goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています
たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



変身。

それは、内面性(精神性)を保持しながら、身体性を変えること。ブードゥー教徒は、人格を持ちながら、人間からイグアナに、鵞鳥などの動物に変身する。本郷猛は、仮面ライダー(バッタ)に変身して、超人的な身体を獲得し、人を超えた
力を得る。いまから思いだせば、カリスには、変身譚がたくさんあった。しかし、人間から動物へというのではなく、超自然的な霊が動物や人間に変身するという話である。以下、思いついたところの羅列。

ある日、カリス人の家に寝泊りしていたブギス人の男が、小用のため、裸足で家の外に出たときにサソリに刺された。わたしは、叫び声を聞いて、その家を訪ねてみた。幸い大事に至らなかったが、彼は、出された紅茶をそのままにして、屋外に出たため、サソリに攻撃されたのだということだった。老人は、一言「アントゥ(精霊)」とつぶやいた。どういうことかと尋ねると、食べ物や飲み物に対して適切な処置をしなければ、カタベアアン(という状態)になり、そうなると、サソリやヘビに噛まれたり、病気や死に見舞われるのだという。ブギス人の男は、出された紅茶を飲まないまま、適切な処置もせずにその場を離れたために、カタベアアンになり、精霊がサソリに変身して、彼を襲ったということであった。霊がサソリに変身したのである。

あるとき、2歳に満たない幼児があっけなく死んだ。母親は、葬儀の後、幼児の命を奪った何らかの存在に対して、呪詛を唱えた。「おまえが霊であれば、獣に姿を変えてわれわれの前に現れ出よ!」と。数日後、わたしは一つの噂話を耳にした。幼児を殺したのはトラ(の霊)で、すでに、幼児の父親によって、仇を討たれたのだと。わたしは、すぐさま、死亡した幼児の父親に詳しい話を聞きに行った。そのときの話は、だいたい以下のようなものだった。幼児の葬儀の夜に、遺族が集まって食事をしていると、外でゴトゴトと音がし、父親は、屋外に出て、暗闇のなか、その物音の主を銛で突き殺したという。それは、どうやら、葬儀で出された食べ物の残りをあさりに来たヤマネコだったらしい。ヤマネコの死体は、その後、川の中に投げ捨てられたという。その夜に、夢のなかで、父親はトラ(の霊)の訪問を受けた。トラ(の霊)は、何の罪もない幼児を殺したことを謝罪し、その報いを受けて、自らもお前に殺害されることになったのだと語ったという。ヤマネコは、幼児を死に至らしめたトラ(の霊)が変身した姿だったのである。

カリス人は、森のなかを歩いているとき、誰かに出会ったら必ず挨拶をしろという。相手が挨拶に応じて言葉を発しなければ、そいつは人間に変身した精霊だという。その場合には、後ろを振り返ることなく、一目散に走って逃げなければならない。追ってきたら、川へ飛び込め。逆に、誰かに森のなかで会ったら、自分が人間であることを知らせるために、進んで言葉を発するようにせよと、カリスは言う。

精霊はよく人間に変身する。その日、わたしは、朝起きると、眩暈がしてずっと臥せっていた。たまたま女性シャーマンが通りかかったので、様子を診てもらった。彼女は、わたしの眩暈は、その日の朝、水浴びに川に下りていったときに、老人に声を掛けられたせいだと言った。いや、わたしは、眩暈が起きたので、今日はどこにも行ってないと述べると、その女性のシャーマンは、わたしの魂が川に水浴びに行って、そこで、つい最近亡くなった老人に声を掛けられたのだというようなことを言った。「霊に声を掛けられる(da-tingkau antu)」と、眩暈や体調不良などの原因となることは、人びとによく知られている。死者との遭遇は、この場合、わたし自身がまったくあずかり知らぬところで起きた。わたしの魂が、死者に声をかけられたのだ。ここで語られているのは、人間と精霊の境界が、言葉を通じて、交わってしまう危険状態である。そのことが、人間側に病気をもたらす。死者とは誰か。それは、人間に変身した悪霊(死霊)であるとされる。

こうした話は、かつて自著のなかにも、断片的に書いたが、時間が経てば、別の解釈の可能性が浮かんでくる。
あ”~、いつまで経っても、修行が足らないのか。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/d52685fc620379dcd102b36076302b39



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




イヌ科、ネコ科、クマ科などの食肉獣は、他の動物を襲ってその肉を食べる。食肉類の捕食行動は、探索、接近あるいは追跡と、その後の捕獲に分けられる。捕獲のさいには、獲物を手で捕まえ、動けなくし、殺すことが含まれる。ネコ科、イタチ科の何種かでは、喉への渾身の一咬みによって獲物を殺害する。捕食者はそれを食べ、あるいは持ち帰る。後に消費するために密かに隠すこともある。食肉類の狩猟には、身体と身体の直接接触を伴う駆け引きという面が際立っている。

他方で、ヒトの狩猟は、道具を介して行われることが多い。マレーシア・ボルネオ島の狩猟民・プナン(Penan)が、狩猟対象の動物をしとめるのは、もっぱら、道具を介してである。プナンの猟は、吹き矢猟、猟犬を用いた猟(ふつう、槍で止めを刺す)、ライフル銃による猟、わな猟に分類することができる。動物との直接的な接触による狩猟はない。プナンは、吹き矢を用いて毒矢を飛ばし、樹上のサル類をしとめる。矢毒には、植物毒とカエルなどの毒が用いられる。空に舞っているトリが、樹木の枝に降りてきたところを、吹き矢でしとめることもできる。矢毒は、すぐには効かない。毒矢を受けたトリは、空を飛んでいく。プナンは、そのトリが絶命する地点まで追いかけてゆく。1960年代に導入されたライフル銃による狩猟が重宝されるのは、この点においてである。銃弾が中れば、トリは即死して追跡する手間が省けるからだ。

プナンが獲物に接近するときには、通常、視覚と聴覚に頼る。それに対して、プナンによれば、動物は音に敏感で、身の危険を察知し、匂いで人がいるのを知るという。種によって反応に違いがあることを、ハンターたちはよく知っている。イノシシは、匂いと音に敏感であるが、目があまりよく見えないという。ジャングルのなかのイノシシ狩りに行くとき、ハンターは、音を立てないように靴を脱ぐ場合が多い。また、ハンターは、風上に立たないように努める。風に乗って匂いを嗅がれて、逃げられてしまうのを恐れるからである。イノシシは、嗅覚と聴覚に優れていることを経験によって知っている。

このように、プナンは、狩猟の場面において、触覚(および味覚)以外の感覚を駆使して、動物をしとめる。逆に言えば、プナンにとって、人と動物の間には、身体と身体のぶつかり合いを介した、触覚による駆け引きが欠けている。人と動物の間の身体と身体との駆け引きの欠如は、人と動物の間の身体的な非連続性を示している。そのことは、狩猟の場面だけでなく、生活の他の諸側面においても観察される。

プナンは、唯一の飼育動物である猟犬には名を付けるが、彼らはそれを愛玩動物としては捉えていない。イヌは、なでたり、触れたりするような対象ではない。また、今日、プナンは、近隣の焼畑稲作民からニワトリを手に入れて、飼い育てることがある。ニワトリは、子どもが、興味関心から飼育することが多い。卵を産ませるためか、育てて食べるためかと尋ねると、そうではないという(鶏肉も鶏卵も食べない)。彼らは、ニワトリをただ飼うために飼っているのである。プナンは、ほとんど、ニワトリに直接触れようとはしない。彼らは、一般に、飼う(kolon)ことよりも、野生性(ジャングルにいること)(ton vak)に、高い価値を置いている。

他方、プナンは、人だけでなく、動物の大部分が、人間と同じように、魂/意識(berewen)を有していると考えている。プナンは、人が捕えようとしたときに逃げるものには、魂/意識があるという。プナンの神話では、かつて、人と、動物を含む人間以外の存在が、同様に、魂/意識を有する存在であったのだが、その後、人以外の動物たちが、そうした人間性を脱落させて、今日のようになったさまが語られる。

このように、プナンでは、人と、動物を含む人間以外の存在との間の距離は、理念上はきわめて近い。いいかえれば、人と動物には、内面的な連続性がある。人と動物は、考え、思い、行動するという意味で、同等の存在である。(それがゆえに)人と動物は、日常の場面では相互に遠ざけなければならないとされる。

