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たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



6月の文化人類学会の研究大会のパネルで、狩猟民プナンが、動物にも魂があることを認めており、それに反して、動物にはじつにそっけない態度を取ることについて、口頭発表した。それに対して、コメンテータから、プナンによる動物の魂の観念を現代に延長して、スピーシズム(種差別)批判とをどう考えるのかという問いかけがあり、わたしは、以下のように答えた。

スピーシズム批判というような、動物の権利を保護する運動というものをどういうふうに考えるのか。わたしの報告で強調したのは、魂というものを動物に認められるというふうに彼ら(=プナン)は考えているので、そのあたりとの関係についてという事だったと思うのですが。スピーシズム批判、種差別というのをどういうふうに考えるのかということですけれども、これはたとえば、ヴィヴェイロス・デ・カストロが報告するようなアメリインディアンの事例であるとか、あるいはプナンの事例であるとか、これは、あまり説得力がないというK先生はコメントされていましたけども、人間と間が共に意識であるとか心であるとか、あるいは魂を持つ存在というのがそこでは基本になっている。つまり、主体的な存在として、人間と間が同じ存在物であるという意識があくまである。これに照らすならば、わたしの見通しとしては、スピーシズム批判、動物の権利というのが西洋思考の文脈において発達してきたというのは、基本的には<人間のために存在する動物>というのが基本にあって、それに対して、動物に対してむごたらしい、あるいは行き過ぎた残虐さを示してきたということに対しての反省に近いのではないか。つまり、そこに何か人間精神に近いようなものを動物の中に読みとって、人間性と投影することによって、動物もまた悲しむ存在である、あるいは苦しみを動物に与えるべきではないというような考え方を、そこ(<人間のために存在する動物>)から、そういったかたちで積み上げてきたのではないかというふうに考えています。つまり、種差別批判は、プナンであるとかアメリインディアン人たちの人間と間が共に主体をもつような存在として考えているとものとは違うような文脈において、つまり、西洋思考の文脈において、独自に発達してきたものとして捉えられるのではないかというふうに考えています。

そうは言ったものの、わたしは、西洋の動物保護や権利をめぐる議論に関する十分な理解を持ち得ていなかったために、それは、たんなる印象論にしかすぎず、深めてゆかなければならないと考えていた。その矢先(7月になってから)、大学生協で、コーラ・ダイアモンドほか、中川雄一訳『<動物のいのち>と哲学』春秋社を見つけた。ざっと読んで理解できたのは、訳者による「傷ついた動物と倫理的思考のために」と題するまえがきだけで、5人の論者によって論じられている内容に関しては、ほとんどさっぱり理解できなかった。それは、一つには、題名にも示されているように、ノーベル文学賞作家のクッツェーの『動物のいのち』という本の内容が、議論の
ベースになっているためだと思われる。それを読まなければならないと思いながらも、夏季にはフィールドに出かけたので、そのまま放置したままになっていたが、昨日(9月19日)、朝日新聞の書評欄に、『<動物のいのち>と哲学』に対する高村薫の書評記事が載っていた。

 七〇年代に動物の権利擁護を求める過激な動物保護の思想が登場して以来、クジラやイルカの保護は世界の潮流になったが、食肉産業や実験動物の売買が消えたわけではない。菜食主義者が革靴を履き、ペットを愛する人間は競走馬を潰した馬肉を食べたりもする。イルカの知能の高さを保護の理由に挙げる人が、事故や疾病で知能が失われた人間を保護しないでいいということもない。 
 動物の扱いについて、人間はこのように錯綜しているのだが、とまれ欧米では今日まで、動物とは何であるかを規定し、動物をどう扱うべきかについて多くの議論が重ねられてきた。それらはおおむね権利論や生命倫理の側面から言語ゲームに終始し、懐疑に懐疑で応えるがごとき不毛さではあるのだが、一方で、哲学や文学からのアプローチがこの問題に与えてきた深みには驚くべきものがある。なにしろ、動物の扱いをめぐる問いが、哲学や倫理の限界へと接近してゆくのだから。 
 本書は、南アフリカのノーベル賞作家クッツェーによるプリンストン大学での記念講義ー架空の小説家の講義に対して架空の学者たちが論評すると言う構造をもち、のちに『動物のいのち』としてまとめられたーをめぐる、アメリカとカナダの哲学教授たちによる論文集である。『動物のいのち』自体がそうであるように、問われるのは個々の動物の扱いや動物保護の是非ではない。
俎上に上っているのは、殺戮される動物を眺めながら、突然自分が見ているものを言葉で言い当てることができない自分を発見する人間である。そのとき、この世界にむき出しで晒されながら、自分が動物と同じ脆い肉体をもつことを認めて傷つき、そんな認識に至る自分にさらに傷つく人間である。人間が動物にしている行為を眺めながら、生ける動物である自分を発見してうろたえ、人間であることの基盤が試練にさらされている。その瞬間をも凝視せざるを得ない人間である。こうした人間の現実から逸れていない哲学はないと言ったのは、シモーヌ・ヴェーユだ。

朝日新聞の書評より、評者:高村薫 2010年9月19日

新聞読者に向けて、本の射程を押さえて、きっちりと書かれているがゆえに、ひじょうに分かりやすい。しかし、こうした哲学の思考が、わたしたち人間にとって、どれだけの普遍性を持つのかという点については考えてみなければならないと思う。高村の解釈が正しいのであれば、ここでは、もっぱら、<傷つく人間>が問題にされているからである。はたして、動物をめぐる哲学談義は、
人間中心主義的な視点を逃れているのであろうか。

9月初旬、映画「ザ・コーヴ」の舞台となった、和歌山県太地町を訪ねた。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/2ee049383a9d7859059b9e08e050236b

僅かな時間であったが、「ザ・コーヴ」で非難が向けられているイルカ漁、ショーのためのイルカの海外輸出などは、そこに住み、捕鯨で生計を立ててきた人たちのイルカ・クジラとのつながりのほんの一面でしかないように感じられた。人びとは、イルカやクジラを、暮らしのなかで、
より大きな全体性のなかで捉えてきたような気がした。鯨の霊に対する弔いが行われるということは、人びとが、その死後までをも引き受けて、イルカ・クジラと向き合っているということではないだろうか。イルカショー、クジラショーが行われている太地町立くじら博物館の敷地内には、日本国内ではあちこちで見られる種類のものであるが、「飼育動物供養碑」が建てられていた(写真)。

