「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

マンネリからの脱却@七里ガ浜自宅厨房(2) 基本に戻る / なぁ~んちゃって王道炒飯

2009-07-15 04:16:32 | 食べ物・飲み物
【前回の復習】

すでにご紹介したとおり、炒飯の変形パターンや発展的具材は無数にあるが、王道とも言うべき基本3パターンを以下のように定める。
①卵のみの炒飯(いわゆる「卵炒飯」)
②卵と長葱の炒飯(いわゆる「ねぎ炒飯」)
③卵と長葱と叉焼の炒飯

私は③を作る。しかしスーパーで売られている大手食品メーカーの「叉焼」はどうも甘い。しかし「おいしい」「伝統的」叉焼入手の難易度がやや高く、具材としては高価であることから、デイリーな家庭料理として安価な食材にこだわる私としては、それを鶏モモ肉で代替させる。塩、胡椒に加え醤油で濃く味付け、中華鍋で焦がすことで、味の種類は異なるが、叉焼のようにしっかりした味と香しさが出せるからだ。



【材料】

完成品を先に見せよう。上記画像のとおりだ。
2人分の材料は卵2コ、長葱1本半、鶏モモ肉300g、米1.25号、サラダ油、塩、胡椒、醤油である。なんと簡単な。


【調理の準備】

<米>

まず時間がかかる米から先に炊き始めておく。水は少なめで、1号強相当くらいの量にした。米の炊きあがりにぱらぱら感を出すためだが、さあうまく炊けるか。



<鶏モモ肉>

これが鶏モモ肉(左画像)。西友七里ガ浜店で「本日の広告品」のシールが貼られ売られていたものだ。皆さん、100gあたり79円ですよ!諸物価高騰のおり、嬉しくなる値段である。以前ならブラジル産やタイ産など安い鶏肉がふんだんに売られていたが、最近は病気やら毒やら輸入食料品に問題が多発し、スーパーの棚から輸入鶏肉が姿を消してしまった。だから国産鶏モモ肉で100g79円は有難い。レジのチェッカーの方々も毎日「KY」(価格安い)のバッジをつけておられるだけあって、西友は偉い。何でも安い。高価な叉焼のことを思えば、大幅コストダウンに成功したも同然である。これを脂や筋の部分を取り除きながら、小さく刻む。中華料理店で食べる炒飯の叉焼の大きさを思い出し、それと同じような大きさ、形に切るのだ(右画像)。

結構面倒な作業であるが、これをあまりいい加減にしてはいけない。この鶏モモ肉が具の一部として炒飯内の味のハーモニーに貢献するためには、肉片が適度な大きさ、形となっていなければならない。大き過ぎても、小さ過ぎてもいけないのだ。丁寧に切ろう。



<卵>

これが今回使った卵。1人1コの勘定である。なかなかおいしそうな卵でしょう。これも西友七里ガ浜店で買ったものだ。調理の直前にボウルの中で溶いてしまう。



<長葱>

次が長葱。1本半をさくさく小口切りにした。dancyu2009年6月号の記事を読んでいると、「長葱をみじん切りするのは不適当」とあるのを発見!知らなかったぁ~。それでは長葱の存在感が炒飯の中で消えてしまうからだそうだ。あくまで細く小口切りのするのが望ましいらしい。また調理の前に水をある程度飛ばす必要があるらしい。記事には「小口切りして容器に入れラップをして2時間以上冷蔵庫で放置せよ」とある。しかしそこまで私は時間に余裕がなかったので、緊急策として「ラップをしないで」30分ほど冷蔵庫に放置した。なかなか機転が利くなぁ、私は。


【調理開始】

<具材を炒める>

中華鍋を熱して油を馴染ませる。まずは刻んだ鶏モモ肉を炒める。じっくりと表面を焦がしながら。醤油、塩、胡椒で味つける。芳ばしい香りが広がる。次に長葱を加える。これは極めて短時間で終了。ほとんど温めるだけに等しい。長々と炒めていては長葱の風味もなくなる。出来上がったら、中華鍋から出して一旦容器に移してしまう。



<卵とご飯の関係、「なぁ~んちゃって」の由来>

ここからが大事だ。タイトルで単に「王道炒飯」と正面切って呼ばず、またもや「なぁ~んちゃって」が付くのは、これから説明するやや後ろめたいプロセスによるものである。このあたり、どうも私は気が弱い。

炊きあがったご飯はお釜から何か別の容器に移し、しばらく冷ましておく。ご飯が多少冷めて来たらそこに溶いた卵2コをぶち込み、混ぜる。中華鍋に入れる前に、容器の中でご飯に生卵をコーティングさせてしまうのである。ご飯が熱過ぎると、このコーティングの段階で卵が少し焼けてしまうので、それは避けよう。それが炊きあがったご飯を冷ます理由である。

私は非力なオトコなので、2人分のご飯や具がたくさん入った直径32cmもの中華鍋を、片手でスナップ効かせてさらさらぁ~っと振って卵とご飯を触れ合わせるなんてことは出来ないのである。だから中華鍋に入れる前に、別の容器で卵をご飯に先に完璧にコーティングさせるのだ。やや反則気味の調理方法であるが、完成後の味にはなんら変わりがない・・・と私は思う。いったいあの中華料理の鉄人達は、どれだけの腕力があるのだろうか。



<調理の最終段階>

この生卵にしっかりとコーティングされたご飯を、熱した中華鍋に広げて入れる。しばらく待つ。焦ってはいけない。卵が焼けてジュウジュウ言い始めるまで放置し、ジュウジュウ言い始めたら先ほどの完成済みの具材をぶち込み、一緒に短時間でササッと炒め、塩や醤油で多少味を整えたら完成だ。


【自己評価】

卵はキレイにコーティングされている。長葱も小口切りで炒め過ぎておらず存在感がある。鶏モモ肉は適度な大きさ形に刻まれ、濃い醤油味で少し焦げ気味なくらいで充分叉焼の代役を果たしている。この王道炒飯の3要素である卵、長葱、鶏モモ肉という食材は、合計で1人あたり200円もかからない。安価でおいしい「なぁ~んちゃって」王道炒飯の完成だ。

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マンネリからの脱却@七里ガ浜自宅厨房(1) あれこれつくるがマンネリになる

2009-07-14 04:20:30 | 食べ物・飲み物
私は「一皿料理」を専門に作っている。あれこれ並行して同時に作り一挙に食卓に出すという器用なことが出来ないのだ。不器用を多少の努力とごまかしでで補いながら、例えば、陳建民先生の秘伝レシピで四川風焼きそばを作るといったようなことばかりを楽しんでいるわけである。