動物をあざ笑ったり、さいなんだりした場合には、その動物の魂/意識は、天上の雷神のところへと駆け上がるという。雷神は、人のふるまいに怒って、雷鳴をとどろかせ、落雷によって人を石にしたり、大水を引き起こしたりして、人びとに災いをもたらすとされる。そのため、プナンは、動物を手荒に扱ってはならないし、動物の醜さをあざ笑ったり、真似たりしてもならないという。そのようにして、人と動物の間の身体と身体との接触が、極力回避されることになる。プナンが、狩猟などの実践の場面で、人の身体と動物の身体との間に、どのように、非連続的な関係を築いているのかを記述してみたい。そのことによって、プナンにおける人と動物の駆け引きの実相を描き出したい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




その大学にはいまから11年前の1999年に1年間だけ文化人類学の非常勤で教えに行っていたことがあって、昨日それ以来初めてそのキャンパスを訪ねたのだが、大学らしい風格のあるたたずまいは依然とほとんど変わっておらず(写真)、当時は今日のような世知辛い教育改革なるものが行われておらず、ゆったりとした快適な空間での学生たちとのいくぶん愉しかったりほほえましかったりした思い出がふと脳裏をかすめたのであるが、同時にその翌年にはその大学では文化人類学の講義そのものがなくなってしまった(なぜだ!)ということも思い出したのだが、いくぶん前置きが長くなってしまった。さて、昨日はそこで行われた動物の異界性をめぐる興味深い研究会に参加したので、以下で手短な覚書。異界性や異界感、動物の異界性については深く論じられることなく、それは文学の想像力などをとおして表現するほかないものであるというような話だったように思うし、異界性の極にあるのが動物であるという討論会での最初から用意された感のある結論については少々腑に落ちないところがあったが、個々の発表はそれぞれに考えさせられる内容だった。わたしが個人的に驚きをもって聞いたのは、樹木(植物)と交感できる女性の発表であるが、彼女は、人間・植物関係を人間・動物関係に照らして解釈し、そうした植物との交感を行う自分史を心理学的な観点から分析されたが、口頭発表は分析的すぎて学問そのものがそうした事実を理解するさいの妨げになっているような気がしたし、彼女のそうした植物との交感経験の内容については、まずはエスノグラフィックにつまびらかにすることから始めなければならないのではないかと感じた、少なくとも人類学者ならそういう接近をするのではないかと思いながら聞いていた。もう一点その発表に関して感想として加えるならば、そうした人間と人間以外の存在との交感とは、人間と植物が同じように言葉を喋るというふうなものではなく、つまり理性的なやりとりではなく、言語以前の感性によって行われるものであるということに気づいた。どういうことかというと、動物や植物に「意識」があるとか「魂」があるというような言い方は、「後づけ」的なものではないのだろうかということである、交感できるということをとおしてダイレクトに同じ平面で経験を共有できるというような実感が、表現として「意識」や「魂」という言葉で置き換えられているだけなのかもしれないと思った次第である、プナンもじつはそうかもしれず、人類学的な記述によって、わたしが実体化のプロセスをとおして動物の「意識」「魂」の存在を再強化しているのだとすれば、深く反省しなけらばならないとも感じた。わが研究仲間うちのプリンスは、日本の二つの辺境において語られる動物の異界性について議論し、異界性の源泉として<場所>と<人>があるという面白い指摘を行ったが、比較の対象や概念に関して、参加者の間では概念用語の認識が共有できてないせいで、議論がなかなかかみ合わなかったのは残念であると感じた。日本の花鳥風月の風土論、仮面ライダーブレイドの解釈の試み、江戸時代のネズミの住処をめぐる発表も、日ごろわたしたちがやっている人類学の研究会とはちがって、それぞれになかなか刺激的だった。わたしのもくろみは、わたしたちの人獣をめぐる人類学のプロジェクトが、人と動物をめぐる現代社会の動向と研究のなかのいったいどのあたりに位置づけられるのかを確かめたいというものであったが、何も見えなくてもスゴ腕の座頭市のようには行かないが、昨日の研究会では、人と動物の関係をめぐる研究の広がりと試みの一端に接することができたように思う。ついでながら最後に短い噺を一席。わたしはふだんあまり電車に乗らないが、必要に迫られて最近複数回乗った折の出来事。A駅からB駅に行こうとするのだけれども、B駅には快速が止まらず、鈍行しか止まらない。よく確認もせず快速に乗ってしまって、B駅を通り越しC駅に行ってしまい、C駅から折り返してようやくB駅にたどり着くというパターンを、先週と先々週の2回、間違って繰り返してしまったのだが、昨日は、鈍行しか止まらない目的駅に行くのに間違って快速に乗ってしまい、ある駅にたどり着いた。そこでよく確認もせず、折り返しでふたたび間違えて快速に乗ってしまって、目的の駅をすっ飛ばして最初の駅に戻ってしまった。こうなると、とこしえに目的地にたどり着けないというのではないかと思えてくるし、何よりも自分で自分が嫌になってしまった。トマス・ピンチョンの『V』に出てくるホームレスのヨーヨー人間のことをふと思い出した。ヨーヨー人間は、ニューヨークの地下鉄をヨーヨーのように往復しながら、電車の中で暮らしている。わたしの場合には電車に乗るのは目的地にたどり着くためなのだけれども、注意散漫というか落ち着きに欠けるというか、いつまでたってもそうしたおっちょこちょいは全然治らない、ああ、悲しき南回帰線、いや悲しき京王線、横浜線。
http://www.hars.gr.jp/fowordHARsactivity.htm#85th




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




The Penan are always afraid of meteorological catastrophe.  They believe the uncontrollable power of nature to be the Thunder God's anger.  They always challenge the meteorological change.  The only thing they can do is to try ritually to reduce the power for their own sake.  In this regard, it is interesting to note that natural disasters are thought to be ultimately caused by the failure of their own action, in particular by their mistreatment of animals: Not they themselves but someone who has mistreated animals.  This is outlined in the following. 
 
Penan kids tend to play with certain parts of the hunted animals after the game is brought back home.  They, for instance, gather to point to and laugh at the nose of the wild boar, because it looks like a hammer’s head.  They may also play with small animals in their hands.  In such cases, older people order the kids to stop playing with the animals, as they think that playing with or treating animals badly will anger the Thunder God.  It is believed that the animal’s soul (berewen) goes to the Thunder God and then reports such mistreatment.   

In this way, the Penan always pay attention to the treatment of animals.  They call mistreatment “penyalah.”  The kids described above are regarded as committing “penyalah.”

Mistreatment is extended not only to men, but also to animals: the Penan think that animals also mistreat men.  For instance, it is regarded as mistreatment if snakes bite or wild boar attack men.  It is not problematic at all for men to kill such animals because of their mistreatment.  In contrast, men also mistreat animals.  Human mistreatment includes playing with or treating animals impolitely.  In this sense, one can understand that the relation between men and animals is regarded as symmetrical. 

One day I whispered, “O, it’s a fowl (o,dek),” after looking at an animal in a rattan bag brought back from hunting.  A Penan man, hearing my words, looked very embarrassed.  He said, “No, it’s not a fowl, but a wild fowl that we caught in a trap (amai iteu datah jin viu).

From this experience, I came to know that there is a taboo against referring to wild fowl as fowl.  According to the Penan, I was treating the wild fowl badly.  On the contrary, it is not regarded as problematic to refer to fowl as wild fowl, because fowl, recently introduced into Penan society from neaby shifting cultivators, are not classified as animals (kaan).  Domesticated animals there cannot be given any classification.  It is believed that human mistreatment of animals is reported by the animals’souls themselves to the Thunder God, who creates heavy rain, flooding and so forth.

The other day, a wild fowl brought back alive to our hunting hut from a trap forced people in the camp to remain silent for some while until the leader of the camp killed it.  The leader explained to me that mistreatment is more dangerous when committed with living animals than dead ones.

Additionally, the Penan usually say that people should butcher, cook and eat the meat as soon as possible after hunting the animals for food.  This means that they are very much afraid of mistreatment of the game animals in the cooking process.

Based on these brief outlines of the Penan version of the "thunder complex,” it can be said that the uncontrollable power of nature such as thunder, lightning, heavy rain and flooding is mostly attributed to the failure of human action.  Human mistreatment of animals at least ideologically plays an important role in constructing meteorological catastrophe. 

One day in the dry season we went fishing in the river, and caught more fish than we actually wanted.  Suddenly, we heard thunder and lightning.  A Penan man said that we had caught too many fish.  He thought that over-consumption of fish was the cause of the thunder.  We stopped fishing and then returned home immediately.  
 


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日の朝日新聞の読書欄に、本田さんが、本の紹介をつうじて、「物言わぬ他者」としての動物という興味深い視点を提示していた。自己を知る鏡としての他者。この場合、他者は動物であり、自己は動物である。
以下、全文。

朝日新聞 2010年11月28日号 15面
本田由紀「動物を通して知る人間」

みなさん動物は好きですか?