ことによると、こういうことなのかもしれない。「人間か動物にしている行為を眺めながら、生ける動物である自分を発見してうろたえる」という人間目線は、太地町の人たちだけでなく、プナンやアメリカ先住民、さらには、非西洋諸社会には、もともとなかった。そうした人間目線は、動物が人間と異なる存在であるということが前提にあって、殺戮の場面で初めて、あっ、痛みはおんなじだと感じるようなものであるが、そうではなくて、あらかじめ人間と動物を分断するのではなく、それらがともにあるような、ともに向かってゆくような、死後世界・神話世界などの別の現実があって、そのような共同性を基盤として命のやり取りが行われてきたため、<傷つく人間>などは、そもそもいなかったのではないだろうか。人は、そうしたありようをアニミズムと呼んできた。

いずれにせよ、まずは、クッツェーを読んでみよう。



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The Penan of the Belaga, Sarawak, East Malaysia started hill rice planting in the late 1960s, but their knowledge of farming still remains relatively low.  They have had years when the harvest has been plentiful and also years when the harvest has been bad.  There was no harvest between 2006 and 2007 and only a very small harvest in 2008 and 2009.  They, therefore, nowadays still heavily rely on hunting for their living.  The Penan of the Belaga go hunting either from their settlement or temporary hunting huts in the forest.  They eat almost all creatures both from the forest and the river such as wild boar, deer, monkeys, birds, fish and so forth.

Their relations with animals are surprisingly simple at first glance.  The Penan usually avoid animals as much as they can, except for when hunting or catching animals in their daily lives.  They have strong taboos concerning animals that have been developed around the treatment of animals.  Mistreatment of animals is related to meteolorogical catastorophe such as thunder and lightning, and flooding, which are believed to be caused by supernatural beings (baley).

The Penan of the Belaga nowadays engage in two types of hunting:
(1) one is hunting in the surrounding rainforest between morning and sunset.
(2) the other is hunting in the oil palm plantations at night.
In addition, they sometimes trap small animals (maneu viu) by using materials in the forest.

The Penan are traditionally hunters in the deep jungle.  The Penan of the Belaga gradually started to settle or semi-settle in response to the instructions of the Sarawak State Government sometime in the 1960s.  The surrounding rainforest had gradually been cleared due to the encroachment of commercial logging into their region in the middle of the 1980s.  After the bulk of the trees in the forest were cut down, the oil palm scheme was introduced in 1997.  Under the oil palm scheme, all forms of vegetation were cleared. This seems to have further reduced the sources of food supply and cash income .

However, some of the Penan fortunately found that wild boar and other small animals would come to eat the fruit of the oil palm after such trees began to bear large fruit in the early 2000s.  In this way, hunting in oil palm plantations at night has recently been added to the traditional hunting in the forest (although they never distinguish one from the other).  Hunting in oil palm plantations is characteristic with waiting for and hunting the wild boar that come to eat the oil palm fruit.

Penan hunters usually leave home to hunt in silence.  People are expected not to ask where the hunters go or what they are trying to catch. Hunters then return home silently if they successfully obtain game animals. After a while (usually before or after cooking), they describe the hunt.  A typical description of hunting in the oil palm plantation is as follows:

Pukun lema taop merem akeu tae jin jebatan ayu kereta tae ton simpan lamin buhei akeu tuun sina akeu tae ke buhei mukat simpan dalem sawit tae avi tong uban tua saau mengisi obat pisit akeu tae rau kediva tae tong sawit ra kaben rau sina akeu menimuk mabui merem ja nalee merip ja pengah ineh mulie tong lamin.

At five o’clock in the evening, I took a logging company car from the bridge to the crossroads under the upper house. I got out of the car there and climbed up the mountain in the oil palm plantation. After a while I reached the spot where we were previously. I put a battery in my torchlight. I started to walk down the hill and reached the left side of the oil palm plantation, where I shot two wild boars that I saw last night. I got one, but the other escaped alive. Then, I returned to our hunting camp.

On the other hand, if they return home without game, they murmur “piah pesaba” (angry words for animals), primarily to let the family members know of their hunting failure.

Iteu ulie amie padie melakau puun ateng menigen saok todok kat selue pemine mena kaan uyau, apah panyek abai telisu bogeh keledet baya buin belengang dek ngelangi saok todok kaan panyek abai telisu bogeh keledet saok tedok kaan baya buin belengang dek ngelangi .

Here I walked back, my brothers, I could not catch any animals, I could not hunt any animals. My father will die, my mother will die ( if I tell a lie). Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer. Deer’s eyes which shine at night, crocodile, pig, hornbill, fowl cackles. I could not catch any animals. Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer. Deer’s eyes which shine at night.I could not catch any animals. Crocodile, pig, hornbill, fowl cackles.

“Piah pesaba” can be uttered only when no game animals have been caught after hunting.  It partly includes insults to animals: to play with their big nose, big eyes or nose shaped like a hammer’s head.  In contrast, the Penan say that they should not utter words such as “piah pesaba” on a daily basis, which are thought to attack or play with animals.  After returning from hunting without game, Penan hunters also explain their hunting failure as in the following example.  This case is taken from hunting in the rain forest.

Akeu kebai ayu atok tae tong long meru naat ia mabui tong penvangan menimuk mabui jin ju teneng mabui tenimuk dee avi dipee alet tuai maau jin long meru iyeng matai.

I took a canoe downstream and then reached the mouth of the Meru River, when I saw a wild boar on the bank. I shot it from afar. The wild boar bled and then escaped. I followed it to the opposite bank of the Alet River. It was not shot dead.



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動物と人間の関係をめぐる今日的問題を考える上で、重要であろうと考えていた(がなかなか時間の余裕がなく見ることができなかった)映画『ザ・コーヴ』を、DVDで買って観てみた。それと並行して、『ザ・コーヴ』をめぐる最近の評論の幾つかを集めて読んでみた(写真)。

映画の冒頭で、和歌山県太地町へと車で乗り込むリチャード・オバリーの行動が映し出される。オバリーは、1960年代に、「わんぱくフリッパー」というアメリカの人気テレビシリーズの調教師であったが、イルカを死なせてしまった自らの行いを後悔・反省して、それ以降、
地球上でイルカに対する暴虐的行為を非難し、生簀からイルカを逃がすアクティビストになった、いわば、この作品中のヒーローとして登場する。他方で、太地町の人たちは、政府や警察と組んで、イルカを世界中の水族館へ売ったり、イルカ肉を販売したりして利益を貪り、入江に近づく者を恫喝したりする、愛らしく頭のいいイルカを搾取する悪者として描かれる。後半で、生簀のなかのイルカたちが、船の上に乗った漁師によって、槍で突き刺され、入江が真っ赤に染まるシーンがあるが、そのシーンを映像に収録するための「隠し撮り作戦」の様子も、派手な演出によって描かれる。それは、この映画の最大の見せ場であり、そのことによって、太地町の「巨大悪」が浮かび上がる。

