たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



プナンには、左右のシンボリズムがない。左を不浄とし、右を浄とする、インドからインドネシアにかけて広がるシンボリズムが。たしかに、昔、調査研究をしたカリス社会(焼畑農耕民)では、左右のシンボリズムがくっきりとあったように記憶している。モノを手渡すのは必ず右手で、というのが慣わしであった。儀礼時に、右手で料理したものを放り投げ、左手で生のものを投げていた・・・それに対して、プナン社会には、そうしたシンボリズムはいっさい見当たらない。モノを左手で渡したとしてもとがめられることも、気にすることもない。左と右に何かが対応して語られるようなことはない。「なぜないのか」ということについて答えることは、ことのほか難しい。まちがっているかもしれないが、左右のシンボリズムがプナン社会にないのは、ジャングルの民の身体のプレースメントとでもいうような事態に対応しているように思える。平衡感覚を保つことができるような生活空間を築いていないがために、彼らは、必ずしも、身体を平衡に保つようなことはできないでいる。ありゃ、こりゃ、トートロジーか!言いたいことは、左右というようなことを気にしていたら、モノを手渡したり、人と人との相互作用を行うことができないような空間に住んでいるというようなことである。別の言い方をすれば、プナンのシンボリズムは、上と下、上流と下流というような、凹凸のある、三次元的な空間のなかに見られる。他方、定住を始めた農耕民は、狩猟民が取り巻かれている、むきだしのかたちで、無限多様性に支配される自然の域から身を引き離して、人がつくりだす、平衡感覚が取れるような、構造的な空間に住まうようになる。農耕民は、そうした身体のバランスを取ることができるような整然とした空間のなかで、左と右というようなシンボリズムを発達させるのではないか。それは、ジャングルの三次元性とでもいうべきものに対して、二次元的である。シンボリズムと身体/空間の構造化。以上、フィールドノートから。ちょっと無理があるのか、あるいは、何かが足りないかもしれないが、シンボリズムという観念系が周囲の環境と緊密に関わるというような単純なことが言いたいのではないが、とりあえず、覚書として。

(写真は、イノシシが捕れて、華やぐ狩猟キャンプ)



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