好きな人は多いでしょう。CMにも待ち受け画面にもカレンダーにも、可愛い動物の赤ちゃんや、珍しくて面白い動物がてんこ盛ですもんね。どうして人間はこんなに動物が気になるんでしょう。もしかしたらそれは、動物が人間にとって「物言わぬ他者」だからじゃないかと思います。動物には動物の言葉があるのかもしれませんが、とりあえず人間には理解不能ですから、「物言わぬ」ことにほぼ等しい。だからこそ、人間と動物の間には、特に言葉によって邪魔されない直接的な共感が生まれる瞬間もあります。

幸田文さんの『幸田文 どうぶつ帖』(平凡社)には、飼われている動物と人間の感情的な交流や、動物園にいる動物への鋭い観察がちりばめられていて、人間と動物との良い関係についてのお手本になります。

でも、動物が「物言わぬ」ことに乗じて、人間は自らのエゴによって彼らを踏みにじることもあります。気まぐれで飼い始める、世話をしきれなくなったり飽きたりして捨てる、捨てられた動物が生き延びようとしてその土地の生態系を壊してゆく、あるいは捕えられてシステマティックに「殺処分」される、といった現象をぐいぐい記述しているのが、小林照幸『ボクたちに殺されるいのち』(河出書房新社)です。

動物は人間にとって「他者」ですから、きれいごとの陰で、優位に立ちやすい人間によって冷酷な行為がなされることもある。それを直視した上で、人間と動物との真摯な共存をどのように図ってゆけるかを、小林さんは問いかけています。

また人間は「他者」であるはずの動物に対して、自分自身の醜い姿を投影することもあります。オーウェルの名著『動物農場』(岩波文庫など)で、人間を追い出して農場を占拠した動物の間に何が起こったか。豚たちが詭弁を弄して「下層動物」を支配し、その労働の産物を独り占めして敵であったはずの人間とも手を結び始める。すごくブラックで面白い寓話ですが、そんな役割を豚に与えてしまっていることは、豚に対して失礼な話でもあります。動物には種を保存する本能はあっても、このような邪悪さはないでしょう。

人間が「物言わぬ他者」たる動物を、どう扱いどう描くかということに、人間という種や、その中の個々人の本性が映し出されているのだと思います。私たちは、「他者」ーそれは動物に限りませんーを通して、自分自身を知るのです。 

(数日前にわたしが書いたブログの内容に少し似ている)
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/5665022680cab0290333eaf9136cefae

この記事を読んで、改めて、動物は、人間にとっての他者だという単純な事実に気づく。この点に照らして、神話や寓話のなかで語られる「物言う他者」たる動物をどのように考えればいいのか。他者であることは変わらないが、わたしたちと同様に話し、考え、行動する存在としての動物について、今少し考えてみたい。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




わたしたちは、人間らしい生き方とはいったい何か、人間であることの意味とは何かを、毎日、自分自身に問いかけながら生きている。学校教育で、わたしたちは、そうした態度を徹底的に植えつけられるからである。そのため、わたしたちは、人間は動物である、という単純な事実を、日ごろ、忘れてしまっている。

現代日本社会に暮らすわたしたちにとって、動物とは、いったい何か。動物園に行けば、動物たちに出会うことができる。動物園にいるライオンやゾウ、キリンなどが、わたしたちの動物イメージの典型の一つである。あるいは、テディ・ベアやミッキーマウスなどの玩具やキャラクター商品が、わたしたちにとっての「どうぶつ」なのかもしれない。牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉は、ほとんどのわたしたちにとっては、おかずの材料としての食料品であって、それらが、動物を解体した結果であるとは、なかなかイメージされないだろう。ペットは、飼われているときは、つうじょう、家族として、人間の一部である。日本全国で、年間30万頭以上のイヌ・ネコが、不用動物として殺処分されているなど思いもよらない。

現代日本人の実感としては、人間として生きる努力をしている反面、自らが動物であることをうっかりと忘れてしまっており、生身の動物から遠くへだたった場所で暮らしているということなのかもしれない。逆に言えば、わたしたち現代人の日常には、生身の動物ではなく、加工され、薄められ、操作されて別のものになったイメージとしての動物が、深く溶け込んでいるということができるのかもしれない。

その一方で、これもまた実感をなかなか伴わないことが多いのだけれども、20世紀の終わりごろに、欧米から動物の権利をめぐるアニマルライツの思想が、日本社会に輸入されてきた。その流れに沿って、畜産工場の屠畜作業が公開された。最近の出来事としては、口蹄疫の感染により、大量の牛豚が殺処分されたニュースが流され、生物多様性条約で、絶滅が危惧される動物の保護が話題にのぼるようになった。そうした動物をめぐる諸問題が、わたしたちの日常の暮らしのなかに、遠くのほうからなだれ込んできた感がある。わたしたちは、そうした、ややぼんやりとした、動物襲来とでもいうべき時代を生きているのではないか。

(とれたてのイノシシを触るプナンの子ども)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




まず、ホモ・サピエンス・サピエンスで人類学者の【PNG国立さん】の発表。現代日本の都市部では、野良犬や野良猫が見あたらない。そのわりには、カラスやイタチなどが出没する。他方で、犬には綺麗な衣装を着せ、靴を履かせて、雨が降れば雨合羽を着せる。そこでは、いったん動物を排除した後に、目に見える限りで、人間以外の動物が存在しない空間としており、動物たちは飼いならされたかたちで配置されているのではないかと述べた。それに対して、ニューギニアのある村では、統制されない動物との遭遇や侵入がありうる、つまり、人びとの生活空間は、動物たちの生活空間と重なり合っているのだという。そのありさまを、<定言命題化>しないで提示することの重要性を指摘した。そのとおりかもしれない、と感じた。つづいて、霊長類で医療人類学者でもある【ウラジミール豊中さん】。生物多様性をめぐる自らの調査研究を紹介した後に、過熱気味のエコライフの称揚が、一種の滑稽さへと突き抜けているさまを描き出しているように、わたしは感じた。ナボコフが描き出すように、まじめに取り組めば取り組むほど、ユーモラスなのだが、それが、なんらかの実害をもたらすことが問題かもしれないと思った。人類学には、地球環境をめぐる有意な調査研究は、かなり難しいだろう。次に、植物代表の【チャールズ木枝さん】。樹木の枝が、光を受けて展葉し、枝が少ない場所では成長が促進され、枝が密集している場所では成長よりも繁殖が促進されるという、自ら(木の枝!)の自律性について述べた上で、それが、樹木の全体の統合とどう関わっているのかについて論じた。わたしは、植物にも、植物のウンベルト(環世界)があるのだと思った。最後に、両生類の【サラマンダー井伏さん】は、サンショウウオの幼虫の共食い行動を取り上げた。カニバリズム(共食い)が、個体にとって同組織である個体を食べて、効率よく栄養を摂取する方法である一方で、そのことによって、感染症を引き受けてしまう可能性に触れた上で、共食いによる感染の広がりで、生き物の個体数が激減した事例を明らかにした。イギリスの学術誌では、サンショウウオへの脊椎を取り除く実験を記述する際、丁寧に取り除いたというような表現にしなければ査読を通らないという。アニマルライツの匂いのプンプンするイギリスの学的状況についての話もあった。生き物の場合、同等の体格よりも劣った体格を食べるほうがリスクが少ない。人は、道具を用いて自分よりも強い相手を捕食する(できる)にもかかわらず、なぜ共食いをタブー化してきたのか。改めてカニバリズムに興味が湧いた。それぞれにたいへん刺激的な研究発表だった。その後、みなで言いたいことを言い合った。参加者の人間、植物、動物、(精霊)の皆様、長丁場の研究会ごくろうさまでした。なんじゃ、これがまとめ??いや研究会とは、直接的には関係ないかもしれない、たんなるわたしの雑感にすぎないかも。混融する現実と非現実、まじめな不真面目。どうかお許しを。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




・社会は、精神をもつ人間によってのみ構成されるものであると、ふつう、わたしたちは考える。よりよき社会の実現というのは、人間社会が、いまよりもよくなることを指す。社会とは、人間のものである。であるからこそ、アリの社会、ネズミの社会という言いまわしを聞いたとき、アリにも社会があるんだ、ネズミにも社会があるんだと驚くことになる。しかし、そのように、人間だけが社会を構成するという考え方は、じつは、けっこう新しい問題設定なのかもしれない。人類史の観点に立つならば、ヨーロッパでは17世紀くらいまで、人間だけが一つのユニットではなくて、人は植物も動物も含めて、一つの緩やかなユニットのようなものをつくっていると感じてきたのではないだろうか。しかし、そうした考えは、わたしたちの思考からは、きわめて遠くに感じられるのかもしれない。

