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たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



6月の文化人類学会の研究大会のパネルで、狩猟民プナンが、動物にも魂があることを認めており、それに反して、動物にはじつにそっけない態度を取ることについて、口頭発表した。それに対して、コメンテータから、プナンによる動物の魂の観念を現代に延長して、スピーシズム(種差別)批判とをどう考えるのかという問いかけがあり、わたしは、以下のように答えた。

スピーシズム批判というような、動物の権利を保護する運動というものをどういうふうに考えるのか。わたしの報告で強調したのは、魂というものを動物に認められるというふうに彼ら(=プナン)は考えているので、そのあたりとの関係についてという事だったと思うのですが。スピーシズム批判、種差別というのをどういうふうに考えるのかということですけれども、これはたとえば、ヴィヴェイロス・デ・カストロが報告するようなアメリインディアンの事例であるとか、あるいはプナンの事例であるとか、これは、あまり説得力がないというK先生はコメントされていましたけども、人間と間が共に意識であるとか心であるとか、あるいは魂を持つ存在というのがそこでは基本になっている。つまり、主体的な存在として、人間と間が同じ存在物であるという意識があくまである。これに照らすならば、わたしの見通しとしては、スピーシズム批判、動物の権利というのが西洋思考の文脈において発達してきたというのは、基本的には<人間のために存在する動物>というのが基本にあって、それに対して、動物に対してむごたらしい、あるいは行き過ぎた残虐さを示してきたということに対しての反省に近いのではないか。つまり、そこに何か人間精神に近いようなものを動物の中に読みとって、人間性と投影することによって、動物もまた悲しむ存在である、あるいは苦しみを動物に与えるべきではないというような考え方を、そこ(<人間のために存在する動物>)から、そういったかたちで積み上げてきたのではないかというふうに考えています。つまり、種差別批判は、プナンであるとかアメリインディアン人たちの人間と間が共に主体をもつような存在として考えているとものとは違うような文脈において、つまり、西洋思考の文脈において、独自に発達してきたものとして捉えられるのではないかというふうに考えています。

そうは言ったものの、わたしは、西洋の動物保護や権利をめぐる議論に関する十分な理解を持ち得ていなかったために、それは、たんなる印象論にしかすぎず、深めてゆかなければならないと考えていた。その矢先(7月になってから)、大学生協で、コーラ・ダイアモンドほか、中川雄一訳『<動物のいのち>と哲学』春秋社を見つけた。ざっと読んで理解できたのは、訳者による「傷ついた動物と倫理的思考のために」と題するまえがきだけで、5人の論者によって論じられている内容に関しては、ほとんどさっぱり理解できなかった。それは、一つには、題名にも示されているように、ノーベル文学賞作家のクッツェーの『動物のいのち』という本の内容が、議論の
ベースになっているためだと思われる。それを読まなければならないと思いながらも、夏季にはフィールドに出かけたので、そのまま放置したままになっていたが、昨日(9月19日)、朝日新聞の書評欄に、『<動物のいのち>と哲学』に対する高村薫の書評記事が載っていた。