最近つくったのも「一皿料理」ばかりである。しかもレパートリーが少な過ぎるという大きな弱点を私は持つため、同じものばかり作り続けている。因みに「一皿料理」とは「取り敢えずそれだけ食べれば食事としてなんとか成立する」くらいの意味である。私が私の料理を総称するために使う表現で、一般的な用語ではない。



例えば、この「なぁ~んちゃってガッパオ+ご飯」。画像は先週の作品である。頭に「なぁ~んちゃって」と付けるのは、私がこれを本格的な具材とレシピではなく、安価な材料と簡略化したレシピで作っていることが原因である。控えめな私の性格が邪魔をして、私はこれをストレートに「ガッパオ!」とは呼べないのだ。

しかしこの「なぁ~んちゃってガッパオ」は、自分で言うのも何だが、とてもおいしい。エスニックな料理が好きで、辛いものが好きで、尚かつ食費を節約したい人には打ってつけである。調味料以外では、挽肉とピーマンとバジルがあれば出来るのだから。

この画像をM氏に送ってみた。M氏はすでにここで紹介したことがある人物だ。横浜に住み、ご自身の趣味は芝生の世話とゴルフで、奥様の趣味はバラの生育という英国貴族のような方なのだが、そのM氏がガッパオに関心を持たれたらしい。英語で「ボクにも作れるかなぁ?」とお尋ねになるので、私は「可能でげす。きっとうまく作ることが出来ることでございやしょう、sir」とお答えし、レシピをお教えした。M氏と話す時の私はあくまで下僕として、いつも話の最後に「sir」と付けなければならないから大変だ。



次の画像は一昨日のランチ、青椒肉絲だ。これもまたしょっちゅう作っている料理である。ピーマン、タケノコそして牛肉。牛肉は脂がない「赤身」的な安い肉で十分、というかそうでないと調理しにくい。タケノコも千切りのパッケージのものがあれば、それを買うと良い。安いし細くキレイに切ってあって調理が楽だ。簡単で安価でバランスがとれた料理だと思う。

画像のタケノコは水煮の普通のタケノコを自分で細く切ったものだ。自分でタケノコの千切りを試みたことのある人ならわかるだろうが、キレイに細く千切りに加工出来る部分は、タケノコの表面に近いわずかな部分だけである。中心に近い多くの部分は、千切りにまったく適さない。この表面に近い部分を細く千切りにしてしまえば、中心部に近い大半がただのバラバラなタケノコのみじん切り状態になってしまう。

だから画像のようにやたら太いタケノコの千切りを見ても、「ヘタクソ」と笑ってはいけない。それは素人料理人のご愛嬌と言えなくもないのだが、逆に「あぁ~、この人は材料全部を大切に使おうとしているなぁ」と感動せねばならないところだ。食べた人がそう気付くことで、料理人も「あぁ~、この人はわかってくれているなぁ」と感動し、作る人と食べる人の相互理解が深まる。単なる食事が信頼関係の強化に役立つのである。料理を自分で作ってみてわかる料理人の有難み。自分の子供を叱ってわかる自分の親の気持ちの有難み。酒を飲んでわかる酒飲みのそれなりにつらい気持ち。オッと、最後のは違った。



七里ガ浜で先週終わりに新しいパン店が誕生した!我が住宅街の住民にとっては感動的イベントだ。なにせ近所にパン専門店が少ない地域だからである。私もその新しいお店で買ってみた(上の画像)。さらにもう1店舗、至近距離にパン専門店が出来るとのウワサがある。七里ガ浜は一挙にパン店激戦時代に突入するのである。

かように、七里ガ浜のお食事事情も変化を遂げている。私も変わらねばならない。いつまでも「なぁ~んちゃってガッパオ」や「青椒肉絲」ばかり作っていられないのである。そろそろマンネリから脱却しないと、「おいしいぃわぁ~☆」なんて妻もいつまでも喜んでくれないだろう。しかも私には制約条件がある。それは「一皿料理」しか作れないということだ。



悩む時は基本に戻ろう。「一皿料理」の代表格、炒飯があるではないか。私は月刊誌dancyu2009年6月号を開いた。こんなに楽しい雑誌も珍しい。なにせ副題は「チャーハン名人になる!」である。中の記事にはシンプルな炒飯から多種の具材満載のゴージャスな炒飯まで、多くのレシピが満載だ。

「また炒飯かぃ?」と侮ることなかれ。恐ろしく基本的で恐ろしく難しい命題が私の前に立ちはだかる。

炒飯の基本とは何か?

あれこれ中華料理の名店の鉄人による炒飯を見て思うが、炒飯のベーシックスは以下の3つである:
●卵のみの炒飯
●卵と葱(長ねぎ)の炒飯
●卵と葱と叉焼の炒飯
調味料はいずれも塩が基本だ。

①卵、②葱、③叉焼とすると・・・

●①
または
●①+②
または
●①+②+③

という誠にシンプルな加算数列的構造が、炒飯の基本パターンを構成している。



玉ねぎをを入れるとか、エビやカニを入れるとか、ピーマンを入れるとか、ましてや彩りは最高だがミックスト・ベジタボーを入れるとか、レタスやら牛肉やら納豆やらキムチやらしらすやらあれこれ・・・は、発展的パターンの炒飯としては皆素晴らしく美味しくかつ立派だが、基本中の基本は上のシンプルな3パターンなのである。私は①+②+③のパターンで行きたいと考えた。またニンニクや豆板醤やカレー粉などの味付けも可能だしそれぞれに奥が深いが、調味料の基本は塩だろう。

しかし基本具材のうち、問題は③叉焼にある。スーパーで「叉焼」という名で売られているものは、妙に甘いだけであまりおいしくないことは、皆さんご存じだろう。神戸南京町「益生號」の香ばしい叉焼が手近にあれば・・・と、不可能なこと(通販という手はあるが)を望んでもしかたがない。

また美味しい叉焼は、たいていかなり高価である。しかし今私は、マンネリな日常の食事からの脱却を目指して炒飯を考えているのだから、やはり炒飯は自宅近辺で簡単に入手出来る安価な材料で、おいしく作られていなければならないと思う。高価なカニなら、そのまま食べてもそれだけで美味しいのは当たり前である。しかし我らのデイリーな炒飯は、安い具材と普通の調味料を組み合わせ、そのなんともお手軽なコラボレーションの妙を家庭で楽しむ物でないといけない。ジャコとおかかと醤油だけで「旨い旨い」とご飯を食べるようなものなのである。



そこで私は以下の3つの具材で炒飯をつくることにした。
●卵
●長葱
●鶏モモ肉(叉焼の代替物)