・先住民は、動物が魂をもつと考えているという言い方をするけれども、それは、日本語でいうところの、非物質的な抽象概念としての魂のことなのであろうか。場合によっては、それは、意思や意識というものに等しいものなのかもしれない。日々動物と向き合う狩猟民は、殺戮の場面で、動物が痛みを感じていると感じてきたということは、十分考えられる。動物たちは、見た目では、人のように歩いたり逃げたりする。それは、わたしたち人間の魂のようなものをもっていると感じられるし、意思や意識のようなものを持っているのだと感じられる。たとえば、プナン語のブルウン。それは、魂とも精神とも訳されてきたのだが、プナンの実感に沿って、語の意味内容をまずは整理しなければならない。

・天候の激変とはいったい何か。それは、わたしたちの日常では、ふつう、気流や気圧の変化として説明される。しかし、プナンでは、それはちがう。雷雨や大水などの天候激変は、プナンでは、人のあやまったふるまいが引き起こしたものだとして説明される。人間の行為が気象現象の引き金としてもっぱら使われるというのは、人間中心主義的な自然観の現れだといえるのではないだろうか。しかしである。人間中心主義とはいったい何なのであろうか。わたし(わたしたち)は、当初、それを研究の仮想敵として設定した。人間と動物の関わりについて述べれば、わたし(わたしたち)は、西洋=人間中心主義よりも、非西洋の諸社会における人間と動物の関わりのほうがいくぶんましであるという言い方をしたときに、そういうロマン化は問題であるという指摘を受けたことがある。まず考えなければならないのは、人間中心主義の打破ではなくて、人間中心主義とは何かということのほうなのかもしれない。

・非西洋社会における人間と動物の関係をめぐっては、人間と動物との内面性(魂、精神)の連続性が強調される傾向にある。それは、動物の権利を主張するアニマルライツ派の主張などとも重なる。しかし、動物変身譚などを含むメタモルフォーシスについては、身体の連続性を示していると見ることができるのかもしれない。わたしたち人間は、内面性においてだけでなくて、身体性においても、人間でもあり、動物でもあるのだ。これは、わたしたち人間の出自が動物であるという事実とも重なる。つまり、人間は動物なのであり、その意味で、身体性において、動物と人間の連続性を、わたしたちはついうっかりと忘れてしまっている。そういうふうに考えて仮説的に言うならば、プナンにおける動物に対するタブーの存在(動物をあざ笑ってはいけない、さいなんではならない)は、身体性のレベルにおける連続性(動物も人間も身体的に同等の存在であること)を、身体性における非連続性(断絶)へと組み替えるものであると読み解くことができるのかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




これは、女が蛇に犯される民話を聞いて、そんな話が宇治拾遺物語にもあるねえと言っていた、何でも知っているI先生に教えてもらった。

ニコラウス・ゲイハルター監督作品 『いのちの食べかた』

http://www.youtube.com/watch?v=EmZk-Lwl2Uk


母が、涎を垂らしている牛を見て、牛乳を飲めなくなったため、その影響で、わたしは個人的に乳製品が苦手であるが、そんなことは措くとして、牛乳がどのように搾られて、わたしたちの食卓に届けられるのか、わたしには想像できない。搾乳人が乳を搾っているのかどうか、いまはどんなふうにやっているのか、考えてみたこともなかった。この映画を見ると、乳牛にチューブをつけて、機械的に搾乳しているということが分かった。解説書を読むと、「この牛舎ではロータリーパーラーを利用して効率的に搾乳している。これだと、牛が乗る床が回転するので、搾乳者が一箇所にいて作業することができる」とある。知らなかった。

知らないがゆえの大きな驚きは、牛の屠畜場面である。連れてこられた牛は、首から先だけをこちらに向けて突き出す。強い力で押さえつけられた状態で、屠畜人が現れる。頭部に衝撃を与えて、牛を失神させ(写真)、まだ心拍がある状態で吊り下げられる。その段階では、血液はまだ固まっていない。一気に腹が裂かれて、大量の血抜きが行われる。胃液などの内容物も、同時に鼻や口から排出されるシーンが、この映画のなかにも出てくる。

口蹄疫の感染騒動で話題になった種牛。この映画では、牛の種付けがどのように行われるのかの一端を見ることができる。種付けは、雄牛と雌牛の交配によってなされるのではない。優秀な種牛から精子を横取りして、雌牛に人工的に授精させられるのである。発情した雌牛に後背の位置から圧し掛かろうとするする雄牛の陰茎に人工膣をあてがって、精子が採取される様子が紹介される。

元気な豚たちは、どんどんとベルコンベヤのなかに送り込まれ、出てきたときには、体毛が焼き削がれて、片足を吊るしあげられた姿になっている。腹部の脂肪分はバキュームで吸い取られ、食べられない部位である足が切り落とされる。サケもまた、漁船からホースで加工工場に送り込まれ、仰向けにベルトコンベヤで運ばれて、機械で腹を裂かれるさまが映し出される。孵化したヒナ(ヒヨコ)が、ベルトコンベアで運ばれるさまは、ある意味で、壮観である。ピヨピヨとは鳴いているが、黄色い物体が流されていると言ってもいいかもしれない。

この映画を見て、わたしたちの日々の糧("Our daily bread"というのが、映画の原題)であるわたしたちの食料が、どのように生みだされるのかということに関して、わたし(わたしたち)は、ほとんど何も知らないということが分かった。とりわけ、牛肉、豚肉、鶏肉、魚肉についていえば、それが低価で安全な食べ物であることに、工場畜産の果たす役割が大きい。わたしたちの食生活は、今日、工場畜産なしにはありえない。そうした現況を踏まえた上で、わたしたちは、工場畜産のベースにある、人間以外の存在を死せるマテーリア(モノ)として見る西洋の自然観を、はたして、一方的に非難することができるのであろうか。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『犬と猫と人間と』
http://www.inunekoningen.com/


猫好きの年配の女性・稲葉さんから、動物を大切に思ってもらえるような映画を、自分が生きている間に作ってほしいと依頼されて製作された、飯田監督による標題の映画を見た。

まず、飯田監督は、日本が、ペット大国であってもペット天国ではないということを見出す。全国で、年間35万匹、一日あたり千匹が殺処分されるからである。飯田は、動物愛護センターに取材を申し込むが、うまく行かない。そんななか、千葉県動物愛護センターがようやく取材に応じてくれる。犬猫を預けに来る人たちを見て、飯田は、人間であることが嫌になったとつぶやく。彼は、次に、神奈川県動物愛護協会という民間団体を訪れる。生活苦で泣きながら犬を預けに来た女性や、施設の入り口に子猫が捨てられる現実が映し出されるとともに、野良猫の避妊手術の様子が紹介される。獣医は、大量の猫が殺処分されるという現実を踏まえて、猫への去勢・避妊手術がいいことなのかどうか分からないが、命が粗末にされることがないように、たんたんと施術を行っている。次に、神戸市動物管理センターが紹介される。そこでは、民間ボランティアと行政が協力して、殺処分数を減らすための努力を行っている。神奈川県動物愛護協会では、新しい飼い主を探すために、犬に対する体罰式のしつけが行われる様子が紹介される。飯田は、次に、多摩川で、捨て猫の世話をし、写真に撮り続けている小西さん夫婦に接近する。「人間が地球上で最も残酷で、最も嘘つきで、見栄っ張り」だという、小西さんの言葉。その後、山梨の、かつての「犬捨て山」が取り上げられる。小林さんは、電気がない小屋で、住み込みで犬の世話を続けている。オーストリア生まれのボランティア、マルコ・ブルーノは、「犬捨て山」の現状は、現代日本の問題だという。次に、徳島県動物愛護管理センター。そこでは、近隣住民が処分施設の建設に反対し、行政は、移動する車でのなかでの殺処分という新たな方法を開発したのだった。「崖っぷち犬」は、崖で身動きできなくて、救出された犬であるが、その犬の引取りの希望が全国から殺到した。「崖っぷち犬」の人気の裏で、センターでは、毎日毎日犬猫が殺処分されてゆく。捨て犬を、友達で小遣いを出し合って育てる子どもたち。イギリスに飛んだ飯田監督は、ペットショップで犬猫が売られていない現実、野良猫がいない現実に驚く。イギリスでは、飼い犬猫は、一般には、ブリーダーか、保護施設からもらってくるという。さすが、アニマルライトのお膝元の国。アニマルエイドのスタッフは、人間が動物を所有、利用する現実を変えていかなければならないと訴える。