この映画は、アカデミー賞のドキュメンタリー映画賞を受けただけでなく、
日本国内で上映反対の抗議運動も起こったため、話題となった。日本国内のメディアに掲載された幾つかの意見表明を読んでみた。クジラ・イルカ食反対・賛成の二元論をベースにして、そのなかに絡み取られているものや、論理的な主張のできる日本人の出現を待望する意見、さらには、アメリカ人向けのエンターテインメント映画にすぎないという意見、欧米に比べて日本人の反応の鈍さに着目して言論の自由を称揚するものなどなど、わたしは、本質に届いていない多量の意見の垂れ流しに、かなりがっかりさせられた。

唯一、わたしが興味深く感じたのは、大場正明による「構成さえ誤らなければ優れたドキュメンタリーに」と題する、『キネマ旬報』(2010年7月下旬号)の載った文章である。大場は言う。「この映画は構成を誤らなければ、地域の伝統とグローバルな問題との関係を問う優れたドキュメンタリーになっていたかもしれない」と。この作品は、イルカが含む水銀の問題や海洋汚染、水族館に頼るイルカ猟の利益の問題などに関して、答えを出すための手がかりを与えるのではなく、「狩猟と血の海の映像を踏み絵のように差し出そうとする」ことで終わっているという。

大場は、中村生雄を援用しながら、「殺し」と「血」のイメージにまみれた狩猟と供犠に目を向ける意図を、「その一つは、『文明世界』が捨てて省みることのない人間と自然との本源的な関係を、ヒトの基本的な生産活動であった狩猟のいとなみや、祭祀の場で人間と神と自然の三項を象徴的に関係づけることでそれぞれの意味と役割を設定する供儀儀礼をとおして再検討することであり、もう一つは、そこでの成果を踏まえたうえで、ともすると観念的で、さらには全体主義的な方向にさえ向かいかねない環境保護主義の思想に批判的に関わっていくことである」[中村ほか、『狩猟と供儀の文化誌』森話社、二〇〇七年]と述べる。わたしなりに言い換えるならば、動物の殺害とは、それなくしては、本来的には、人間が生きていくことができないものである。血の海の映像は、はたして、そうした覚悟の上でなされているのかどうかを、きちんと見極めるものとして扱われるべきである。さらには、そのことを踏まえて、わけも分からずに、それはエコ的ではないと短絡し、
エコを声高に叫び、エコを実践するような志も何もない人たちを、知的に鍛えていかなければならないというのである。うん、そのとおりだ。

さらに、イルカの供養に触れて、川島秀一の『追込漁』の一節に触れて、「非日常的な生物が海浜に到来すると、すぐにペット化する現代からは想像しにくいことだが、日常的に人間と生物との直接的なつながあった時代には、それゆえにこそ野太い信仰も文化も生まれたものと思われる」[川島秀一『追込漁』、法政大学出版局、二〇〇八年]という。ただし、大場によれば、それは何も日本に限ったことではない。コーマック・マッカーシーの小説やショーン・ペン監督の映画には、それらと共通する視点や問題意識があるという。大場の結びのことば「状況を単純化して自然との多様な関係性を切り捨ててしまえば、生の営みや社会の基盤は脆弱になる。その歪みがすでに様々なかたちで露呈していると思うのは筆者だけではないだろう」。

わたしの言いたいことは、残念ながら、この大場正明によって、ほとんど言われてしまっている。要は、人間と動物、人間と自然の関係のありようを考えるならば、この
『ザ・コーヴ』という作品は、一方的であり、単純すぎるのだ。結論に向けて、突っ走っているのみ。人間と自然の多様な関係性を、こんなにあっさりと切り捨ててしまうとは!全編をつうじて、太地町の人たちが描かれていないという印象があるが、ことは、そんな簡単ではない。自らの議論と実践を深く追求する一方で、太地町の人たちの、人間と自然をめぐる実践のかたちに届こうとさえしていないのである。おそまつ!エンターテインメント映画ならば、こういった人間の根源に触れるテーマを取り上げるべきではないとわたしは思う。 

覚書として。



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「サルは左利きだ」と、プナンは言った。
そもそも、そういった言い方をプナンがしたわけではない。
というのは、プナン語には、<サル>という動物分類のカテゴリーがないからである。
カニクイザル、リーフモンキー、赤毛リーフモンキー、テナガザル、ブタオザル。
この5種は、マメジカやヤマアラシ、ヤマネコなどと同じように、動物に分類される。
サルがヒトに似ているとは、少なくとも、プナンは思っていない。
サルがヒトの祖先であると、学校で教わったあるプナンの子どもは、びっくりして、それがほんとうかどうか親に尋ねたという話がある。
プナンの神話では、マレー人がイノシシになるというふうに、ヒトが動物になるのである。
以下、プナンのハンターから聞いた話。
リーフモンキーは、樹上高くで暮らしていて、地上に降りてくることはない。
カニクイザルは、ときどき地上に降りてくる。
ブタオザルは、地上を歩く。
赤毛リーフモンキーに、ジャングルのなかで出くわすことはほとんどない。
これらのうち、もっとも弱いのは、リーフモンキーとカニクイザルだ。
逆に強いのは順に、ブタオザル、テナガザルだという。
「サル」は、左手で、相手を威嚇するという。
そういった場面が、何度か目撃されている。
それゆえに、レフティーなのだという。
ほんとうなのだろうか。
残念ながら、わたしは、それらがしとめられる現場に立ち会ったことはあるが、それらが争っている姿を見たことはない。
どうやら、霊長類にも利き手はあるらしい。
ニホンザル、アカゲザル、ベニガオサル、カニクイザルには、左利きが多いという報告がある。
しかし、すべての霊長類が、左利きであるということではないようだ。
http://web2.chubu-gu.ac.jp/web_labo/mikami/brain/33/index-33.html
左利きは、感性やひらめきなどの右脳の発達に、右利きは、言語や論理などの左脳の発達にリンクしているのだろうか?
どうやら、そんなこともなさそうである。

http://sasapanda.net/archives/1962
ヒトの左利きはサル的(プリミティブ)、右利きはヒト的(文明的)というのは、正しくないだろう。

(写真:ブタオザル)



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人間と動物の関係を考える上で、動物を殺戮する技術は重要であるが、その後、解体・料理するさいの道具もまた、重要なのではないか。獲物を解体・料理するさいに、迅速俊敏にそれを行うための道具。それは、鉄器である。

