たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



帰国すると、前学期の学生による授業評価アンケートの集計結果が届いていた。反省。フィールドワーク中に、学務をめぐるある問題が起こっていた。反省・・・わたしは、どうやら、日々、反省するように動機づけられている。

そのようなことを考え始めたのは、プナン社会で、フィールドワークを始めてからである。これまでにも、プナン人が反省しないことについて、考えてきた。プナンを見ていると、わたし自身、反省しないで日々を送ることができるように思えるのだが、日本社会では、そのことはそうとうに難しいことでもある。なんとか裏技のようなものがないだろうかとも思っている。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/26f5c27e89858f8af955c6f09580fe39
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/ca9f70b3fb4058dc8255a6ac05dc82df

プナンはほんとうに反省しない人びとなのか。少なくとも、しばらく暮らすと、そういうふうに見えてくる。今回は、そのことを、言語の面から少し考えてみたいと思う。

狩猟キャンプで、懐中電灯の電池の容量がなくなった。ある昼下がり、わたしとJは、近くを通りかかったクニャー人の男性Tの車で、20分ほど離れたところにある雑貨店にまで送り届けてもらった。Tの車のエンジンの調子が悪い。Tは、少し車を動かして、もし調子が回復したら、狩猟キャンプまでわれわれを送り届けてあげると言って、車を発進させた。

わたしとJは、買い物を終えて、ロギングロードの道端で、Tが来るのを待った。ちょうどそのときぽつぽつと雨が降り始めた。雲行きを見ると、どうやら、雨は長引きそうである。雨が長引くと、ロギングロードはぬかるんで、わたしたちを乗せてくれるような四輪駆動車、木材運搬車は通らなくなる。

遠くのほうから、Tが、わたしとJのほうに向かって歩いてきた。どうやら、車を置いたままで、車の調子はよくないことをわれわれに伝えに来るようである。ちょうどそのとき、便乗者のいない木材運搬車が、Tがやって来る方向から、
われわれに近づいてきた。わたしは、それに乗って帰ればラッキーだと思ったが、同時に、Tも近くまで歩いてきている。Jの判断に任せることにした。

結局、木材運搬車を見逃して、Tの説明を聞いた。Tは、案の定、車の調子が悪く、われわれを送り届けることができないと言った。それから、2時間以上にわたって、雨は降り続いた。結局、雨が止んでから、その日は、それ以上車の通行はないと見込んで、わたしとJは、狩猟キャンプまで、夕暮れの道を、とぼとぼと2時間近くかけて歩いて戻った。

わたしは悔やんでいた。雨が降り出し、Tが歩いてきたときに、車はもう来ないと予想していたにもかかわらず、どうして、木材運搬車に便乗させてもらわなかったのだろうか、と。同行者のJは、いっこうにそのことを気にしている様子はなかった。しかし、単純な疑問から、わたしは、Jに、そういうとき、どういう言い方をするのかと問うてみた。彼は、bera ということばを使うと言った。

Bera iyeng maau ia tua nii.
われわれは、さっき、彼についていかなかったのを残念に思う。

bera とは、プナン語で、「残念に思う」「後悔する」という意味のことばである。Jにそのことを教えてもらったすぐ後に、わたしは、以下のように、わたしの思いを伝えた。

Ateklan tae alee na nii sukat mulie.
さっき、それ(木材運搬車)に乗るべきだった、そうすれば帰れたのに。


Jは、頷いた。

ここからは、わたしの推測を含めた勝手な思考であるが、出来事を悔いたり、やり方について思い悩んだりする、
こういうやりとりは、ふつうは、プナン人同士ではしないように思われる。ある出来事の未達成やまちがいを残念であった、悔やんでいると述べるようなことは、それでも、たまにあるように思う。しかし、「~しなければならない/~しなければならなかった(ateklan)」という言い方をすることは、ほとんどないように思われる。

言い換えれば、プナン人たちは、「後悔」「残念」という感情をもつけれども、「~しなければならなかった」「~したほうがよかった」などという「反省」へとは向かわないようなのである。「後悔」と「反省」とはちがう。「後悔」は悔やむことで、「反省」とは、「後悔」をベースにして、ああすればよかった、こうすれば適当だったと思いをめぐらすことなのである。その意味で、「後悔」と「反省」では、階型がちがう。

「反省する」ということばは、おそらくプナン語にはない。あえて言えば、「考える(kenep/pikin)」ということばが、それにあたるだろう。kenepとは「心」のことで、心を用いて、人は思い、考える。pikinとは、おそらくマレー語経由でプナン社会にもたらされたことばで、「考える」を意味する。

仮説的に述べれば、プナン人は、「後悔」はたまにするが、「反省」はほとんどしない。なぜ「反省」しないのか。いや、その問い自体がヘンかもしれない。じつは、われわれ現代人こそ、なぜ「反省」するのかと問わなければならないのかもしれない。しかし、都合上、いまプナンがなぜ反省をしないのか、しないように見えるのかについて考えてみれば、二つのことが考えられる。

一つは、プナン人が、状況主義であるということである。彼らは、過度に、状況判断的である。そのときどきに起こっている事柄を参照点として、行動を決めるということをつねとしていて、万事、うまくいくこともあれば、場合によっては、いかないこともあると承知している。そのため、くよくよと「後悔」したり、それを「反省」へと段階を上げても、何も始まらないのである。

もう一つは、「反省」しないことは、プナン人の「時間」の観念のありように深く関わっているように思えるという点である。直線的な時間軸のなかで、将来的に向上することを動機づけられているわれわれのような社会では、よりよき未来の姿を描いて、「反省」することを求められるというか、そのことを、学校教育、家庭教育において、徹底的に、植え付けられている。よりよき未来に向かう過去の「反省」を求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚は、どうやらない。狩猟民的な時間感覚は、われわれの近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「生きるために生きる」という実践をベースにしているように思える。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d87380cfa38c8884cb317393612e757c

(写真は、プナン人の古くからの主食、飴状にしたサゴ澱粉。これが、日々反省しない人びとをつくる素なのだろうか)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )