて、新しいコロニーを築くために地面に降りている個体もある。

アリが飛行する正確なタイミングは、記号論的に構造化された生態学の帰結である。アリは、夜行性と昼行性の捕食者からもっとも見つかりにくい時間帯である夜明け――夜と昼のはざまの不明瞭な域――に姿を見せる(142頁)。

アリが巣穴から飛び立つ、一年間のうちの数分の間にそれらを捕まえるため、人々はアリの生活を形づくる記号論的ネットワークの論理のなかに入り込む。ハキリアリは光に魅かれて、その光源に誘引されるため、護衛アリが脅威とみなすことのないよう、灯した灯油ランプ数台とのろうそく数本や懐中電灯などが、十分に離れたところに設置される。アリの多くは光に魅かれて、空を飛ぶのではなく、人間に向かってくる。人は、松明でその羽を焦がし、覆いがしてある鍋にアリを入れることになる。

ハキリアリは、ほかならぬその存在を形づくる、諸自己の生態学の中に入り込んでいる。夜明け直前に巣から出てくるという事実は、おもにそれらを食べる捕食者による解釈の傾向からもたらされている。アヴィラの人々もまた、アリとそれに連なる多くの生きもののあいだの意思疎通の世界を利用しようとする。そのような戦略には、実用的な効果がある。それに基づくことによって、大量のアリを収穫することができるようになる(143頁)。

意図をもって、意思疎通する自己としてアリを扱うことで、人々は、アリと森にすむ他の諸存在とをつなぐ様々な関係性を理解する。そうした理解は、一年のうちで、アリが飛び立つ短期間を予測するには十分である。人々はアリと意思疎通をして、それらを死へと送り込むからである。人間は、そのようにして、森の思考の論理に入り込む。このことが可能なのは、人間の思考が、森の思考というべきものに類似しているからである。コーンによれば、それこそが、密で、繁栄する、諸自己の生態学なのである。

なにゆえに、アリも、アリを捕まえようとする生きものたちもみな思考するのだろうか? 人間は、アリが飛び立とうとしていた夜に、雨が降ったら巣から出てこないので、煙草の煙を巣穴に向かって吹きかけた。人間は、そのように、規約的、恣意的な象徴の体系を用いて、さらには言語を用いて、対象を操作する。しかし、人間もまた、人間以外の生きものと同じように、気象学や生態学の関係の編み目を利用、すなわち、言語以前の「読み」を利用する。その「読み」こそが、人間と間の両方によって共有されているのである。すなわち、人間も間もともに、記号過程の中にいるのだと言える。すなわち、イコン(類像記号)、インデックス(指標記号)が作用するプロセスの中に、私たち人間・間は滑り込んでいるのだ。

ウーリーモンキーは、雷が落ちるような倒壊音を聞いた時、イコン的に、つまり過去にあった同様の倒壊との類似から、倒壊の経験を呼び起こすように思われる。それは、何か危険なこと―枝が折れることであるとか、あるいは捕食者が接近すること―が、その倒壊音の後に起こるのではないかといった解釈に他ならない。サルは、イコンによって、こうした過去の危険を、目の前の現象に結びつける。しかしいまや、この連合は、たんなる類似以上の何かになっている。さらに、その結び付けは、サルに対して、倒壊がそれ以外の何かに結びつけられるにちがいないと「推測する」ように駆り立てる。風向計が、インデックスとしてそれ以外のこと、すなわち風が吹いている方向を指差していると解釈されるのと同じく、この大きな騒音は騒音以上の何かを示していると解釈される。それは危険な何かを指差することになる。

それゆえ、インデックス性はイコン性以上のものを含んでいる。しかしそれはイコン同士の一組の複合的な階層をなす連合の結果として創発する。イコンとインデックスの論理的な関係は一方向的である。インデックスは、イコン同士の特別な階層的関係から生じたものであるが、その逆ではない。倒壊する木に対するサルの洞察のうちに含まれるものなど、インデックス的な指示は三つのイコンのあいだの特別な関係がつくるより高位に位置するものである。倒壊が別の倒壊を思い出させる。こうした倒壊に連合する危険が別の連合を思い出させる。そして同じように、こうした連合が今起きている倒壊に連合される。イコンのこの特定の配列のために今起きている倒壊が直ちに存在するのではない何かを指差することになる。つまり、「危険」である。このようにインデックスは、イコンによる連合から創発する。こうしたイコンのあいだの特別な関係性は、独自な特性のある指示の形式となる。その特性は、インデックスが連続しているイコンによる連合の論理と共有されるものではないが、イコンによる連合に由来する。インデックスは情報を与える。それは直ちに存在するのではない何かについて新たな何かを伝える(96頁)。

この部分は、少し難解かもしれない。イコンからインデックスがいかに創発するのかが述べられている。ここでは、イコン、インデックスという記号過程は、人間以外の存在だけでなく、私たち人間もまた、そのプロセスに深く参与している。つまり、生きとし生けるものはすべて記号論的自己なのである、ということを理解すれば十分であろう。

そのような記号論的自己が生みだす複合的な意味のネットワークこそが、森に他ならない。かくして、森は考える。「森が考えていると私たちが主張できるという事実は、ある奇妙な仕方で森が考えるという事実から生まれている」(43頁)。

私たちが人間的なるものを超えて考えることができるのは、思考が人間的なるものを超えて広がるからである(43頁)。

コーンは、象徴以前の、あるいは言語以前の森の思考のあり方を、言語を通じて明らかにした。人間を超えた領域を、人間に引き寄せながらなんとか説明しようとしたと言ってもいい。厳密な人間言語を用いて、ヒューマニズムを乗り越えようとしたのである。奇妙なことに、いや、逆に、当然のことかもしれないが、森の思考は、幸田文(倖田來未ではない、念のため)が『木』というエッセイの中で書いていくことに近似している。

人にそれぞれの履歴書があるように、木にもそれがある。木はめいめい、そのからだにしるして、履歴をみせている。年齢はいくつか。順調に、うれいなく今日まできたのか。それとも苦労をしのいできたのか。幸福なら、幸福であり得たわけがある筈だし、苦労があったのなら、何歳のとき、何度の、どんな種類の障害に逢ったのか、そういうことはみな木自身のからだに書かれているし、また、その木の周辺の事物が裏書きしている――と同行の森林の人は教えてくれた(幸田文『木』43頁、新潮文庫)。

樹木もまた、森の記号論的な生命のネットワークの中で思考するのである。


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