たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



帰国して1週間も経たないのに、わたしのこのどっぷりと日本社会に漬かってしまった感覚は、いったいどうしたものだろうか。学生へのオリエンテーション、履修指導だけでなく、会議、打ち合わせ、相談、さらには、課題、解決しなければならない問題が、次から次へと押し寄せてくる。終わったと思ったら、次の仕事。さらには、次の問題。机の上には、どんどんと後回しにした仕事が、貯まっていく。日本の平均的な大学の教員は、いまごろ、どこでも同じような状況なのだろうけれども。

プナンで暮らしたつい先ごろの日々が、過去の出来事のようにボ~ッとして、遠ざかっていく。いかん、虚学者=人類学の研究者として、せめて、一日に10分くらいでも、フィールドのことを反芻して、考えてみなければ。と思って、思いつくままに。

いったいヒトは、いつごろから、ものを食べるときに、箸やスプーン、フォークなどの道具を用いるようになったのだろうか。道具を用いるようになった初期人類が、道具を使わないでものを食べていた、のではないということは、断言できないのではないだろうか。つまり、ものを食べるときに、道具を使い始めたのではないだろうか。
ちろん、何を食べるのかにもよるが。そのあたり、考古学がどういう資料を持っているのか、わたしは、まったく知らないのであるが。

現代の狩猟民であるプナンは、飴状のサゴデンプンを食べるときに、箸様のピット(pit)を用いる。ピットは、木で作った箸であるが、二本の片端に穴を開けて、二本の木が紐でつながれているものである。彼らは、いまから30年ほど前に、米を食べるようになった。それ以後、プナン人は、ごはんを、スプーンを使って食べている。ごはんを食べるとき、ボルネオの先住民がそうするように、手で食べるということはない。必ず、スプーンを用いるのだ。これは、ものを食べるときには、それをすくい上げる道具を用いるということを習慣化してきた、身体化してきたということを示しているのではないだろうか。

ということは、仮に、東南アジアの狩猟民がサゴデンプンを主食として、箸のようなものを用いて食べるという行為を行っていたのだとすると、焼畑民は、それを継承して、道具を用いて、米を食べるようになったとしても、けっして、おかしくはなかったように思われる。しかし、実際には、東南アジアの焼畑民は、とりわけ、ボルネオ島の焼畑稲作民は、おおむね、手でごはんを食べている。焼畑民だけではない。水田稲作民も同様である。
これはどういうことなのだろうか。東南アジアの遠い農耕民の祖先たちは、道具を捨てて、あえて、手で食べるようになったのではないだろうか。ごはんを味わうだけでなく、ごはんの熱さを感じ、ごはんに触れることを愉しむようになったのかもしれない。

つまり、仮説としては、道具を用いてものを食べていた人たちが、米を食べるようになって、道具を捨てて、手で食べるようになったということである。ぜ
んぜん実証性のない仮説であるが。だとすれば、手で食べることは、ぜんぜん「野蛮」ではないことになる。

(写真は、ピットを用いて、飴状のサゴデンプンを食べるプナン人たち)



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