たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

研究会の後、雨のしとしと降る昏き夜に

2010年05月30日 01時30分31秒 | 自然と社会

いったい、何年ぶりだろう。昨日、もう数年訪れたことがないかつての学舎に、研究会(パネルの予行会)のために出かけた(写真)。雨が降って肌寒い土曜の夜、その街は、人が多くもなく少なくもなく、心地よい雰囲気を発していた。酒を飲み、酩酊のうちに。冷めないうちに書き留めておきたいことがある。研究について。

第一に、「自然と社会:動物と人間の連続性」というパネルのタイトルは、繊細さに欠けるという指摘がなされた。動物と人間を、そのまま自然と社会に置き換えられるのかという問いと同時に、連続性、連続的なるものという不確かな事柄がどれだけ語られているのかという指摘は、全体をつうじて、そのとおりかもしれないと思う。

第二に、その点にも関わるが、デスコーラに収斂する議論の問題。デスコーラの図式はひじょうに静的なもので、社会学のパーソンズ的な図式ではないのかという見方については、再検討しなければならないだろう。また、ヴィヴェイロス・デ・カストロではなく、なぜデスコーラなのかという点が説明されなければならない。さらには、ラトゥールに触れていないのはなぜなのか。彼を無視する積極的な意図が説明されなければならないとされた。いずれにせよ、わたしたちの議論のベースをなしているデスコーラ。彼のモデルの評価について考えなければならない。

第三に、自然と社会の二元論を反省する上で、存在論という枠組みを用いても、結局、文化を語ることへと回収されてしまうことに対する危惧がある。存在論、認識論、文化の問題。そういった議論の先に、人類学の近年の存在論者たちが見ている大きな批判の枠組みを見渡さなければならない。
それは、相当重いテーマである。

第四に、自然と社会を語るために、なぜ、デスコーラやヴィヴェイロス・デ・カストロが参照されなければならないのか、そもそも、その積極的な理由は何なのかという点についても考えておかなければならないのかもしれない。
デスコーラは、マルクス主義的な観点から出発して、その後、存在論へと至った。その経緯についても、押さえておく必要があるのかもしれない。

わたしたちは、限られた時間のなかで、早速、次の集まりの日取りを決めた。来週の月曜の朝から、ヴィヴェイロス・デ・カストロの存在論を探り、ラトゥールを読むことにした。とりあえず、大急ぎで。


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