プナンは、刀鍛冶に長けている。たたら場をもち、そこで自在に鉄を鍛える技術を継承してきている(写真:鉄を鍛えるためのふいごが、高床式の家の下に常設されている)
鉄の起源について、わたしが集めた口頭伝承のなかに、以下のようなものがあった。

プナンは、川の上流を遡ったところで、川のなかが赤くなっている場所を見つけた。そこを掘って石を取り出し、袋のなかにいっぱい詰め込んで持ち帰った。その石を焼くと、石の一部は形を変えるようになった。そこから、プナンは、刀や小刀などをつくるようになったのである。

プナンは、ジャングルのなかにあった材料を用いて、鉄を鍛えはじめたということが伝わっている。
今日でも、近隣の焼畑民が、プナンに鉄を鍛えてもらいに頼みに来る。プナンの鍛えた刀は、しなやかで、切れ味が鋭いと評判である。このことから推すと、プナンは、古くから、ボルネオのジャングルにおけるたたら衆であった可能性が高い。

刀や小刀は、動物を解体するためだけに用いられるのではなく、藪や木々を切り裂き道を開いたり、薪や小屋用の木材を用意したり、場合によっては、人間を殺傷したり、脅かしたりするための武器になりうる。刀鍛冶に長けた狩猟民は、そうした殺傷性をもつ道具づくりに長けた人びととして、森のなかで、孤高の独立した存在であったのかもしれない。

人間と動物の関係を考えるためには、
狩猟民と刀鍛冶の関係について広く調べなければならない。そのための簡単な覚書として。



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人間と動物との近接の禁止とは、すなわち、動物に触れないことである。しとめられた動物に子どもたちが触れていると(写真)、大人たちは、その行動をたしなめたり諭したりするだけでなく、場合によっては、厳しく強く怒る。動物をからかうと、動物に触れると、雷神が怒って、天候激変に見舞われるからである。動物は、そこでは、触れてはならない存在である。子どもたちがつねに獣に触れたがることから推すと、動物とは、人間にとって、基本的には、触れてみたい対象・存在であるのかもしれない。どんな触り心地なのか、どんな形状なのか、いろいろと触って確かめたいのかもしれない。そのことが禁止される。動物を狩るさいにも、狩猟民プナンは、直接、対象に触れることによって、獲物を手に入れる行動を取ることはない。触覚をたよりに、動物を手に入れることはない。人間は、手ではなく、手の先の道具を用いて、動物をしとめる。毒矢(吹き矢)、槍、ライフルによって。接触点・面でいうならば、<人間/動物>ではなく、<人間/道具/動物>である。これは、人間と動物の関係においては、触覚の徹底的な排除を意味するのではないか。このことは、プナンが、近年、近隣の焼畑民から「形式的に」導入した家畜・ニワトリの扱いのなかに、特徴的に見られる。彼らは、ニワトリを「飼う」。しかし、それは、食べるためでもなければ、卵を生ませるためでもない。ただ「飼う」ために飼っている。「飼う」ことを遊んでいる。餌を与えて、籠に入れておくだけである。ニワトリにほとんど触れることがない。闘鶏などは、プナンになじまない。猟犬は、プナンにとって、飼育される唯一の動物である。名前も付ける。しかし、べったりと触れ合っているというようなことはない。触れない距離に「飼う」のが基本である。こうした人間と動物の間の触覚の軽視、排除とは逆に、プナンは、狩猟のさいに、(味覚を除いて)触覚以外の3つの感覚を多用する。人間が発する匂いに対して、プナンはことのほか気を使う。とはいうものの、匂いを消す特別な処置を行うことはない。イノシシなど、動物のなかで、嗅覚にすぐれたものがいると、彼らは考える。狩猟時には、ハンターたちは、視覚を最大限利用する。獣の姿かたちを追うだけでなく、その痕跡を足跡を見ながら追う。大切なのは、聴覚である。つねに声や音を聞く。リーフモンキーの鳴き声がしたら、山刀で藪を切り開いて、一目散に、獲物めがけて前進する。イノシシが果実をかじる音、小動物が動く音を聞き逃さない。マメジカをおびき寄せるために草笛を吹き、鳥を招き寄せるために鳥の鳴きまねをする。プナンの狩猟は、嗅覚、視覚、聴覚を連動的に駆使することによって、組み立てられている。触覚は、狩猟の構成要素ではない。人間と動物の間に駆け引きがなされるのだとすれば、プナンの場合には、嗅覚、視覚、聴覚をつうじて、それが行われる。覚書として。



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日本文化人類学会の研究大会の開催に合わせて人獣科研の合宿を行った。
http://www2.obirin.ac.jp/~okuno/man-and-animal.html
メンバー全員はそろわなかったし、研究発表をきっちりとやるというのでもなく、雑談・放談入り混じっての、ゆるゆるな感じの意見交換のための懇談会という趣だったが、研究会のように口頭発表を聞いてがっかりするというようなこともなく!、まとめの向けてのウォーミングアップのようなものながら、ブレがないかたちで方向づけをすることができたので、こんなやり方もなかなかいいなあと、改めて感じた次第である(写真:Mちゃん、差し入れ有難う)。まとめに向けた課題に関する見通しはここでは触れないとして、もうすぐ出かける予定の、わたし自身の調査研究のための覚書として、獣と人に関して思いついた点に関して
書き留めておきたい。第一に、もともと科研のサブタイトルが「コスモロジーと感覚からの接近」であり、感覚については個人的に関心があったのだが、切り口が得られず困っていた。あるメンバーの調査地での触覚をつうじた獣との関係の捉え方に学んだ点がある。そこでは、触れることをつうじて、獣への親密性を獲得するだけでなく、逆に、獣からの攻撃を受けてケガをする場合もあるという。そうした触覚による獣への接近は、狩猟をゲーム(獲物ではなく、遊びのゲーム)として見る見方へとつながっている。他方で、狩猟民プナンにとって、獣は、基本的には、触れてはならない、接触してはならない存在であり、忌避され、遠ざけられているがゆえに、狩猟はゲームのようなものとして捉えられるのではなく、獲れるか獲れないかという<運>の問題に還元されて語られることになっているように思われる。プナンは、極力、獣に触れないために、その温もりをとおして、動物性というものを感じることがない。別の角度から言えば、触覚による接触が極小化されている。狩猟民には、彼らが獣を飼育しないために、基本的には、動物との触覚を介した関係性が構築されることがないのかもしれない。プナンの事例観察をつうじて、こうした点に関して、もう少し深めてみたいと思う。第二に、獣が有する心や魂、あるいは主体の問題とも関連するが、人は、種や類として獣を捉えるのではなくて、獣をそもそも個体として捉えているのではないだろうかという問題提起があった。マテーリアとなり、種として消費される肉としての獣は、もともとは、人間にとって、個別的な関係の対象だったのではないだろうか。農耕牧畜民から遡り、狩猟民にとって、例えば、イノシシを種として捉えているのかというと、じつは、そうではないのかもしれない。種に魂があるわけではない。個々のイノシシに魂がある。こうした点に関しても、調査をつうじて、探ってみたいと思う。最後に、その他の話題。わたしたちは、人間から出発して人と獣の関係を見ていて、人による獣の捕食だけしか視野に入っていない。逆の、人が獣に襲われて食べられる事態が欠けている。人と獣の関係を考えるさいには、とりわけ、獣と人の人類史を視野に入れるならば、トラやサメ、ゾウに襲われる人について考えることも必要ではないかという意見が出された。さらには、ペットというのは、人による操作対象に情愛が注がれて、そのことが肥大化する極端なあり方の蔓延化現象という意味で、検討すべき重要なテーマではないかという意見が出された。