イギリスの動物愛護に関心を持った。
アニマルエイドとドッグトラストのHP。
http://www.animalaid.org.uk/
http://www.dogstrust.org.uk/

次に、飯田監督は、獣医師・前川さんを訪ねる。動物を愛する精神は、平和の時代の象徴だという。この映画は、生きている間に映画を作ってほしいと望んだ稲葉さんの願いには応えることができなかったが、最後に、飯田は、「人間も好きだけど、人間より動物のほうがまし」と語った稲葉さんの気持ちが今ではよく分かると締めくくっている。

現代日本における犬猫、とりわけペットとしての犬猫をめぐる現実が、たんに一方的な観点からではなく、映し出されていると感じた。

以下、最近、人間と動物をめぐる議論を続けている相手、Iさんからのメールの抜粋。

> こんなんあるわ。ペットやカラスの餌やりボケ老人とそれをめぐる弁護人などの活動です。
> http://petlaw.web.fc2.com/1113.htm

状況はもっともっと複雑なのかもしれないと思う。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




よりよき社会の実現を目指して。誰もが幸せである社会を。悪くない標語である。いや、希望に満ちている。

しかし、今後、わたしたちがどうしても対決し、メスを入れなければならないのは、そういうふうにして語られる「社会」の概念である。その「社会」の概念は、もっぱら、人間だけによって構成されているからである。

実感としては、こうした「社会」概念の根本批判は、20年くらい早すぎるのかもしれないが。

動物もまた人間と同じように、苦楽の感覚を持つという点から出発して、人間と動物をともに含む「最大多数の最大幸福」が目指されるべきだと主張するピーター・シンガー。動物は、人間と同じように、固有の価値を持ち、生命の主体となるという点から出発するトム・リーガン。彼らのアニマル・ライツの主張は、ひっくり返せば、種差別(スピーシズム)批判となる。こうした動物の権利に対する敏感さは、カント派の生物学のユクスキュルの環世界論にも通じる。

動物を含む人間以外の存在を死せるマテーリアとして捉える西洋の動物観を経て、その先に現われた、こうした見方は、アメリカ先住民に見られるという「観点主義(perspectivism)」に近い。それは、アメリカ先住民たちが、人間だけでなく、動物や精霊、無生物を含めて、「観点」をもつ存在が、すべからく主体となるという捉え方のことである。そこでは、人間だけに精神が与えられるのではなく、動物や精霊にも精神が与えられ、主体となりうる。そうであれば、そういった社会で、「社会」を形成しているのはいったいだれか?人間だけでなく、動物も精霊もともに、「社会」のメンバーなのである。

観点主義は、思わぬかたちで、わたしたちに、既存の「社会」の概念の歪みを教えてくれるのではないだろうか。既存の「社会」の概念のなかに含まれるのは、人間だけである。人間だけによって構成される「社会」の概念を拡大・拡張して、「サルの社会」であるとか「お化けの社会」という言い方をするが、それは、そうした諸社会が、人間の社会のようなものだと考えるからである。わたしたちの驚きは、サルにもお化けにも社会のようなものがあったということのほうなのである。

ヴィヴェイロス・デ・カストロの概念に、多文化主義(multi-culturalism)多自然主義(multi-naturalism)というのがある。前者は、オーストラリアやマレーシアが、他民族=多文化から構成されているというときのそれではない。多文化主義とは、「ひとつの自然、たくさんの文化」という考え方のことで、西洋近代以降の文化観を指す。生き物や森林、気象現象などの自然は、地球上のどこでも同じである。だからこそ、自然科学が、普遍科学として立ち上がる。ひとつの自然に対して、たくさんの文化があり、個々の文化のアプローチによって、自然は別の見方で眺められる。これこそが、わたしたち近代人の自然観であり、文化観である。他方で、多自然主義とは、「ひとつの文化、たくさんの自然」という考え方である。その考え方のもとでは、人間だけでなく、動物、精霊、無生物などが、ある文化の、つまりひとつの社会のメンバーでありえる。そして、たくさんの自然がある。アリにはアリの自然があり、ろくろ首にはろくろ首の経験する自然がある。

多文化主義的な「社会」概念は、いま、行き詰っている。人間による社会をつくりあげ、動物を愛玩化する。可愛いという思いだけで、計画性もなく犬猫に餌を与え、飼いはじめた飼い主は、不用となれば、動物愛護センターに持ち込んで、殺処分する。牛豚を屠畜するために大量飼育して、畜産農家は暮らしているが、口蹄疫などの疫病が流行した場合、感染拡大により不浄国になることを危惧して、牛豚は、行政命令で大量に殺処分される。「多文化主義的な」=西洋近代的なわたしたちの社会では、そうしたやり方から逃れる手立ては、いまのところない。シシュフォスの神話のごとく、わたしたちは、苦行を強いられる。しかし、人間と動物がともに主体であるような、「多自然主義的な」社会では、そうした対応に、別のドライブがかかるのではないだろうか。わたしたちは、動物を、わたしたち人間と同じ、ひとつの主体として向き合うことが前提となるからである。

精神を有する人間だけが社会を構成すると考えるのは、人間中心主義(anthropo-centrism)的な着想である。現代は、この人間中心主義的な思想が、わたしたち自身を蝕んでいる。先住民の観点主義は、人間中心主義的な見方の上に培われてきた「社会」概念を再検討することにより、人間中心主義的な見方を見つめ直す手がかりを与えてくれるのではないだろうか?「多自然主義的な」観点主義は、アマゾニア、北米、マレーシアなど、地球上のあちこちから報告されている。

一つの考え方として。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小林照幸『ドリームボックス:殺されゆくペットたち』毎日新聞社、2006年(2010-37)

このフィクションを読むと、やりきれない気持ちとともに、現代日本社会に生きていることを無性に悲しく感じる。ペットに注がれる愛情は、希薄化した人と人とのかかわりの代替であると言われることもある。それは、ある意味では、人の情緒の安定を保つ上で、必ずしも悪いことではないと言えるのかもしれないが、ヒト中心主義的な考えであることはけっして否めない。ペットに対する態度が、ペットの臓器移植やペット葬にいたるまでの「溺愛」から、死のうが生きようが関知しないという態度へと大きく歪んでしまうというのは、あまりにも極端なことであるし、その表(溺愛)と裏(不用品扱い)が、動物を愛玩化するという行為という同じ根から生じているという事実は、そうとう重いと感じる。

動物愛護センターが相次いで開設される高度成長期には、年間百万匹の犬猫が殺処分されていた。現在の倍以上の数だという。野良犬・野良猫の繁殖率が高く、家庭で飼われる犬猫の不妊・去勢手術が一般化していなかった時代のことである。殺処分を課された動物愛護センターでは、一頭ずつバットで殴り殺され、焼却炉に放り込まれていた。その後、金属バットによる撲殺に切り替えられたが、木製バットのほうが即死させやすかったともいう。その後、犬猫の苦痛を少しでも和らげて、眠るがごとく殺処分するために、「ドリームボックス」と名づけられた装置が登場した。犬猫は、獣医のボタン操作によって、前進させられ、やがて、鉄製の箱、通称ドリームボックスのなかに閉じ込められる。そこに、炭酸ガスが注入され、犬猫たちは殺処分される。

殺処分という、近年よく耳にする言葉。それは、国語辞典には収載されないらしい。それは、犬猫や動物をやむなく殺し、処分せざるを得ない行政職でのみ使われる専門用語なのか。動物愛護センターで殺処分された犬猫は、その後、焼却炉で焼却される。週に900リットル使われるのだとすれば、年間、どれだけ多くの灯油が使われるのだろうか。資源の無駄使い?