このブログをお読みの方の中には、鶏肉と聞くとちょっと前に私が作ったカレー炒飯(上の画像)を思いだされる方もいらっしゃるかもしれない。しかし前回のカレー炒飯とこれから作る炒飯はまったく違う。今回のシンプルな炒飯では、ミックスト・ベジタボーや玉葱を使ったりはしないし、カレー粉も使わない。鶏モモ肉は、高価で入手が難しい叉焼の安価な代替物として、小さく切って濃く味付けしてちょっと焦がして今回も使う。鶏モモ肉は非常に安く、焼けば香ばしいいので、それなりに美味しい炒飯づくりに貢献してくれるだろう。

味付けは基本的に塩とし、醤油と胡椒をわずかに使う予定だ。
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トイレ考@七里ガ浜自宅(3) ウォシュレットとJ.スタインベック

2009-07-13 00:05:43 | 内装・インテリア
温便座やウォシュレットさらにそれに付属する高い機能のこうした普及は、日本に特異な現象と言える。例えば欧州の古い名門ホテルには、普通はない設備である。逆にあると若干品位が落ちてしまうというが、彼らの感覚であろう。ウォシュレットもあればあったで便利だが、健康上の特別な理由がなければ、それがないからと言って特に不衛生で困ることもない。「そんなもの見たこともない」という人の方が世界には圧倒的に多く、それがないことが理由で寿命が短くなるということもないのだから。

最近オフィススビルや飲食店でもウォシュレット完備のトイレをよく見かける。しかし私は外ではウォシュレットを絶対使わない。あの「ノズル」という部分が汚いからである。外のトイレではあのノズルがかなり上の方まで相当汚れているが、そうであるなら、私も利用時にノズルを汚しているのだろう。そして私がウォシュレットを利用している間、水はまず私のお尻にかかりそこからノズルに落ち、その水の一部は無数の人々が汚したノズルの上をつたって、その汚れを溶かし込みながらまた水の噴出孔そばに戻り、噴出する新たな水に混じって再び私のお尻にかかる場合もあろう・・・などと考えていると、とても外でウォシュレットを使う気に私はなれないのである。「自分のお尻はもっと汚いのだから、それはおかしい」と言う人もいるが、私は嫌である。水自体がキレイだとしても、例えば洗面所であまりに不潔で汚れたままの蛇口から出た水を使い、手を洗おうとは思わないだろう。ウォシュレットの場合は、水自体が汚い可能性もある。


<フリー画像素材より。欧州のどこかのトイレ・・・らしい>

ところが現在20代あるいはそれ以下の年齢の人に、ウォシュレットがないとトイレが出来ないという人が出始めているらしい。彼らは別に痔や便秘などの体質の問題を抱えているわけではないし、それがないと不潔だから出来ないと考えているわけではない。彼らはウォシュレットでお尻を多少刺激してもらわないと「出せない」のである。彼らは生まれた時からすでに自宅に温便座やウォシュレットがあっても不思議はない世代だ。汚れたお尻を洗うという本来の目的だけでなく、汚れてもいないお尻を最初からウォシュレットで刺激して排便するという利用方法に、小さい時から馴れてしまった世代なのである。最近のウォシュレットには「マッサージ機能」なるものがついている時代だから、それも至極当然か。

世界の多くの人はウォシュレットがないままに健全な生活を送っている。逆にいうと日本人がウォシュレットがあるからと言って、保健衛生的に他国民比優れているとは考えにくい。一方ウォシュレットがあるために、日本人若年層は「きばる力」を低下させている。長い間にはウォシュレットの普及が日本人の能力のひとつを相対的に低下させるかもしれない。


<かつての私・・・ウソ。これもフリー画像素材>

トイレに座ってこの「日本の若年層のきばり能力低下の問題」を考えていると、私は学生時代に英語のテキストとして読むことを強要されたJ.スタインベックの「アメリカとアメリカ人」のある箇所を思い出してしまう。なぜそんな大昔の本の内容を覚えているかと言うと、それがカリフォルニアの日系移民のことを書いた内容だったからだ。日系移民がアメリカで二世、三世と世代を経るにつれ、その体質、肌の色、顔つき、身長、体型がどんどん変わって来る様をスタインベックが生き生きと描いている。昨日私はインターネット上でその文章を探した。本のタイトルすら忘れていたくらいなのでかなり時間がかかったが、そのものを見つけた(末尾参照)。

かように生活環境、習慣、食べ物が変わるだけで、わずか数世代で日本人のからだが大きく変わるのだ。ウォシュレットもわずか四半世紀ほど前に生まれたひとつの生活習慣である。日本の若い世代の一部に見られる、極度のウォシュレット依存症は今後ウォシュレットのさらなる普及と高機能化につれ、ますます顕著な現象となるのではないか。そしてこのまま数世代を経たとしよう。おそらくこの習慣は欧州では永遠に普及しまい。するとその時、ウォシュレット・マニアである日本人だけが、ウォシュレットと心中しそうなくらい「きばる力」を低下させてしまっているのではないだろうか。

学生時代の読みモノを思いだしたり、日本の将来の世代の体質を憂えたり。「座りションベン」をすると、やたら長い時間「思考トリップ」に入り込み、トイレを占領してしまうのである。


J.スタインベック「アメリカとアメリカ人」

以下の文章が、スタインベックの日系移民についての記述。
The American look is not limited to people of Caucasian ancestry. In northern California, where I grew up, there was a large Japanese population, many of whom I knew well. The father and mother would be short, square, wide in the hip, and bowlegged, their heads round, the skin quite dark, the eyes almond with that fullness of the upper lid which is called Oriental. How does it happen, then, that their children and grandchildren are as much as a foot to eighteen inches taller than their parents, that their hips are narrow, their legs long and straight, the skin lighter, and the eyes, while still recognizable as Oriental, much less alinond in shape and the fleshy tipper lid much less pronounced? Furthermore, their heads are mostly long instead of round. This happens through no intermixture of other blood. It is easy to say that a change of diet has accomplished this change, but that cannot be the only factor; and it is interesting that when one of these Nisei go to Japan they are spotted immediately as Americans. These boys and girls are pureblooded Japanese-and yet they are pure Americans.