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3年生専攻演習の上溝フィールドワークの二日目。晴れて暑かった一日目とはうって変わってあいにくの雨。そのために、5月にしてはかなりの肌寒さ。上溝の市場開設記念碑を見に行った。市場が開設されたのは、明治3年、いまから140年ほど前のことである。そのころから上溝は、周辺の市場として、賑わい始めた。たくさんの人が、このあたりに住んでいた。上溝を歩くと、飛び地的に、墓場があるのが目につく。寺の敷地には、墓がひしめきあっている。あちこちに、大小さまざまな社があり、神々の場がある。上溝には、死者(の霊)や神が座す別の次元への入口が、そこここに見出せる。その意味において、そこには、かつて人間が暮らしていた確かな証があると感じられる。マンション群に覆われた現代の空間においては見出すことができないような、異次元との交信のための場が、いたるところにあると言い換えてもいいかもしれない。そのことによって、落ち着きや、安らぎのようなものが感じられる。

さらに、そのあたりは、太平洋戦争後に、養蚕業から畜産業へと産業の転換が計られた土地であり、人びとの
暮らしを支えてくれる生き物に対する供養塔の類を、たくさん目にすることができる。歩いているときに、JAの敷地内の道路脇にある大きな「畜霊碑」を見かけた。許可をもらって写真を撮り、裏面に刻まれた文字を写しとった。表には、「神奈川県知事 津田文吾書」とあった。死霊や神だけでなく、獣の霊へと思いをつなぐ場所、それらの異次元の存在と交信できる場が、そのあたりにはあちこちにある。

相模原は畜産団地として全国に名を知られその生産数は五十億円を突破し本市農家の基盤となっている。とくに関係者一同先人の労苦を偲ぶとともに犠牲となった家畜の霊を慰めるため碑を建て今後の畜産の隆盛を祈念

相模原市酪農家一同
      養豚家一同
      養鶏家一同
      食鶏家一同
上溝肥育牛組合
相模原市農業協同組合
株式会社北相高崎ハム
昭和四十五年九月彼岸建立
相模原畜霊碑建設委員会 委員長 小泉保雄

相模原市内のその他の家畜の霊に対する碑は以下。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9f43676ce35b71f196bec87c062d838a



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本日、相模線上溝駅周辺で3年生ゼミのフィールドワークを行った。学生諸君と別れて歩いていると上溝JAの敷地内に社のようなものがあったので、立ち寄ってみた。蠶影神社(こかげじんじゃ)としてあった。養蚕の神を祭る社なのかもしれない。よくみると、小さな本殿の脇に、蠶霊供養塔(さんれいくようとう)なるものが建っていた(写真)。蚕の霊を供養している塔である。1メートルにも満たない小さないしぶみであった。その裏面には、昭和六年十月十六日建立という文字が刻まれていた。いまから79年ほど前のことである。いしぶみや神社の写真撮影をさせてもらう許可を得るのと、何か話を聞かせてもらえればと思って事務所に入って名刺を渡すと、そこにいた女性はわたしのことを知っていた。大学の卒業生で、私の授業も受けたことがあるという。吹き矢の実演を覚えてますよとのことだった。彼女が取り持ってくれて、上司に話をしてくれて、職員の方たちから話を聞くことができた。蠶影神社そのものの設立の起源は不明であるが、いまでも毎年1月に、豊蚕祭というのを、神殿の前で、JAの関係者が行っているとのことであった。このあたりは、かつて養蚕業が盛んな土地柄であって、そのことから、蠶影神社が勧請されたということは、十分に予想される。盗難を恐れて、神殿のなかにはご神体は安置されておらず、それは、通常は、事務所のなかに置かれているとのことであった。蠶霊供養塔については、偶然、JAに用事があって来られていた年輩の女性に話を聞くことができた。彼女がこのあたりに嫁いできた昭和39年頃には、「おかいこ」と称する行事、すなわち、蚕の霊の供養が行われていたという。その後、昭和40年代まで、このあたりでは、どうやら蚕の霊の供養が行われていたようである。それが、どういった催しであったのか、どういう意味を持っていたのかという点に関しては、明らかにならなかったが、かつて<絹の道>沿いの養蚕家が多かった相模原で、蚕の霊を弔っていたという事実が浮かび上がってきた。JA上溝のみなさん、ご協力有難うございました。



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雪積もる札幌で、一昨日の夜の飲み会の帰りに、信号が赤に替わりそうになり、走って渡ろうとしたところ、すべって転んで肋骨を痛打した!いまだに痛む・・・夜になって路面が凍結していたのである。なんたる失態。冬の北海道のふるまいのルール。教訓として。

横断歩道、信号が替わりそうでも、あわてて渡るべからず。

さて、昨日は、科研費研究「人間と動物をめぐる比較民族誌研究:コスモロジーと感覚からの接近」通称:人獣科研)の2年目を締めくくる中間成果と今後の研究をめぐる報告会が開催された(於:北海道医療大学札幌サテライトキャンパス)。
http://www2.obirin.ac.jp/%7Eokuno/man-and-animal.html

以下、その要点の簡単な個人的覚書。

①.人間中心主義に対する疑問が、当初、研究全体のベースにあったように思えるが、非西洋社会の生態学的健全性を称揚するかたちで、その問い直しを掲げる
というのは、いかがなものか。つまり、われわれ現代人が、自然に対して傲慢にふるまっていることをめぐる道徳の問題に接近しても仕方がないのではないか。そうではなくて、なぜ、われわれは、しばしば、そういったロジックになぜ陥るのかについて考えてみる必要があるのかもしれない。