動物愛護センターに連れて来られた犬は、抑留犬日報に掲載され、ホームページで公開される。抑留犬日報に記載された日から一週間後に、犬たちは殺処分される。ホームページを見たという女の子からの電話。「返還にお金はかかりますか?」「・・・返還手数料が三千円、餌代は六日分の六百円、予防注射手数料の二千四百五十円で、合計六千五百円です」”えっ、なんで、そんなに高いのよ?県の施設でしょ””親子の会話が受話器越しにまた聞こえてくる。しばらく間を置いてから、「明日行きます」と女児が返事した。・・・思わず、「お母さんに代わって!」と言おうとした途端、電話が切れた。・・・「あの電話、”ああだ、こうだ”と指示を出しているのって、おそらく親だろうね、かつての愛犬を捨てたはいいが、センターに収容されたのが後ろめたくて、子供に電話させたんだよ」・・・

ホームページを見てやってきた若い夫婦は、雑種を返還してもらうために抑留室に向かう。赤いマニュキュアをした女はいう。「どうせなら、あれをもらおうよ。あたし、ダルメシアンを一度、飼ってみたかったんだ。大きさもあんまり変わんないしさあ」。男「そうだな、あれがいいな。」「あのさ、あれもらえる?」職員「あのダルメシアンですか?」男「そう、あれ。そっちの雑種はいいから」・・・「雑種のワンちゃんは、このまま返還に至らなければ、あさっての早朝には処分されますよ。いいのですか?」・・・・「数字の上では、どっちが殺されても同じじゃない。あんたさあ、難しく考えてない?」「そういうものじゃないですよ。返還というのはですね・・・」五分後、夫婦は憮然として、バカヤロー!ザケンナ!と口々に言って事務室を通り抜け、エンジンを大きくふかし、センターを後にしていった。

この本には、こうした抑留犬をめぐる元飼い主と職員のやり取りだけでなく、モリを腹に打ち込まれた、虐待にあった猫と、助けられたモリ猫をめぐる市民の関心の高まり、殺処分される予定の犬猫を救うため、不妊・去勢手術を施して市民に譲渡するために行われる会の様子など、ペットをめぐる人間の態度、活動が描き出される。ペットは、人間の社会の映し鏡である。わたしたちは、どのように、ペットを可愛がってペットと共存しながら、その状況を肥大化させた社会をつくり上げたのだろうか。こうした行き過ぎを、補正する手立てはないのだろうか。なんともやりきれない。人と動物の関わりについて、その根源に立ち返って、考えてみなければならない。

「動物愛護」の一端は、YouTubeでも紹介されている。
http://www.youtube.com/watch?v=FuAluci0Dhs

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人間と動物の関係をめぐる問題の広がりを描いてみたい。そのなかに、わたしたちのプロジェクトを位置づけるために。以下、2010年10月30日の研究会(桜美林・四ツ谷キャンパス)での奥野克巳による口頭発表(「人獣原論」)の概略(以下、文献表示省略)。

【1】動物の権利(アニマルライツ)を認める思想について。
その代表的な論者には、功利主義の立場のピーター・シンガー、権利論の立場のトム・リーガンがいる。シンガーは、利害の前提として、動物もまた、苦楽の感覚を持つ点から出発する。彼のいう平等の原理とは、同等の配慮の要求である。人間と動物をともに含む「最大多数の最大幸福」が目指されるべきだというのが、シンガーの主張である。リーガンは、動物も人間と同様に固有の価値をもっている点から出発する。生命の主体こそが、固有の価値の有無の基準であり、それは人間以外の動物の一部にも認めることができる。

【2】そうしたアニマルライツの思想の延長線上に、映画『ザ・コーヴ』がある。
この『ザ・コーヴ』という作品は、イルカ・クジラの保護を唱える点で一面的であり、単純すぎる。人間と自然の多様な関係性を、こんなにあっさりと切り捨ててしまうことはできない。全編をつうじて、太地町の人たちが描かれていないという印象がある。人間と自然をめぐるローカルな実践に届こうとさえしていない。動物の殺害とは、それなくしては、本来的には、人間が生きていくことができないものである。血の海の映像は、はたして、そうした覚悟の上でなされているのかどうかを、きちんと見極めるものとして扱われるべきである。

【3】いったい、動物の権利をめぐる議論は現在、どのあたりにまで広がっているのだろうか。
クッツェーの『動物のいのち』は、そのことを考えるためのよいテキストである。クッツェーの作品を批評する4人の専門家のうち、印象深い二つの意見を見てみよう。宗教史家、ウェンディ・ドニガーは、アングローサクソン的な議論を世界中にあてはめることはできないとして、インドにおける動物の扱いを取り上げ、最後に、アングローサクソンの動物愛好家の行き過ぎについて書いている。これは、人類学の行き方に近い。霊長類学者バーバラ・スマッツは、ヒヒやイヌとの交感をつうじて、動物も人間と同じように、社会的主体であり、個性をもった動物を、一個の主体として見ないのなら、人間のほうが「個性的存在性」を喪失することになるのだと述べている。

【4】舞台を日本に向けて、坂東眞砂子の「子猫殺し」について見てみよう。
タヒチ在住の直木賞作家・坂東眞砂子は、『日経新聞』「プロムナード」に、2006年8月18付で、「子猫殺し」と題するコラムを書いている。そのなかで、彼女は、飼い猫が生んだ子猫を崖から突き落として殺していると述べた。坂東によれば、メス猫の生にとって重要なことは、セックスをして子を産むことであり、飼い主の都合で避妊手術を施すことは、増えてゆく子猫に手を焼き、殺害しないためのふるまいである。彼女は、猫の生の充実を選んだ上で、痛みと悲しみを引き受けながら殺したのだと述べた。この記事に対しては、その後、動物愛護家から多数の批判が寄せられた。「子猫殺し」バッシングを経て、中村生雄は、言葉を喋って反論する人間の代わりとして、人はペットを溺愛するが、それと同時に、ペットへの愛情は洪水のように溢れかえり、人間のどうし愛情を不毛にし、砂漠化するのだという。人と動物の関係は、たんにその関係のあり方だけではなくて、人と人の関係を映し出している。

【5】動物愛護とは何なのだろうか?小林照幸『ドリームボックス:殺されてゆくペットたち』は、いたたまれない気持ちになるが、それを考えるための手がかりである。
・・・・今朝の殺処分状況を記す日報を開いたとき、机の電話が鳴った。(今日もまた 引き取り依頼の 電話かな)胸中で一句、詠んで史朗は電話に出た。老婦人の声。やはり、引き取りの依頼だった。同居していた息子夫婦が転勤で東京に引っ越した。引っ越し先のマンションでは犬が飼えないという。「息子夫婦から飼ってくれ、と頼まれたのだが、大きく杖をついて歩いている私たちでは、散歩にも連れだせないし、困って役所に相談したら、動物愛護センターがタダで引き取ってくれると教えられまして・・・」「犬も家族の一員です。新しい飼い主を探されましたでしょうか?」「いいえ。とにかく吠えるもので、なんとかして下さい。近所にも迷惑なんで」「役所からお聞きになっていると思いますが、センターで今日これから引き取れば、犬は明日の朝には呼吸をガスで止めて殺してしまいます。それでもよろしいですか?」「えっ、殺す?確か、そちらは、犬を引き取って面倒を見てくれる所じゃないのですか?愛護センターというじゃないですか」老婦人が攻撃的な口調になる・「私どもでは、負傷した動物を保護し、治療をしたりする活動もしていますが、犬や猫の引き取り、野良犬などの捕獲、殺処分と多岐の活動をしています」・・・・

【6】動物や生き物が見て、感じる世界とはどのようなものか。
手がかりは、ユクスキュルの「環世界」論である。日高敏隆によれば、「それぞれの動物、それぞれの主体となる動物は、まわりの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるものの組み合わせによって、自分たちの世界を構築しているのだ・・・・たとえば、美しい花が咲いていようと、それは彼らにとっては意味がない。食物としても敵としても意味のないそのようなものは、彼らの世界に存在しないのである。彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれているようなものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。それが大事なのだと、ユクスキュルはいう。ユクスキュルはこの世界のことを『環世界』、ウムヴェルト(Umwelt)と呼んだ。ウムは周りの、ヴェルトは世界である。つまり、彼らの周りの世界、ただ取り囲んでいるというのではなくて、彼ら主体が意味を与えて作り上げた世界なのであるということを、ユクスキュルは主張した」。

【7】ペット(愛玩動物)には人間と同等のあるいはそれ以上の価値が与えられる一方で、同じ動物でも、食用動物には、どんなに大量に殺害されようとも、憐れみがかけられることはないという点について考えてみたい。
内澤旬子の『世界屠畜紀行』には、ルポライターによる観察に基づいて、比較的小規模で手作業で行われる屠畜作業から工場畜産に至るまで、商業屠畜の詳細が示されている。わたしたちは、食用動物のと解体を、もっぱら、自分ではない他人にゆだねている。血や個体の死に接することなく、わたしたちは、肉を食べ、生き続けている。生き物としての動物は、現代社会では、遠い存在である。

