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はじめまして (茶々)
2010-07-31 10:25:16
すごいですね。
最初に鉄の加工に成功した
人はどれほどの試行錯誤をしたのでしょうかと
 
 
 
Unknown (Unknown)
2010-08-02 15:56:33
小学校の下校途中に鍛冶屋があり
生き物のようにうごめく赤い塊と
打ち付ける音とフイゴの音と、熱気を
飽きもせず、いつまでも眺めてのを思い出しました
どこかアンバランスを感じるような強靭な筋肉の上半身の老人が作っていたのは農具でした
「カンジャーヤー」(鍛冶屋)と呼ばれていました
かれこれ40年くらい前の沖縄ヤンバル地方の村の風景です
 
 
 
Unknown (rei)
2010-08-03 18:41:51
生活の道具を自分で作る。真剣になれそうだ。
 
 
 
Unknown (たんなるエスノグラファー)
2010-08-04 09:10:52
コメント有難うございます。

食べるために生き物を殺すから刀が必要になり、鍛冶が要るようになるというように、物事は順に成立したはずで、さらには、そうしたことが目に見えるかたちで身の回りに配置されていたのですが、存在物としての刀が、まずは先行してあって、むやみにそれを振り回したり、言われるがままに、生き物を料理するのに用いるというのが、わたしたちに起こっているように思います。

あるヘンテコな儀式の意味を知るために文化人類学があるのに、まずは、科目としての文化人類学が転がっていて、なんだかエゲツナイこというようだけど、単位はくれるようだ、ってことと同じように。

知識を広げ、自分を磨いた上で、ある程度やれるということがわかったら職に就くのに、大学3年生になったら、みんなまとめてシュウカツというベルトコンベヤーの上にのせられて、インターンだの、説明会だのに行くように言われて、気づいたら職を得たり、もがいてたり、というようなことと同じように。

わたしたちの周りでは、おしなべて、そういうかたちで、組み立てられている。

物事は逆転しているのだけども、どの道、同じことだと考えるようにしたらラクだ、とわたしたちは考えているのかもしれません。プナンを見ていると、わたしには、道筋をあいまいにせずに、道理を生きるということそのこと自体が大事なのではないかと思えてくることがあります。
 
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