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トイレ考@七里ガ浜自宅(2) オトコの「尿はね」問題とリモコン

2009-07-12 04:00:52 | 内装・インテリア
便器という商品は最近ではどんどんハイテク化と電子化が進み、改良が加えられて新商品が目白押しである。まるで「便器革命」とも呼べる状況だ。しかし住宅内の数ある機能の中で、生活の根幹に係わる部分を「故障したら終わりで、取り替えるか、あるいはかなりやっかいな修理をするしかない」ような高度な機械にまかせることを、私は嫌う。床下暖房などはその最たるもので、設置にかかる費用と壊れた時の修理のやっかいなことを思うと、恐ろしくて導入出来ない。微妙な機械ほどやがて壊れる。そんなものを床下に延々と這わせることに、私は不安を覚えるからだ。

便器も同じだ。何でも電化する傾向は勘弁願いたい。自宅で私がトイレに入ると、たちどころにセンサーが私の存在を感知し、便座の上のふたが勝手に開く。私が便座の上に座ると脱臭装置が作動する。さらに私が「座りションベン」を終えて立ちあがると、その動作すら絶妙なタイミングで感じ取り、ふたを閉め、水を流す。すべてを勝手にやってくれるのだ。楽と言えば楽だが、いったいそこまでやる必要があるのかねぇ。ふたくらい自分で開け閉め出来るし、水も自分で流せるのに。



しかしそれが嫌なら、センサー機能をOFFにしてしまえばいいだけのことではある。便座の上にあるふたを開ける閉める。便座を上げる下げる。全部自動化されているが、それらを全部自分の手でコントロールすることも出来るのだ。トイレ内の壁に取り付けられたこの装置のボタンやレバーをその都度自分で操れば良いだけのことだ。それも嫌なら手動に切り替えることも可能だ。

悪いことばかりではない。この方式のトイレにも優れたところがある。前回の投稿の最後に紹介した参考記事にある、1日男性ひとりあたり2300滴の「尿はね」に対してもそれは有効なのだ。我が家ではこの操作器は便器のはるか上方にあるため、「尿はね」攻撃から無縁でいられるからだ。

ピュン! ピュン! トイレ内の便器、その周辺の壁、床の至る所が、その「尿はね」攻撃の射程範囲内にある。しかし多くの家庭のトイレでは、便器の本体側面の低い位置に、温便座機能やウォシュレット機能の操作レバーとボタン類が並ぶ。つまり多くの家では1日男性ひとりあたり2300滴の一部が、温便座やウォシュレットの操作レバーやボタンにも直接的にピュン!攻撃をしているわけだ。あなたは家族あるいは知人のそれとは言え、自分以外の「尿はね」攻撃を受けたボタンを素手で押したいと思うだろうか。私ならご免こうむりたいと思う。



センサー式最新トイレなら、水を流すにも何も触れないで済ませられる。あるいは便器のはるか彼方の上方にあって「尿はね」攻撃を受けていないボタンを押せば済む。こうしたことも電化のメリットなのである。尤も、我が家には立ったままの小用による「尿はね」攻撃で家人を危険にさらす野蛮な男性はいないけれども。

用心深い人なら、この操作器をもっと上に移動させるかもしれない。なにせこれはリモコンなのだ。壁からはずして、隣の部屋で操作することすら可能なのである。ついでにトイレのドアも自動化しようか。

このように、頑固な座りションベン拒否派男性の「尿はね」にある程度対抗出来るような電化のメリットが存在する。しかしこのメリットは、あらゆる男性が「座りションベン」を甘んじて受け入れるなら、もはやメリットではなくなるくらいの些細なことでもある。



ウォシュレットも万全だ。ボタンもいっぱい。「おしり」「やわらか」「ビデ」「乾燥」そのあたりまではよくわかるが、「ムーブ」や「マッサージ」のボタンがある。さらに「水勢」や「洗浄位置」の調節や、「パワー脱臭」。あぁ~ら気持ちいい。

操作器のふたを開けると、もう大変だ。ボタンの嵐である。いちいち書いていられないが、様々な微調整機能がついている。おしりに心地よりトイレなのである。しかし本当にこれらは皆必要なのだろうか。



温便座が最初に登場したのは1980年頃だったと記憶する。ウォシュレットの登場はその少し後のはずである。温便座にその後大きな変化はないが、ウォシュレット機能はその後も変化を続けた。今20代の人々のほとんどすべてが、幼少時からこうした高機能トイレに馴れ親しんでいたことと思う。

しかしそのことをもって、日本人が以前に比べて清潔になり進化したと言えるのだろうか。ウォシュレットの利用が、人々の健康を増進したと言えるのだろうか。TOTO社は米国にウォシュレットを輸出しようと相当苦労しているが実績があまり上がらないし、欧州にはほとんど輸出が伸びないままである。彼の地の人々のほとんどは温便座すら不要と考える人達だ。ウォシュレットなど尚のこと不要だろう。ではそれらをもって欧米人が日本人より清潔でないと言えるのだろうか。因みにアジア地域へは温便座・ウォシュレットの輸出が少しは伸び始めているらしい。しかし類似品の生産も多く、やはり競争が大変だとも聞く。

話を混ぜっ返すようだが、私はやたら「清潔、抗菌」を振りかざす人間ではない。むしろ私はややその逆の傾向を持つ。日本人の「清潔好き」は有名であるが、その程度は「過度」であると確信している人間だ。日本人はやたら「抗菌」を有難がり、ギョウチュウやカイチュウもほぼ根絶された。しかしそのことと、新種の病が日本でやたら多いこととの関係も指摘されている。

話があらぬところに飛んでしまった。かように、優雅な「座りションベン」はいろいろなことを考える時間を与えてくれるのである。
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トイレ考@七里ガ浜自宅(1) オトコの「座りションベン」

2009-07-11 04:04:45 | 内装・インテリア
ウェブ上で我が家のトイレ内覧会を行う。トイレの床はいわゆるクッション・フロアである。我が家の中で唯一、床にクッション・フロアを貼ったスペースがここだ。ご覧の通り非常にシンプルな便器である。トイレ内は居室と同じく腰壁にパイン材をあしらってある。便座に腰かけているとなかなか心が落ち着く。

今このブログをご覧の男性にお聞きしたいが(もしあなたが男性でないなら、お宅に生息する男性、あるいはお宅に生息していなくともお知り合いの男性は)、家のトイレで小便をするにあたり、どうやってなさるのだろうか。因みに私はオトコだが、必ず「座りションベン」の姿勢をとる。画像に見られるような標準的洋式便器においてオトコが立ったまま小便をするというのは、用を足す際のテクニカルな面において無理があり、衛生面においてもまったく不適当な行為であると私は考える。



その点については私の父(すでに他界)も私と同じ考えの持ち主であった。彼は大正生まれながら非常に合理的な考え方をし、自分の考えが誤りだと気づくと軌道修正も早いオトコであった。しかし私と彼が合意出来ないポイントもあった。オトコとしてのプライドが、彼に『座りションベン』をすることを許さなかったのである。