【8】人は、原初において、動物をどのように狩猟し、その後、どのように動物の飼育に乗り出したのだろうか?
500万年ほど前、樹上から地上に降りたとき、周囲にはヒトの祖先を捕食する肉食獣がいた。人は、食べられる存在であった。彼らは、死肉をあさって、生き延びていたとされる。二足歩行によって、長距離を移動し肉にありつくようになったヒト科の祖先は、肉食をつうじて脳容量を増大させたのである。谷泰によれば、狩猟採集期を経て、その後、「牧畜の開始とともに、家畜化された動物種は、そのナチュラルな条件から引き離され、人の管理下で成長・繁殖し、人にとって優位な生活資源を、より安定的に供給する、人為的制限下におかれた存在となっている。しかもそれらが搾乳対象となり、人による接触や搾乳を許している姿を見るとき、牧畜とは、人の側からの一方的介入管理によって達成されているのでなく、野生段階では許容しなかったはずの介入を動物の側が許容する、いわば動物の側での対応的変化を伴う・・・・このような条件下で、ひとは、対象動物の個体維持に必要な摂食活動、また群の再生維持にかかわる生殖・出産・育児といった、本来的な諸活動のある特定の項に、一連の慣習的、かつプログラム化され技術的関与を行うことで、狩猟段階よりも効率よく、安定した資源獲得に成功している。家畜化とは、まさに介入と介入許容という相互的すり合わせを通じて、一連の人為的技術行為の連鎖のなかに、当該の動物種を、自発性を維持しつつ、組み入れることであり、牧畜とは、そのような一連の技術的介入を通じて、当動物から生活資源を恒常的に取得する生業技術体系だといえる」と述べている。

【9】アイヌのイヨマンテ(熊送り儀礼)を取り上げて、人がどのように動物に向き合ってきたのかについて考えてみたい。
イヨマンテでは、熊をいつくしんで飼い育てて殺すという点で、一見、残酷であるように思える。しかし、実は、それは、わたしたち人間誰しもが、生きていく上でやらなければ生きていけない事柄を拡大(誇張)して見せてくれている。イヨマンテの背後には、アイヌの人たちは、熊が神の化身であり、自然=神が人に対して純粋に贈与をしてくれているというコスモロジーを用意している。イヨマンテを残酷だ、野蛮だというのは、ただ、うわべだけを見ているからであり、事柄の本質を見ようとするならば、生きた動物を殺害するためだけに育てて、それを血のしぶきを上げさせて切り刻んだ後に売買し、生命ある存在物に対して何も感じないという点で、わたしたちのほうこそ、野蛮なのではあるまいかという見方が成り立つのかもしれない。

【10】動物とヒトのあいだで確立されてきたヒト中心主義とは何か?
いままで世界を制覇して、いまもグローバル化の中でいちばん力をもっている一神教的人間中心主義(「創世記パラダイム」)を川田順造は攻撃する。「自己中心主義」「自民族中心主義」「地球中心主義=天動説」というような狭隘なセントリズムは、これまで、ヒトの聡明さによって否定されてきた。次に乗り越えなければならないのは、西洋近代を支えてきたヒト中心主義であることを、川田は強調する。そのために、ヒトの快適さのためにではなく、ヒトとヒト以外の生物の間にあるべき掟を探る努力をすること、つまり、「種間倫理(interspecific ethics)」を探求することこそが、わたしたちの最重要課題となるという。他方で、中沢新一は、人間の思考を、「対称性の論理」である神話的な思考から、「非対称性の論理」であるアリストテレス型の論理や一神教的(=キリスト教的)な形而上学が未分化であった時代にまでさかのぼって、ホモサピエンスの「心」の基体にまで純化させた上で、語りはじめる。中沢は、それを、わたしたちが真正面から取り組むべき課題として指し示すのではなく、レヴィ=ストロースの流れを汲みながら、それ(=「創世記パラダイム」)が、抑圧してしまったのだけれども、不動の作動を続けている基体(=「対称性の論理」)との関わりのなかで明らかにしようとする。

【11】先住民社会における動物観(自然観)は、西欧のヒト中心主義よりましであるとして、非西洋をロマン化することに対しては慎重であったほうがいいかもしれないという意見がある。
マット・リドレーによれば、「インディアンは自然を崇拝し、慎み深く、自然と一体となって暮らしていたというのが通説である。自然と神秘的な調和を保ち、獲物のストックを減らさぬよう、むやみやたら動物を殺すようなことは決してなかった、と信じられてきた。だが発掘現場からの証拠は、このような心温まる神話に疑問を投げかけている。オオカミは年老いた動物、あるいは非常に若い動物を主に狙うが、インディアンが殺すのは一番元気のいいヘラジカばかりである。雄牛よりも雌牛のほうがはるかに殺される確率が高く、現在のヘラジカの寿命よりも長生きできたヘラジカはごくわずかであった。北アメリカ先住民が大きな獲物を保護していたという証拠はまったくないと、生態学者のチャールズ・ケイは結論している。実際、現在の植生と昔の植生の比較に基づいて彼が論じているところによれば、コロンブスが上陸する以前、インディアンはロッキー山脈地帯の広い領域においてヘラジカを絶滅寸前に追い込んでいたというのだ」。「人間は環境保護思想を本能的には備えていない、つまり、行動を抑制したり、抑制を教える傾向を生まれつき持っているわけではないというのが信頼のおける結論である。したがって、環境保護思想は、本来、人間の本性とは相いれないものであり、本性に逆らって教えこまなければならないものなのである。生まれつきそのような道徳観念が備わっているわけではない。そんなことはとうに分かっていたことではないか、それでもなお、われわれは正しいスローガンや呪文をとなえる生態学的な意味における高潔な野人がいるはずだという希望にすがりついているのである。高潔な野人はわれわれの内部には存在しない」。オーバーキル仮説と伝統的民族知識(Traditional Ecological Knowledge)のどちらが正しいのかという問いは不毛であるように思われるが、こういった意見にも耳を傾けてみる必要がある。

【12】川田順造のいう、アニミズムなどに裏打ちされるような、間世界のものを人間による比ゆ的な投影で擬人化し、それに働きかけたり、それにお供えをしたりして願い事をするような「汎生的世界像」として、日本社会のあちこちに見られる「獣魂碑」「鳥獣供養塔」などの現象について、その広がりと意義を押さえてゆかなければらない。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/55a35983e5e790fa493d6a3f8fb3d757

【13】はたして、人類学は、人と動物の関係について、どういった問題提起をすることができるのだろうか?
ハウェルによれば、マレー半島のチュウォン人(Chewong)社会には、意識の存在と不在によって構成されるある存在のクラスがある。外見が、テナガザルであれ、人であれ、ノブタ、カエル、ランブータン、果実、竹の皮、雷や特定の巨石であれ、意識はひとつの「人格」をつくりあげる。ヴィヴェイロス・デ・カストロは、こうした先住民社会の動物観は、大きな意味での「観点主義」に含まれるとみなすことができるという。「観点」を有することによって、全ての存在(人間、動物、精霊など)が主体となりうるという考え方は、わたしたちが人だけを入れている「社会」という集合からはみ出てしまう。「社会」概念は、基本的には、人によって構成されるということしか想定されていないからである。「コレクティヴ」という概念は、それに代えて、人間、動物、精霊を一つの集合のなかに含むために案出された概念である。わたしたちは、人間だけが社会をつくっていると考えてきた。人間だけが社会的存在であり、社会は、自然から切り離された、精神活動を行う人間のものであると考えられてきた。ラトゥールは、こうした西洋思考に挑戦する。人間を含めて動物、植物、地形や気象などの無生物が、同等の存在であるという視点を導入することによって、既存の「社会」概念を組み替えることで、人類学から、新たな人間観を発信しようとしている。

【14】動物と人間の関係をめぐって、日本の人類学者はどのような貢献をしてきたのであろうか。

【15】最後に、これだけでは、人間と動物の問題の現在について、まだまだ網羅的ではあるまい。
トーテミズム、動物憑依、異類婚姻譚などの動物と人間との関わりをめぐる民話、神話や伝承の類、ヨーロッパ中世の動物裁判に比することができる現代日本における「アマミノクロウサギ」や「ジュゴン」を原告とした裁判など、ペットロス、ペット葬、withペット墓などのペットをめぐる諸問題、生物多様性条約のなかの動物保護と動物資源の活用などなど、いくらでも検討項目を増やすことができるだろう。増やせばいいというものでもないのかもしれないが、人間と動物の問題を考える射程を知るために、とりあえずの試みとして。I先生は、わたしの口頭発表を聞いて、全体をつうじて、他者としての動物が、わたしたちの日常のなかに深く入り込んできたということではないかという感想を述べられた。そういった事態が、目の前にあるのだ。今日、動物が、わたしたちの大きな関心事になりつつある。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