②.メラネシアの某社会では、人間対動物という、わたしたちが前提としているようなカテゴリーはどうやらない。動物はたんに列挙されるのみであり、その分類はアドホックで、文脈依存的であるように見える。そこでは、人間と動物という問題設定の難しさがあるのだ。またそこで、狩りの話を集めていくと、動物には、肉としての意味が顕著に与えられていて、動物への配慮であるとか、尊重というものが微塵も感じられない。動物の非主体性というようなものが垣間見える。さらには、男の領域や女の領域との関わりで、身体を介した動物との相互作用という観点から、人間と動物について考えることができるのではないだろうか。

③.アフリカの牧畜民社会には、今日、急速にイスラームのグローバル経済の圏域に含まれつつある。そこでは、道路が整備され、交通が盛んになる一方で、かつての輸送手段としてのウマやラバの数が減少しつつある。さらには、イスラーム経済に基づいて、
去勢されない家畜が経済的な価値をもつようになってきている。いろいろと調べたい。

④.ロボットやサイボーグは、人間に似せてつくられればつくられるほど、キモイものになると感じられる。ロボットのなかに人間性を付与することは、精神や理性を人間だけに割り当てた近代思考の図式の再生産になっているのではないだろうか。動物性というキーワードが、そうした人間と動物の集積体の理解の助けになるかもしれない。

⑤.ツェタルや放生は、中央・北・東南アジアから日本にいたるまで、多様な形態をともなって
広がる、生き物や無生物に対する宗教的な実践として捉えることができる。供犠が、秩序の更新であるならば、そうした実践は、秩序の持続化に関わっているのではないだろうか。

⑥.東アフリカの某社会における牛は、しばしば、妖怪として表象される。人と牛の関係は、生業に関わる実践領域に及ぶだけでなく、恐れや畏怖、さらには、病気や治療の領域とも関わっている。

⑦.人間と動物の関係をめぐる人間中心主義的な思想に対する批判的な考察は、議論や企画の出発点とはなるが、民族誌研究が、
一般論を超えて、道徳的・政治的な提言をすることには、そうとうの飛躍があるように思える。さらには、人間中心主義の基礎にある西洋近代思考を批判対象とするためには、西洋形而上学の成り立ちを含めて、かなり緻密な検証が必要となる。はっきり言って、手に負えない。いまは、エスノグラフィーの詳細へと向かいたいが、他方で、なんらかのかたちで、一般論も視野に入れることの必要性も感じる。一歩引いて眺めれば、
人間と動物の関係は、つねに本質的なかたちで、人間の精神に通底しており、人間社会に、普遍的に多様なかたちで現れうるものでもある。そうした観点から、今後は、人間と動物の関係の多様なありかたの提示という方向づけもありうるのではないか。

(研究会のホストであるHさんの車で、研究会終了後、札幌近郊の温泉へと向かった)



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以下は、狩猟キャンプを夜中に突然襲った激しい雷雨と嵐に直面して、ティマイによって唱えられた「空に祈る(migah langit)」の祈願文のテキストである。

Baley Gau, baley Lengedeu
Akeu pani ngan kuuk baley Gau baley Lengedeu
Ia maneu liwen anah medok ineh
mau kuuk liwen mau kuuk pengewak baley Gau baley Lengedeu
Ia maneu liwen Berayung gamban medok
Dom Lasen mala ineh maneu kuuk seli liwen
Pengah akeu menye bok  mena kau baley Gau, baley Lengedeu
Mau kela baley gau, baley Lengedeu

(日本語訳)
雷神よ、稲光の神よ。わたしはあなた、雷神と稲光の神と話している。嵐を起こすのは、ブタオザルのせい。雷神よ、稲光の神よ、あなたは嵐を起こすのを止めておくれ。嵐を起こすのは、ブラユンがブタオザルの写真を撮影したから。ドムとラセンがそれを笑って、そのことがあなたの気に障って、嵐を起こした。わたしはあなた雷神、稲光の神のために髪の毛を燃やした。雷神よ、稲光の神よ、あなたも(嵐を起こすのを)止めておくれ。

ティマイは、その日の昼間、ラセンとドムという二人のハンターが、猟からブタオザルを持ち帰ったときには、狩猟キャンプにはまだ戻ってきていなかった。しかし、同じく猟に出かけていたティマイは、後に、狩猟キャンプに戻った後で、ブタオザルをめぐって狩猟キャンプで行われた、ラセンたちの行動の概要について聞き知ったにちがいない。

ブラユン(筆者のプナン名)が、猟から持ち帰られたブタオザルを写真撮影するのによく見えるように、ドムが、死んだブタオザルにポーズを取らせたのである。ラセンとドムは、それに興じて笑った。さらに、彼らは、ブタオザルと戯れたのである。

ティマイは、ブタオザルに対するふるまいが、稲光を伴う雷鳴と風雨を引き起こした原因だと推測して、髪の毛を引きちぎって、それを燃やしながら、雷神と稲光の神に唱えごとをしたのである。このように、しとめられた動物の写真を撮り、それに興じることは、動物をあざ笑うまちがったふるまいであるとされる。プナン人は、雷雨や大雨、嵐や洪水などに直面するとき、あるいは、それらが間近に迫っていると予想される場合に、雷神の怒りを鎮めるためにこうした儀礼を行う。

はたして、こうした動物に対する禁忌は、人類にどれくらいの範囲で広がっているのだろうか。そして、その意味は?先週末の研究会では、日本でも、ヘビを指差すと指が腐るという言い伝えがあることを聞いた。それは、動物への非礼に対する戒めであろうか。つまり、上記の東南アジア先住民社会に広がるヒトー動物関係の文脈に連なる禁忌なのだろうか。いや、たんに、指差すという一種の呪術実践に対する禁忌・戒めなのだろうか。いまのところ、わたしには、その点に関しては答を用意できていないが、今後、考えるための覚書として。

(昼間、わたしが写真を撮るのに合わせて、ブタオザルの生殖器と戯れるドム)



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If Penan hunters return home without game, they murmur piah pesaba (angry words for animals), primarily to let the family members know of their hunting failure 1). 

Iteu ulie amie padie melakau
puun ateng menigen 2)
saok todok kat 3)
selue pemine mena kaan 4)
uyau, apah 5)
panyek abai telisu bogeh 6)
keledet baya buin belengang dek ngelangi 7)
saok todok kaan
panyek abai telisu bogeh
keledet saok tedok kaan
baya buin belengang dek ngelangi

The above piah pesaba can be loosely translated in the following:

“Here I walked back, my brothers, I could not catch any animals, I could not hunt any animals.  My father will die, my mother will die.  Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer.  Deer’s eyes which shine at night, crocodile, pig, hornbill, fowl cackles.  I could not catch any animals.  Pig’s ugly nose, Malay who was once a boar, pig’s nose like a hammer’s head, big-eyed deer.  Deer’s eyes which shine at night.I could not catch any animals.   Crocodile, pig, hornbill, fowl cackles.” 