標準的洋式便器で立ったまま小用を足すことは不適当であると考えたが、「座りションベン」もしたくなかった彼は、彼が住んだ最後の家と最後から2番目の家の設計をする時に、男子小便専用のトイレを設けることを提案した。

その点私はロクにプライドなど持ちあわせておらず、一方彼よりも経済合理性を優先する性質を持っているので、男子小便専用トイレなどは設けようとはせずに、妻と同じ洋式トイレで、妻と同じ姿勢つまり「座りションベン」をしているのである。



いつまでも立ったまま、跳ねを飛ばして小用を済ませている野獣的男性には、是非「座りションベン」を勧めたい。立ったまま、あの妙に低い位置にある小さな洋式便器からわずかの滴も跳ね返らせることなく、かつこぼすこともなく、小用を足すのは至難の業である・・・と言うか不可能に近いことは男性ならだれもが認識しているはずである。然るにどうして世の多くの男性は立ったまま、あの低位に構えた洋式便器に向かって、いつまでも同じことを試みようとなさるのであろうか。それは誠に自分勝手であるばかりか、仮に毎回小用の都度その男性が自分でトイレ掃除をしていたとしても尚、不衛生であると私は断じる。

私の父のように男子小便専用トイレを持つなら別だが、そうでないトイレで立ったまま小用を足す男性諸君、一度座って小用を足す気楽さを覚えてみよ。それによりどんなに体が楽になり、トイレ内を清潔に保ちうることか。座りながら小用を足すことは、いろいろモノを考える時間が出来るに等しい。しかも密室。気をそらす物もない小さな空間は誠に心地良い。私などついついトイレに長居してしまう。「座りションベン」のすすめである。

参考記事(日本経済新聞WagaMagaより):
・・・男性が立って小用をすると、床全体に見えない「尿ハネ」が1日当たり約2300滴も飛び散る・・・「尿ハネ」のほとんどは直径2mm以下の細かい霧状で、肉眼では見えにくい。普段はまず気付かない・・・
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TV受信で苦労する / すかがわでんきさんにお世話になる / 何でも光の時代@七里ガ浜 ☆= = =

2009-07-10 03:58:05 | 環境・土地
我が家ほどテレビを見ないウチも珍しい。私も妻も以前からテレビを見ない方だったが、今の自宅を建てた時に下の画像のようにテレビを露出させない内装をデザインしたくらいだから、ますますテレビから遠ざかってしまっている。自宅建築時点では、鎌倉市内はすでにインターネットと電話に関して光ファイバーの導入が可能であったが、テレビに関してはまだ不可能であった。そこで我が家はインターネットと電話は光で、テレビは普通の地デジを選んだ。しかしながら以下の2条件の下で自宅を建築したのである。

●屋根の上にTVアンテナを立てない
●電柱と電柱の間からビロロォ~ンと電線を自宅まで垂らして電気を引き込まない

この2つの条件を満たすため、スッキリポール(ご存じない方はこちら→http://blog.goo.ne.jp/kama_8/e/092ee24f0e4c13f840d95b9fe4a36b3bをクリック)を最寄りの電柱のスグそばに立て、そこへケーブルでも電線でも光ファイバーでもあらゆるものを引き込み、さらに敷地内の地中を通して自宅へ引き込むこととした。TVアンテナもスッキリポール専門の小さなものをポールの上に立て、そこからアンテナ線を通し地中から自宅に引きこもうとした。

スッキリポールを選択する理由は明確である。経済(あるいは景観)先進国における都市及びその郊外では稀なる風景を生みだす電柱という物体が、私は大嫌いなのだ。電柱と電柱の間を垂れ下がる電線も嫌いである。出来ることならその電線から枝分かれして空中をさまよい、住宅の壁へと引き込まれる電線も避けたかったのだ。



ところがTV受信に関してはうまく行かなかった。七里ガ浜はTV受信感度が恐ろしく悪い地域で、苦労しているお宅も多い。我が家もスッキリポールに専用の小さな地デジアンテナを立ててそこからアンテナ線を引き込もうとしたものの受信がうまく行かず、その方法を断念した。

それであっさりと方針転換して我々はCATVを選んだ。それ以来我が家では、電話とインターネットは光で、テレビはケーブルで、いずれもスッキリポールから地中を通して自宅に引き込む状態が続いていた。



しかし遂にド田舎の七里ガ浜でも光のテレビが見られる時代がやって来た。これならCATVを使わずとも、そしてアンテナを屋根上に立てずとも、テレビで美しい画像が見られる。CATVは受信料が高いし、我が家が関心がないBSやらケーブルの番組がやたらと用意されている。そこで私はCATVを止め、光でテレビを見るべく、NTT東日本に光テレビの受信を申し込んだ。

間もなくNTTの営業担当者がやってきた。彼は我が家の内外で小一時間ほど工事可能か否かを調べていた。我が家の場合は、インターネットや電話のためにすでに光ファイバーが屋内まで来ている。その配線は地中を通りまずは1階居室に端子の形で出て来る【下画像①】。一方我が家の分波器は風呂場の天井【下画像②】の上にある。NTTの営業担当者によれば「テレビも光にするためには、1階居室に出た配線を居室内の壁や天井をずずずぅ~っと這わせて壁から風呂場の上に突っ込ませ、そこで分波器につなげなければなりません」ということだった。しかし「居室内電気配線丸見えプラン」は避けたかった。あまりに見た目が悪過ぎる。家の中を長々と電線が這うのを今後ずっと見続けることになる。将来「変な工事をしてしまったなぁ・・・」と後悔することだろう。そこでNTTの営業担当者には悪いが一旦お断りした。

光によるテレビが内装美観的にいまいちだとすると、我が家にとって不要なCATVを解約した後もテレビを継続的に見るためには、この時点では、普通の地デジアンテナを屋根の上に立て、地デジテレビを見る工事をするしか選択はないと思われた。でもそれも出来ることなら避けたかった。


【画像①】


【画像②】

困り果てた私は近所の電気屋さんに相談した。ご近所のすかがわでんき(須賀川電気商会七里ガ浜店 所在地:鎌倉市七里ガ浜東4丁目4-12 Tel: 0467-31-2524)に向かってスタスタ歩いて行き、「どんなもんじゃろか?」と聞いてみたのである。須賀川さんはスグに我が家へやって来てくれた。私は須賀川さんを屋内へ案内し、「本当にこの家の中で、壁や天井に電線を長々と這わせないと光のテレビは見られないのかねぇ? それって見た目が悪すぎだよねぇ??」と質問した。