 七〇年代に動物の権利擁護を求める過激な動物保護の思想が登場して以来、クジラやイルカの保護は世界の潮流になったが、食肉産業や実験動物の売買が消えたわけではない。菜食主義者が革靴を履き、ペットを愛する人間は競走馬を潰した馬肉を食べたりもする。イルカの知能の高さを保護の理由に挙げる人が、事故や疾病で知能が失われた人間を保護しないでいいということもない。 
 動物の扱いについて、人間はこのように錯綜しているのだが、とまれ欧米では今日まで、動物とは何であるかを規定し、動物をどう扱うべきかについて多くの議論が重ねられてきた。それらはおおむね権利論や生命倫理の側面から言語ゲームに終始し、懐疑に懐疑で応えるがごとき不毛さではあるのだが、一方で、哲学や文学からのアプローチがこの問題に与えてきた深みには驚くべきものがある。なにしろ、動物の扱いをめぐる問いが、哲学や倫理の限界へと接近してゆくのだから。 
 本書は、南アフリカのノーベル賞作家クッツェーによるプリンストン大学での記念講義ー架空の小説家の講義に対して架空の学者たちが論評すると言う構造をもち、のちに『動物のいのち』としてまとめられたーをめぐる、アメリカとカナダの哲学教授たちによる論文集である。『動物のいのち』自体がそうであるように、問われるのは個々の動物の扱いや動物保護の是非ではない。
俎上に上っているのは、殺戮される動物を眺めながら、突然自分が見ているものを言葉で言い当てることができない自分を発見する人間である。そのとき、この世界にむき出しで晒されながら、自分が動物と同じ脆い肉体をもつことを認めて傷つき、そんな認識に至る自分にさらに傷つく人間である。人間が動物にしている行為を眺めながら、生ける動物である自分を発見してうろたえ、人間であることの基盤が試練にさらされている。その瞬間をも凝視せざるを得ない人間である。こうした人間の現実から逸れていない哲学はないと言ったのは、シモーヌ・ヴェーユだ。

朝日新聞の書評より、評者:高村薫 2010年9月19日

新聞読者に向けて、本の射程を押さえて、きっちりと書かれているがゆえに、ひじょうに分かりやすい。しかし、こうした哲学の思考が、わたしたち人間にとって、どれだけの普遍性を持つのかという点については考えてみなければならないと思う。高村の解釈が正しいのであれば、ここでは、もっぱら、<傷つく人間>が問題にされているからである。はたして、動物をめぐる哲学談義は、
人間中心主義的な視点を逃れているのであろうか。

9月初旬、映画「ザ・コーヴ」の舞台となった、和歌山県太地町を訪ねた。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2ee049383a9d7859059b9e08e050236b

僅かな時間であったが、「ザ・コーヴ」で非難が向けられているイルカ漁、ショーのためのイルカの海外輸出などは、そこに住み、捕鯨で生計を立ててきた人たちのイルカ・クジラとのつながりのほんの一面でしかないように感じられた。人びとは、イルカやクジラを、暮らしのなかで、
より大きな全体性のなかで捉えてきたような気がした。鯨の霊に対する弔いが行われるということは、人びとが、その死後までをも引き受けて、イルカ・クジラと向き合っているということではないだろうか。イルカショー、クジラショーが行われている太地町立くじら博物館の敷地内には、日本国内ではあちこちで見られる種類のものであるが、「飼育動物供養碑」が建てられていた(写真)。

ことによると、こういうことなのかもしれない。「人間か動物にしている行為を眺めながら、生ける動物である自分を発見してうろたえる」という人間目線は、太地町の人たちだけでなく、プナンやアメリカ先住民、さらには、非西洋諸社会には、もともとなかった。そうした人間目線は、動物が人間と異なる存在であるということが前提にあって、殺戮の場面で初めて、あっ、痛みはおんなじだと感じるようなものであるが、そうではなくて、あらかじめ人間と動物を分断するのではなく、それらがともにあるような、ともに向かってゆくような、死後世界・神話世界などの別の現実があって、そのような共同性を基盤として命のやり取りが行われてきたため、<傷つく人間>などは、そもそもいなかったのではないだろうか。人は、そうしたありようをアニミズムと呼んできた。

いずれにせよ、まずは、クッツェーを読んでみよう。



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コメント
 
 
 
Unknown (織田良子)
2010-09-20 11:16:51
突 然.訪 問 し.ます 失.礼 し.ま し.た

あ.なたのblogは.とて.もす ばらし.いで.す、本.当 に感.心 しま.した!
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Unknown (たんなるエスノグラファー)
2010-09-21 07:40:19
コメントありがとうございました。ぼちぼちやります!
 
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