Piah pesaba can be uttered only when no game animals have been caught after hunting.  It partly includes insults to animals: to play with their big nose, big eyes or nose shaped like a hammer’s head.  In contrast, the Penan say that they should not utter words such as “piah pesaba” on a daily basis, which are thought to attack or play with animals.

In Penan society, it is believed that the meteorological catastrophe such as thunder, lightning, heavy rain and flooding is not partly but mostly attributed to the failure of human action.  Human mistreatment such as attack or play with animals is believed to cause meteorological catastrophe. 

1) The Penan of the Belaga River utter piah pesaba only when they return from an unsuccessful hunting trip, while according to Jayl Langub, “the texts of the utterance (of piah pesaba) convey the message to the audience in the village whether or not they caught a pig, its size, fatness or whether they caught other types of game, or that the hunt was completely unsuccessful” [Jayl Langub 2009: 9].  Jayl Langub shows that the root word “sabah” from “pesabah” is often used as an expression of sincerity of offer, drawing on Peter Brosius’s PhD dissertation [Jayl Langub 2009: 9, Brosius 1992].  However, I could not find (the meaning of) any word “saba” or “mesaba” during my fieldwork among the Penan of the Belaga.  A Japanese ethnomusicologist, Shimeda who visited the Penan of the Belaga River in the 1980s, translated “piah pesaba” into Japanese as murmuring words for animals [Shimeda 1996].
2) The term “ateng” is an emphatic negative [Brosius 1992: 919].  The word “menigen” means “to hold”.  This line means “we did not get anything” [Jayl Langub 2009: 9].
3) The words “saok” and “todok” mean “all”, while “kat” means “each and every” [Brosius 1992: 920].  This line means not a single animal [Jayl Langub 2009: 9]. 
4)The word “selue” means “all” and “pemine” means “the majority of” [Brosius 1992: 920].  The word “mena” means “give” and “kaan” means “animal”      
5) These words are so called “death names” given to an individual upon the death of his/her father and his/her mother.  This line can be interpreted as “if I am not tell the truth Father will die, Mother will die” [Jayl Langub 2009: 10].
6) The word “panyek” means “the blunt nose of the pig, which Penan consider to be ugly”. “Abai” is a “term for Malay” who was thought to be transformed by pigs by Penan in story.  “Telisu” is a “term for hammer, referring to the flat nose of the bearded pig”.  The word “bogeh” means “Bugis” [Brosius 1992: 922].  Belaga Penan explained to me that “bogeh” means “big-eyed deer”. 
7) The word “keledet” refers to “eyes which shine at night when a light is shone at them” [Brosius 1992: 920].  “baya”: “crocodile”, “buin”: ”pig”, “belengang”: ”rhinoceros hornbill”, “dek”: “fowl”, “ngelangi”: ”cackle”.  

(picture: my temporary hut for hunting at night in a oil palm plantation along the Belaga) 



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昨日(11月23日、勤労感謝の日)は、本年度から学期15週制になったため、国民の祝日にもかかわらず授業日であったが、その点はひとまず置くとして、11月下旬にしてはことのほか暖かく、夕方から、相模川の「鮎供養搭」を見に出かけた。キャンパスから半時間ほどの距離、相模川の高田橋の橋脚の脇に、その塔はあった(写真)。かつては大山参りの人が利用する久所の渡しがあった場所で、隣には、久所の渡しの碑が立っていた。鮎供養搭は、その石碑の裏に、「相模川第一漁業協同組合 昭和32年4月」という文字が刻まれていた。どういった経緯でこの碑が建てられたのかについては、記されていなかったし、ホームページにも載っていなかった。
http://www.sagamigawa.jp/

予想では、鮎を殺生することで生かされている(あるいは、鮎釣りを生業とすることで生かされている)ことに対する感謝の念を、鮎に対して供養することで表現したものではないだろうか。いずれにせよ、日本各地には、いたるところに、こうした類の動物(霊)に対する石碑がある。石碑だけを見るならば、石に、慰霊や感謝の念が書きつけられるということでは必ずしもなくて、その石が、慰霊や感謝の念を表明するための碑であるとか塔であることが示されることによって、こうした実践は成り立っている。となれば、動物への慰霊を、日本人の碑っをめぐる文化実践とでもいうべき側面からも探ってみると面白いのかもしれない。できるかどうかは別にして。




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志ん朝の落語全集の『佃祭』は、佃島の住吉神社の祭に出かける神田お玉が池の小間物屋・次郎兵衛の噺である。佃祭を見物に行った次郎兵衛は、暮れ六つの、満員のしまい船に乗ろうとしたとき、一人の女性に引き留められ、船に乗り損なう。その女は、3年前に吾妻橋から身投げをしようとしたときに、次郎兵衛が、5両のお金を恵んで助けた娘だったのである。次郎兵衛はその女の家に招かれる。周囲がざわめき立っている。尋ねると、しまい船が沈んで全員死んだという。泳げない次郎兵衛は、その女に助けられたのであった。いっぽう、神田お玉が池の次郎兵衛の家では、しまい船転覆の報を受けて、葬儀をはじめていた。そこへ、次郎兵衛が戻ってくる・・・

次郎兵衛が、住吉神社に参詣する、人助けするような情け深い人物であることを描いたこの噺は、海上安全、渡航安全の守護神としての佃島の住吉神社のご利益の物語として読み直すことができるのかもしれない。

その佃島の住吉神社の境内には、「鰹塚」の大きな石碑が建っている(写真)。昭和28年に、東京鰹節類卸商業協同組合・株式会會社東京鰹高取引所によって建てられたその碑は、川田順造氏
の著作のなかで、すでに繰り返し取り上げられている(①川田順造『文化人類学とわたし』岩波書店、②川田順造編『ヒトの全体像を求めて』藤原書店)。

その碑の建設をつうじて読み取れる人間
の態度とは、川田によれば、「他の生命の犠牲によってしか生きるすべのない人間のかなしい業を自覚し、生きること自体が含む矛盾を受け入れ、自覚することでそれを超えようとする態度」(①の150ページ)である。川田は、「偽善とみえるようなこの供養や塚の考え方は、だが私が『創世記パラダイム』と名づけている、神は己の姿に似せて人間を創り、他の動物を人間のために創ったという前提にもとづく、いわば確信犯としての動物利用とは、人間も他の生き物と同等に生きているという前提において、やはり異なっていると考えたい」(①の151ページ)という。