須賀川さんは屋内をチラッと見た後、不敵な笑みを浮かべながらアッサリとこう答えた。「まさかぁ・・・。そんなカッコ悪いことしなくたって、配線出来ますよ。簡単です。電話やインターネットの光の端子が居室の壁内側に出て来てるでしょ。ここからまたスグに外に配線を一旦出して、家の基礎づたいに人目から隠して外側で線を這わせて建物の裏側から風呂場の上の分波器のところに入れちゃえばいいんですよ」

なんと!!頼もしぃわぁ~★ やはり頼れるのは近所の電気屋「すかがわでんき」である。百戦錬磨の電気屋さんは、いろいろとアイデアが湧き出るのだ。光のテレビを見るという同じ目的のために、「家の中に配線をむき出しにするしか選択はない!」としたNTTの営業担当者のプランに対し、ベテラン電気店のオヤジさんは「秘かに人目に触れぬように外で配線する」見事なプランを提示したのである。



後日再び我が家に来てくれた須賀川さんは、この工事を短時間であっさりとやってのけた。お見事だ。間髪を置かずNTT東日本が我が家へ光テレビのサービスを開始した。須賀川さんはCATVの契約ストップの手続きまで全部やってくれちゃったのだ。

今では我が家は屋根上にアンテナなど立てることなどなく、屋内の壁や天井に配線を見せることもなく、快適に光のテレビを見ることが出来るようになった。屋内、屋外とも一見外観上の変化もまったくない。CATVも解約したので高い受信料も支払わずに済んでいる。インターネット、電話、テレビともに光化したのである。

やはり頼るべきは七里ガ浜の近所の方々だ。獣医、園芸、お酒、お好み焼き、スーパーそして電気店。近所のお店を利用しましょう。
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香しいカレー炒飯を平易につくる@七里ガ浜自宅厨房

2009-07-09 03:55:07 | 食べ物・飲み物
七里ガ浜は一昨日夕方から変な天気が続いた。濃密な湿気を含んだ空気がかなり強い風にあおられて海から山に向かって流れる。靄あるいは霧と呼ぶべきか、白く非常に細かい水の粒が連続してさまよう姿は、なんとも幻想的である。好き嫌いは分かれそうだが、私の好みではあるなぁ。終日晴れることもなく、気温もそれほど上がらないからだ。時間帯にもよるが50m先が霞んで全く見えないこともあった。画像は我が家からスグの風景。普段なら向こうに鎌倉山の南端と、斜面に並ぶいくつかの住宅、そしてその手前の家並がズラッと見えるが、それらが何も見えていない。



さて、私は深く傷ついていた。前日スパゲティ・ボロネーゼをつくるのに大失敗をしたからである。「ボロネーゼ?あのミートソースのことか??」とバカにすることなかれ。シンプルなものほどバランスをとって仕上げるのは難しいのである。スパゲティ・ボロネーゼをバカにする人は、あれこれいろいろな種類のスパゲティを自分でつくったことがない人である・・・と暴力的に結論する。何事も一からやるのは大変なことなのだ。ボロネーゼをこってりと同時に香り高く仕上げるのはなかなか難しい。

失敗は、手を滑らせコップを割ったことから始まった。コップを割ったら、即片づけないと危ない。しかしそれをしている間にスパゲティは伸びてしまい、丹精込めてつくったボロネーゼのソースが煮詰まり気味になってしまったのだ。それまでの長い調理プロセスに力が入っていただけに、くやしいものだ。



前置きが長くなった。今回は敗者復活戦なのである。「前日の失敗を糧として、ランチにカレー炒飯を作れ!」というシンプリシティーの極みのような命令が妻から発せられた。ボロネーゼもそうだが、シンプルな命令ほど、美しく完遂させることが難しいものである。もはや失敗は出来ない。背水の陣だ。私は熟考に熟考を重ね、材料とその割合を決定した。一口にカレー炒飯と言っても、その材料の選択、調味料の選択、それぞれの配合比率には無限の組み合わせがあるのだ。

上の画像は最寄りの西友七里ガ浜店で購入した鶏モモ肉とミックスト・ベジタボーである。鶏モモ肉は約260gだが皮をはがしたので、正確にはもう少し少ない量しか使っていない。西友のミックスト・ベジタボーはとても良い。安価で1袋にたくさん入っているからだ。最近の西友はますます頑張っている。とにかく安い。安い商品を店内の要所要所に配置し、消費者を喜ばせてくれる。

カレー炒飯の具として我が家ではよく冷凍エビを使う。それはそれで良い。しかし今回は香ばしいものを作りたかったので、エビではなく鶏肉を選んだのである。鶏肉が油の中で調味料をまとい、多少焦げ気味になった時の香ばしさは堪らない。この鶏モモ肉を1cm四方くらいの立方体に切り刻み、待機させておく。



上の写真は玉ねぎ。なんと豪州タスマニア島産だ。袋に印刷された文字(白っぽい下線あり)に注目せねばならない。昨日西友七里ガ浜店には玉ねぎが2種類売られていた。1つは佐賀県産、もう1つがこのタスマニア産である。私は迷わずタスマニア産を買った。だっておもしろそうだったから。オーストラリアという大陸(地図上の外見は島だが)は独特な生物が多いことで有名だが、そこからさらに南に切り離された冷涼なタスマニア島は、もっと不思議な自然や生物を誇る土地なのだ・・・と偉そうなことを言ったが、私はまだ行ったことがない。

玉ねぎも入れるかどうかでかなり悩んだ。何でもそんな簡単に結論は出ないのだ。玉ねぎを丹念に炒めるととんでもない甘みが確保されるが、それを甘くしようとすればするほど炒め続けることとなり、「ますます甘いぞ甘いぞ」と調子良く炒めていると、今度は玉ねぎが溶け始め切断面の角は丸くなり、炒飯の出来上がりがべチャッとなってしまう。玉ねぎを入れないというのも一つの選択だ。あっさりと仕上げるならそれも良い。しかし今回はこのタスマニア産玉ねぎを入れることにした。難しさに敢えて挑戦し、味覚に甘さを加える高度な作戦を厨房で展開したのである。



味付けは塩、胡椒が中心。しかし鶏ガラスープの素も少し入れる。画像下に写っているが、ニンニクを2かけら加えた。カレーは安易にS&Bのカレー粉(ルゥを粉末にしたもの)を使った。

単なるカレー粉だと塩辛さも旨味もないただのカレーの香りとなるが、今回の商品は粉末とは言えルゥであるからして味つきである。前者は無難だ。後者は使いようで大変おいしくなるが、失敗するとちょっとベタつきしつこくなる。慎重さが必要だ。1人につき、大さじ1杯くらいの按配で使う。