動物園に行きたいと思った。いま考えてみると、ある授業で、動物霊について、別の授業で、生き物のセックスについて、ちょうど教えている最中だからかもしれない。獣魂碑からアニミズムを、精巣の大きさと性交形態の関係について、昨日話をしたところだった。ヒトと動物の関係について、(もちろんヒトも動物なのだが)とりわけ、現実に直面しながら、いや、少なくとも、現実の一面に触れながら、もっと知らなければならないことがあると、ずっと思っていたが、なかなか実行する機会がながった。問題が山積し忙殺された春学期からに比べて、今学期はほんの少しだけ楽になり(大学院の授業が閉講になったなど・・・)、心的な余裕が少し出てきたのかもしれない。頭で考えているだけでは限界があるということもある。いずれにせよ、昨日、午前中の2コマ連続の授業が終わってから、多摩動物公園に行った。秋晴れ、気温は高め。おそらく5年ぶりだと思う。オランウータンの展示のあたりがずいぶんと変わっていた。5年より前には、多摩動物園にずいぶん通ったものだ、年間パスポート(回数券)も持っていた。O大学からは、車で30分強。けっこう近い。アフリカゾウの前に座って考えあぐねていたときに、突如として、論文の組み立てが、頭のなかで流れ出したことがある(2002年の「邪術師を暴き出すーインドネシア辺境における差異と同一化ー」という論文)。動物の臭いのおかげかもしれないと、その頃は、勝手に思っていた。その後、論文の執筆に行き詰ったとき、平日の午後から、お客が少ないだろうと思われる時間帯を狙って、出かけた。いま、特段、論文に行き詰っているわけではない。今後、二本予定があるが、まだ一行も書き始めてすらいない。でも、すんなりとは書けないだろうなあという、なんとなく感じている。どうしよう。ま、今回は、あまり目的もなく、ふらっと行ってみたのであるが、たまたま、昨日は、都民の日で、入園料が無料だった。園内を歩きながら、狩猟民プナンなら、動物園をどう見るのか、思いをめぐらせてみた。プナンのなかに一人、政府の招待でクアラルンプールの動物園に行った男性がいる。動物園の話を、彼はたまにする。そこには、一角獣やトラなどの動物がいると。プナンには、食の対象としての動物にタブーはない。彼らなら、イノシシを見て、うまそうだと思うだろうか?オランウータンを見て、食べないのはもったいないと考えるだろうか?そう考えるのは、動物園の動物たちにとって、少し不謹慎なことかもしれない。しかし、動物が、そのもともとの生態環境を離れて、都市空間の一角に連れて来られているというのは、まぎれもない事実である。研究者の観察や市民の楽しみのために。見世物として。人間と動物の関係の観点から、動物園を眺めてみなければならないのかもしれない。しかし、この点は、ここでは、とりあえず置いておこう。手元に『動物園というメディア』青弓社という本がある。次回行くまでに目を通したい。上で言ったように、都民の日のため、多摩動物公園は、ベビーカーに子どもを乗せた若いお母さんたち、親子連れ、遠足の園児たちで、動物園は、そこそこ賑わっていた。思った。ヒトも動物だとすれば、動物園には、動物とヒトがいる。いや、ヒトと動物がいて、動物園ははじめて完成するのだと。そう思いながら、わたしは、若いお母さんたちを観察してみた。いきなり、先生、って、女性に声を掛けられた。ベビーカーを押していた。わたしの授業を取ったことがある卒業生だと名乗った(ごめんなさい、覚えてなかったですが)。横に旦那さんらしき方がいて彼女に「だれ?」と尋ねていた。軽い会釈をして離れた。今年に入って、3人目である。卒業生に、学校以外で遭遇するのは、クアラルンプール空港、相模原についで、タマズー。タマズーで、O大学の女子学生にも会った。話を聞いたら、5限(4:10~5:40)に授業があるのにサボろうとしていた。間に合うように送っていった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今年の4月以降、宮崎県で口蹄疫感染が広がり、それ以上の感染拡大を止めるために、大量の牛と豚が殺処分された。わたしは、そして、わたしたちは、そのニュース報道をただ聞くのみであった。政府や宮崎県の対策について聞き、畜農家の経済的だけでなく精神的な苦しみを、ただただ無力に、聞くしかなかったように記憶している。

清浄性を保つためのそうした惨たらしい対策は、先進国に固有のものである。わたしたちがそうであるよりも強く動物の魂について念じている狩猟民プナンがこのことをどう感じるのか知りたくて、
8月に訪ねた折に、わたしは彼らに、口蹄疫感染拡大によって、日本で牛や豚が殺処分されることについて、どう思うのかについて尋ねてみた。彼らは、流行り病で犬が次々に死んでいくこと、近隣の焼畑民の鶏も同様に流行り病で死んでいくことなら知っていると言った。しかし、他の動物が流行り病に罹らないために、感染動物から一定の範囲にいる動物を殺処分するということが、いったいどういったことなのか、プナンは理解しなかった。わたしの印象では、それは、別世界の出来事でありすぎて、彼らの理解の閾値を超えていたのだと思う。口蹄疫の問題を、戦争をまだやっているところがあるのかという話題や、日本の首相は誰なのかという彼らにとって直接的な出来事ではない、遠い世界の出来事として受け取ったのである。逆に言えば、牛や豚の大量殺処分は、辺境の民には、想像の範囲を超えて、イメージすらできない事柄だったのではあるまいか。

昨日(2010.9.24.)の朝日新聞のオピニオンは、「牛を殺す」というテーマで編まれていた。28万8643頭というのが、宮崎県で殺された牛と豚の数だそうだ。3人の意見が紹介されている。

まずは、政府の現地対策本部長の意見。口蹄疫が発生したら、1頭1頭チェックする時間的余裕はないという。非清浄国になれば肉を海外にし輸出できないし、今度は、非清浄国からの輸入を拒めなくなるという。そうした肉の国際貿易の事情が背景にあり、日本は、清浄国であることを保たなければならない。そのために、できるだけ早く家畜の殺処分を進める必要があるという。他方で、ワクチンを使った家畜の肉を食べることはできる。煮沸すれば、生ハム以外は食べられるという。そうした肉加工の仕組みをつくることも大事だと説く。要は、病気の感染を防ぐための家畜の殺
処分は、日本国内の消費者の肉供給の生命線である。

次に、JA部長の兼業農家の意見。農家は経済的な被害だけでなく、心に大きな傷も負ったという。いずれは殺される運命だというかもしれないが、経済動物は、喜んで食べてもらうことで、幸せな「生」を全うするのだという。農家の立ち直りが、心配されている。

最後に、『世界屠畜紀行』という著作のあるルポライターの意見。肉食の罪悪感とともにあったキリスト教的な家畜観が、19世紀の進化論の影響などで揺らぎ、動物愛護思想が現われ、農場や食肉加工場での動物の扱いを変えることを唱えている。他方、日本では、命は平等とする仏教思想に根ざした動物観をベースにして、日本人は、今回の処置に大きなショックを受けたはずである。不条理な牛や豚の死は、大規模な畜産、食肉流通と消費の結果であることに、今一度目を向けるべきである。


3者の意見は、真っ当であると思う。今回の処置が、人間的な真実をめぐってーその人間的真実の切り取り方は様々であるがー、問題を含んでいるという認識。

日本の仕組みのなかで、わたしたちが安心して食べられる肉にありつける方策を講じるべきであろう。畜農家からすれば、ただ家畜を殺すのではなく、消費者に喜んで食べてもらうことが何より大切なことであり、その点で、畜農家の立ち直りが急務である。さらには、日本国中に今回さらけ出された不条理な家畜の殺処分を成り立たせている、わたしたちの暮らしの根本を見つめなおす必要がある。しかし、それぞれの意見をうまく統合する手立ては、はたして、あるのだろうか。ヒトによる自然の操作・加工という意味でのヒト中心主義。ヒト中心主義の土台の上での解決の模索。他方で、ヒト中心主義の仕組みの根本からの問い直し。問題解決は、カーブを曲がって、いくつものトンネルを超えた先?いや、そもそも終着点などない?

ところで、日本人の精神性を考えるとき、大量に殺処分された動物への慰霊という課題が浮かんでくる。どうやら、合同慰霊祭の計画が進められているらしい。

◆時事ドットコムより
28日に慰霊祭と再建決起集会=口蹄疫終息で宮崎県 宮崎県は13日までに、口蹄(こうてい)疫問題で家畜を殺処分した畜産農家約1300戸を対象に、合同慰霊祭と再建に向けた決起集会を28日に宮崎市で開催することを決めた。前日の27日に終息宣言を出すのを機に、集会では畜産業の再建方針を説明するほか、国の専門機関による再発防止研修も実施する予定だ。(2010/08/13-19:36)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201008/2010081300693

(プナンの大猟)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ 次ページ »