わたしは、川田のいう「人間中心主義」を再検討するという観点を共有している。
昨日わたしが訪ねた折には、石碑の前には、以下の文面が掲げられていた。

 鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
 神社建築では棟木の上に鰹節に似た内柱状の飾り木「堅魚木(かつおぎ)」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701年)「養老律令」(710年)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅
魚煎汁(かたうおいろり)(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存食調味料としても利用してきました。
 東京鰹節卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和28年5月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員96名の積み立てによる浄財でまかなわれました。使い氏は鞍
馬石(高さ7尺、幅4尺)、台石は伊予青石(高さ3尺)であります。
 表面の揮毫は、日展審査員で組合員、鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。
 東京都鰹節類卸商業協同組合

鰹は、古来から食用としてだけでなく、暮らしのなかで用いられてきた、日本人にとって欠かせない存在である。その豊漁を願うとともに、そのみたまに感謝と慰霊を捧げる目的で、この石碑が建立されたことが述べられている。裏面には、国文学者・民俗学者の池田与三郎による碑文があった(()を付けた部分は、解読できなかった文字)。

  鰹塚縁起 池田彌三郎撰
 この東京佃島に鎮座ある住吉大神は國土平諸人幸福を輿へたまふ神として尊ばれておいでになる 
 とりわけ海上の安全を守護し給ふ神徳のあらたかさを以って神功皇后の古から幾星霜にわたって海に冨を得幸を求めようとする人の篤い崇敬をうけて来られたことは今更申すまでもない 
 私ども東京鰹節問屋の組合でも江戸時代の初めから今に到るまで此大神を私どものなりはひの為の守護神と崇め敬ひ奉仕の誠心を致し来つたのである 
 今日私どもの生業がかくの如く繁榮を来したのも全く此大神のみたまのふゆの致す所と感謝し奉つてゐる 
 それと共に私どもにとつて常に恐れることの出来ないのは尊いその尊いその神意に添つて大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたまに抱くおなじ感謝の心である 
 そこで私ども崇敬者の間に大神の御為の報賽と鰹の魚のみたまに對する感謝慰霊の心を如何にして表さうかと言ふおさへ難い情熱が高まつて来た組合員の總意はこの住吉神社の境内に鰹塚を建ててその人たまを齋くことにまとまったのである 
 願はくば神とみたまとの感情の上に私どもの報賽の志が行きとほつほしいものである 
 鰹の魚の大鰭小鰭洩れることなくうけがひ( )ひ給へとひたすらに祈る次第である
 昭和二十八年歳在癸巳五月穀旦
 東京鰹節類卸商業協同組合
 株式会會社東京鰹節取引所

碑文を作成した池田によれば、住吉大神こそが、わたしたちに鰹を授けてくださる至高の存在である。ここでは、「みたまのふゆ」という民俗学的な想像力を用いて、彼は、そのことを表現している。さらには、鰹は、その大神の従者であり、わたしたちにその身を投げ出して、わたしたちを生かすだけでなく、わたしたちを楽しませてくれているので、わたしたちは、鰹のみたまに同様の感謝を抱いているのだという。そのため、組合員には、その二者(大神と鰹の御霊)に対する感謝慰霊の心が、もうどうしようもなく抑えきれないところまでなって、住吉神社に鰹塚を建立することになったというのである。

56年前に石碑の裏面に刀で堀削られ、すでにところどころ読み取りにくくなっているこの碑文には、生き物に対する日本人の集合的な感性が、いや、いまとなっては曇ってしまっているその証が、力強く書きつづられている。「大神の(御)使として眷属として私どもの廻りから身を匿し逃ることなくおのが身を世の人の食膳に上せ海の幸の賑はひを盡し給ふ鰹の魚のみたま(=大神のお使いとして、わが身をさらし、食膳に上げて、食を豊かにしてくれる鰹のみたま)」という表現によって、ここで描かれているのは、なんたる生き生きとした鰹たちの姿であろうか。鰹がピチピチと跳ねて、喜んで、その身を人間にさらしているかのようである。

そこには、<食べる側の人間>と<食べられる側の魚>という線引きがあるのではなく、魚が、あたかも人間のように、大神の意思を受けて、嬉々として身を捧げるような存在として描かれている。別の観点から述べれば、日本人は、人間と他の生き物の間に明瞭な線引きをしないで、その共通性・連続性の基に、人間と動物の関わりを想像してきた
のではなかったのか。逆に、他の生き物を異質性・非連続性のもとに捉えることが、川田のいう「創世記パラダイム」に沿った西洋の動物観のおおもとにあるのではないだろうか。それは、グローバル化が進む今日、普遍主義的に全世界に浸透しつつある。

住吉神社の巨大ないしぶみは、わたしたちに、日本的な生き物観を
忘れてはいけないということを精一杯主張しているようにも見える。

これまでの、関連するトピックに関する記事。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/f3f40b94ca19499a50de299a41829455
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/21ef6d013ee599e1af3c0d573d292791
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/9f43676ce35b71f196bec87c062d838a
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/acacf5a7a03ef6d7e2a23d4dadcce3ce
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/00ada481c69a4cf43a83bb5441284976
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/843ecd4f1437125a62bc8ef0f7309ef1
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/958e03874b3d06b92b27e28cdf7a8290



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いまから20年以上前に、北区・田端の木造アパートに住んでいたことがある。アパートの新築計画のため立ち退きを要請され、文京区・駒込に引っ越した。20年くらいぶりに、田端・駒込界隈を訪ねてみた。よく夕食を食べに行った、田端駅前の中華料理屋(喜楽?)は無くなっていたし、駒込駅近くで借りていたアパートも見つけ出すことができなかった。時が経ったのだなあと、つくづく思った。田端には、仁王像に赤札を貼ってお参りをすることで知られる東覚寺があり、そこに、雀の供養塚があると聞いて、訪ねてみた(写真)。竹のかたちをした石像に、「雀供養之塚」という文字が刻まれ、文化十四年八月に長坂氏によって建立されたことが記されている。インターネットで検索してみると、蜀山人(太田南畝:1749-1823)によって建てられたとあり、さらに、その塚は、江戸幕府の政策を風刺したものであるという書き込みにあたる。蜀山人は、落語家・立川談志によれば、一休、曾呂利新座衛門と並んで、頓知の三大名人であるとされる(「蜀山人」「曾呂利新座衛門」は、落語の演目にもなっている)。どういった経緯で、この碑が建てられたのかいまのところ不明であるが、とりあえず、覚書のため、書き留めておきたい。



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