ニンニクも考え方が分かれるところである。あまり効き過ぎると、炒飯全体の香ばしさが損なわれてしまう。なんだかしつこい味になるのだ。これもかなり控えめに使うことにした。



しかしそのままでは辛さがまったく足りない。輪切り唐辛子をすりこぎ棒でつぶして、投入!これで辛さは3倍くらいになる。発汗作用抜群のランチである。私はこういう時に豆板醤を使うこともあるが、今回は唐辛子を使うことに決定。



さて、調理開始である。愛用の直径32cmの中華鍋に油をなじませ加熱、そこにみじん切りのニンニク、唐辛子を入れてクツクツ加熱。油にニンニクと唐辛子の香りを浸みこませる。さらにみじん切りのタスマニアン・オニオンをぶちまけ、丹念に炒める。最初は目が痛いくらいの玉ねぎ臭がしたがやがて落ち着き、どんどん甘い香りが広がった。玉ねぎはジャガイモとともに人類の味方である。佐賀県産もタスマニア産も。保存も効くし、おいしい。

玉ねぎが油と唐辛子とニンニクまみれになりながら炒め上がって行く姿は愛おしい。炒めながら香りを嗅ぐ。「美味しいこと間違いなし」であることを私はこの段階で確信した。



そこへ今度は鶏モモ肉を刻んだ状態で投入!どんどん炒める。ちょっと味見。鶏肉がちょっと焦げ気味になるくらいで良い。醤油をちょっとたらす。さらに味見。う~ん、やっぱり美味しいぞ!後は、そこにミックスト・ベジタボーを入れ、調味料で具全体の味を調え、さらにご飯を入れカレー粉を加えて炒めれば出来上がりである。



完成!どや???



拡大画像をご覧あれ。鶏モモ肉の焼け具合。玉ねぎが黄金に輝く。黄色いごはんにミックスト・ベジタボーの色が映える。あまりにおいしいカレー炒飯。妻も絶賛し、スプーンを持っていない左手の親指と人差し指を丸めて「OK」のサインを出した。そうだろう。私が一晩中寝ないで熟考したレシピなのだから。

前日のボロネーゼの失敗以来傷心気味だった私も、これで一挙にリゲインした。材料はなんでも西友七里ガ浜店でそろう。格安だ。七里ガ浜の皆さん!カレー炒飯で夏を乗り切ろう!
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芝生、芝生以外のモノ、あるいは日本で芝生を維持することの矛盾と格闘する@七里ガ浜

2009-07-08 03:04:53 | 
またもや芝生の話である。前回書いたとおり、吉田健一氏に言われなくても、日本で芝生を維持するほど「馬鹿げた話」はない。残念ながらここは英国ではなく、高温多湿な関東地方南部である。ここでは、彼の地のようにただ草を刈り続けていればそれが芝となり均等に生えそろう、なんてことは夢のまた夢だ。芝生維持の苦労たるやものすごいし、さらに一旦完成したら未来永劫安泰かというとそうではなく、次々に新たなトラブルが発生する。もしこれから芝生を植えようという人がいたら、私は「止めた方がいいのじゃないか」とアドバイスする。



ウチだって、犬がいなければ芝生を維持していない可能性が高い。犬を時々庭に出して息抜きさせ遊ばせて、オシッコさせるという気高い動物愛護精神を実践すべく芝生を維持しているに過ぎない。芝生がなければ雨天時は庭に出た犬の足先がドロドロになるし、背丈の低い草花も優雅に色々と植えてみたいがそれは犬のオシッコで全滅するだろうからして、「芝生か高木か、さもなくばその両方か」というハムレット並みの究極の選択くらいしか我が家には許されていないのである。



努力しても芝生はなかなか均一に生えそろってくれない。どうして、こんなにまだらな状態なのか?

芝生専門の高価な液体肥料を買ってみた。「住友液肥8号(芝生用)」である。なんとも大層な名前だが、結果はあまり芳しくなかった。と言うか、良かったとも悪かったとも言えない。効果がよくわからないのだ。何本もボトルを買ってしまったが、買った後でこうした肥料をよく知る方に聞いたところでは、それはあの有名な「ハイポネックス」等の液体肥料と成分的にあまり変わらないという。だから今では芝生用としてではなく、ハイポネックスの代替物として植木鉢の草花用に使っている。情けない話である。



私の模索は続いた。西武園芸七里ガ浜店で「レバープランツ」というブランドhttp://www.leber-torf.jp/の芝生専用肥料を買ってみたのである。これはひと月ほど前にこのブログでも紹介している。最初私はこれを警戒した。以前同じような外見の化成肥料を芝生に撒いてみたら、芝生が極端な肥料焼けを起こしてしまったからだ。このレバープランツの芝生専用肥料は外見は化成肥料に似ているが、内容的にはボカシ等と同様非常に有機的なものであり、肥料焼けは起きずその後も大変調子が良い。これは私も推薦する。

前回ご紹介した芝刈り機の失敗談同様、肥料についても失敗が後の向上を生んでいる。



アプローチのレンガの目地部分にたまったゴミのような土の上でも苔は成長する。随分盛り上がって元気である。信じられない生命力だ。一部にはびこると困る種類の苔もあるが、画像の苔は別にこれ以上の勢力拡大と言う野望は抱いていないようであり、もっぱら日陰寄りの目地で平和にひっそりと生活することを無上の喜びと感じているようなので、そのまま放置している。



しかし芝生の敵もいる。芝生の生育を妨げる奴らは数知れず。画像左はカタバミだ。これは一見クローバーのような優しい顔をしながら、実は庭の全面的征服という野望を心の奥底に秘めた恐ろしい相手である。根は浅いが、種をどんどん飛ばす。根絶しないとつけ上がる。根を抜いてもそこに薬品を散布しないと、また復活すること間違いなし。手ごわいやつである。戦国時代の抜け目ない武将を想像させる植物である。

もうひとつが画像右の・・・名前を何と呼んだか失念した。スギナや葛(クズ)同様根がかなり深い。一見軟弱そうで退治するとやられたふりをするが、根は地中深くに生き残り、またどこかで復活するというゾンビのようなやつだ。これはスコップでは片付かない。薬品のお世話になる必要がある。地中深くまで根絶やしにするしか解決方法はないのである。スギナや葛は今も見かけるけれど、もうすでにハイ・シーズンは過ぎている。また来年戦うことになろう。



最後の画像は猫の糞・・・じゃなくって今朝がた鳥が庭の隅を掘り返した痕である。ムクドリ等がいろいろやって来て、庭の土を掘り返し、地中の虫を捕食する。放置すると秋にはご覧のような土の山を毎朝大小何十も見ることになる。そうなるともう芝生どころではない。これを防ぐには地中の虫に死んで頂くしかない。鳥が捕食しそうな虫(往々にして植物の根も食べてしまう虫)を退治する薬品があるので、それを散布する。

かように、芝生の庭は矛盾だらけなのだ。冒頭申し上げたとおり、日本で芝生を維持すること自体が「馬鹿げた話」なのである。日本は「刈っていれば自然に芝生になる」国、土壌ではない。さらに芝生を育成するのに肥料を投入する一方、同じ庭の芝生以外の植物や虫を退治するのに薬品を投入するのである。我が庭の土もその所有者である私も矛盾した行為に苛まれ、いろいろな面で疲弊している。

すべてはこの暴れん坊(↓)のためなのだ。犬の生育も芝生の維持もまったく割に合わないものである。

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「芝生に就いて」 @七里ガ浜

2009-07-07 00:42:10 | 
昨日は午後遅くまで雨が降ったりやんだり。七里ガ浜もなんとも鬱陶しい気候・・・と思ったが、思いなおした。第一、あまり暑くない。終日曇天ないしは小雨である。日が射さないのでそれほど気温が上昇しない。



上の画像は住宅地内の「緑のプロムナード」である。この季節は緑が濃い。雨上がりもそれなりの趣がある。紫陽花のシーズンもそろそろ終盤かなぁ、とつぶやきながらここを自宅へと歩いて帰る。私は雨は嫌いでないのだ。カジュアルな服装をしている限りは、雨はそれほど不快ではない。スーツの時の雨は不愉快極まりないが。ズボンのプレスあとが雨でとれてしまうことを私は大変嫌うのである。これでも意外と私は神経質なのだ。



自宅に到着。前日に刈ったばかりの芝生だから、さすがにまだキレイに揃っている。昨日に続き芝生の話を書きたい。芝生を見る度に思い出すのが、吉田健一著「英国に就いて」(ちくま文庫)である。今回のタイトル「芝生に就いて」はその著書のタイトルからのまさしくパクリである。

「英国に就いて」はエッセイ集だ。ご存じないかもしれないので書いておくと、吉田健一は吉田茂の長男で英文学者あるいはエッセイストとして知られる。切れ目の少ない彼の文体に、私は妙に惹かれる(変?)。彼の食べ物に関するエッセイは抜群に面白い。



この「英国に就いて」の中に「感想」という小文があり、そこに本場英国の芝生についての叙述がある。そこを抽出する。

・・・英国の芝は植えるのではなくて、野原に生えている雑草を刈れば、それがそのまま芝になるのである。つまり日本で芝と言っているものが、英国では雑草の一種なので、雑草の中でも根強く、それで、辺りかまわず草刈り機を押して歩いていれば(ゴム輪がついたトラクターでやってもいいわけである)、他の雑草はやがて枯れてしまって、芝だけが後に残って緑を拡げることになる。手間は手間であるが、これと同じことを日本でやろうとすれば、まずその芝を買ってこなければならず・・・日本でゴルフ・コオスの設置と手入れにどのくらいかかるか・・・大体、馬鹿げた話だということが解る・・・

面白いでしょう?そうなのだ。彼の地では平地に生えて来た草をこまめに刈っていさえすれば芝生になるのである。私も現地に住んでいた時はそうした。一方日本では芝生を維持しようとすれば吉田健一の言う「馬鹿げた話」になる(いや、世界中でその馬鹿げた話を実行しているわけだ)。ほとんど亜熱帯気候化した関東平野で芝生をキレイに維持すること自体が環境破壊的で、そのためになされる労苦は計り知れないのである。もっとも芝生だけではなく、いろいろ無理して様々な草花や農作物を我々日本人は育てているわけだが。



前回ご紹介したPanasonicのお利口芝刈り機。非常に使い勝手が良い。しかしそこに行き着くまでには紆余曲折があった。私も芝生といろいろと格闘しているのだ。



最後の画像はハスクバーナの芝刈り機。以前このブログに掲載した画像である。ハスクバーナはスウェーデンの工作・農林関係機械のメーカーである。ブランド力、シンプルなデザイン、モーターのない静かな芝刈り機であることに惹かれて購入した。素晴らしい刃だ。さすがスウェーデン鋼である。問題は軽すぎたことだ。刃は良くても、使用時に多少の地面の凹凸に過剰に反応して芝刈り機本体が跳ねるために芝生が均一に刈れないのである。これを買ったことは若い芝生の我が家の場合は失敗であった。何ごともブランドと外見に惹かれて判断してはならず、モノに潜む価値を見抜く力を身に付けねばならないと言う実例である。勉強勉強。
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ムシムシする季節は芝生が伸びる@七里ガ浜

2009-07-06 00:12:55 | 
ちっ!また伸びてやがんなぁ。この時期芝生の総合的管理が難しい。芝生も雑草もどんどん伸びる。雑草を放置したら、でたらめなことになる。雑草を退治せねばならん。芝は刈らねばならん。しかし雑草も抜けば終わりのものと、それでは退治出来ない根の深いものもある。薬も必要だ。でも薬を撒いたらしばらくは芝刈りが出来ないし、雨が降らない方が良い。雨が降ったら芝も刈れない。芝刈りはカラカラに乾いた状態でしか出来ない。しかししょっちゅう雨が降る。八方塞がりである。



一昨日、昨日と日中雨は降らなかった。そこで昨日芝刈りを敢行した。あぁぁ、面倒くさい。力を使う。でも仕方ないので、物置から芝刈り機を出す。芝も刈った後で拾わねばならない。でも簡単には拾えない。レーキで引っかき、集めた芝を拾って捨てなければならない。



Panasonicのお利口芝刈り機。芝の長さは2.5mm刻みで5mm~40mmまで調節可能。私は7.5mmにセットした。



しかしうっとうしい季節だ。芝刈り作業に享楽的な趣がない。こんな気候に芝生自体が無理なのだ。5月は良かった。7月初旬は最悪だ。あぁ~やだ・・・などとつぶやいていたら、狭い庭の主なところはスグに芝刈り完了だ。なんと小さな庭でしょう。



でもそれで終わりじゃない。バリカン作業がある。これで隅っこをずっと刈りこむ。しゃがみ込んでやる。脚が痛い。面倒だわ・・・ホントに。



終わったぜ。いや、終わりじゃなかった。刈った芝を集めなきゃ。でもそれは後にしよう。その前に冷たい炭酸の効いたアルコールが5%程度入った飲料が必要だ。それくらいいいでしょ。だって暑いんですもの。
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