ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(41)~ (45)

2015-06-10 17:37:21 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。* 

<生駒・金剛エリア>(41)葛城山<2>

「土蜘蛛退治」

葛城の地名(元の読みはカズラキ)については、『日本書記』に「高尾張邑(たかをはりのむら)に土蜘蛛あり。その為人(ひととなり)、身短くして手足長し。(中略)皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城という」という神武東征説話があります。



岩橋山の項でご紹介した「一言主」を祀る一言主神社については金剛山の項で改めて書きますが、この神社の境内に神武に退治された「土蜘蛛塚」があり、葛の網で捕らえ頭と胴体と脚を三ヵ所に分けて埋めたという伝説では大きいクモ(節足動物の…)のようですが、上の日本書記の記述『その人となり』から、この辺りに古くから居住していた人たちのように思えます。

また古代神道で葛の蔓を結んで神籬(ひもろぎ)としたことが、謡曲『葛城』に「標(しめし)を結いたる葛なるを、この葛城山の名に寄せたり」と謡われています。『大和名所図会』には「金剛山土産(こんごうせんどさん)」として、「防巳藤(ふじかづら)。物を束(つか)ねて結(ゆ)ふに縄に代る。かつらぎの名義ここに起こる」の記述があります。今も奈良側の名柄から水越峠に登る車道(旧309号線)周辺を始め、藤や葛の植生が多く見られます。



なお、この旧309号線沿いにある「祈りの滝」はもと「祈(い)の滝」と言われ、役行者が衆生済度の願をかけるために身を浄めたところと伝えられています。

 

奈良の山あれこれ(42)葛城山<3>

「婿を池で洗って雨乞い」

天神山の南を深谷道の方に下ると竜王池、傍らに竜王社がありますが名前で分かる通り雨乞いの神様です。この池は「婿洗い池」という名で通っています。なぜこんな名前がついたのか?池の畔にあった御所市観光協会の説明板の画像を、お読みください。

現在のジョウモンノ谷(深谷)道はロープウエー登山口駅横を直進すると山道に入り、竜王池から流れてきた櫛羅(くじら)の滝に出会います。弘法大師が天竺のクジラの滝に似ているので名付けたという伝説があります。

さらに登ると行者の滝があります。(新しい登山道からは200mほど右手になりました)。
 ヒノキや杉の植林の中を登ると尾根道から谷の源流部になり、涸れ谷の左岸を行きます。ツツジ園に登る道を直進すると竜王池、少し先で右に分岐する道を登れば天神ノ森でロープ山頂駅が近くにあります。

ここから北斜面を約一時間で一周する自然観察路があり、春にはカタクリの大群落やイカリソウ、カワチスズシロソウなどの可愛い花々が咲き誇ります。

 

奈良の山あれこれ(43)葛城山<4>

「水争いの峠」

水越峠は葛城山と金剛山の間にあり、大阪と奈良の府県境でもあります。江戸時代に大和側の山麓の名柄の少年、上田角之進が、河内側の谷水を土嚢を積んで大和側に落とすようにして以来、近年まで文字通り水が峠を越えていたのです。元禄時代にはこの水を巡り、大和と河内で激しい水争いがあったといいます。

水越峠からは短い急坂を登り、樹林帯に入り石畳道を登ります。二度ほど急な木の階段道があり、笹原から杉林の中に入ります。

右手に河内、大和平野を見下ろす開けた所があり、雑木林を抜けるとツツジ園の下に出ます。左へ捲き道で国民宿舎前。右はツツジの中の直登で、時間的に大差なく山頂に通じています。峠から約1時間15分。

私たち夫婦が良く使う青崩(あおげ)(天狗谷)道は、水越トンネルの大阪側、青崩の集落を抜けて谷沿いの道を行きます。細くなった流れを離れ、急坂のジグザグを繰り返して、尾根上のベンチのある所にでます。

ここがほぼ中間点で、右に折れて少し登ると勾配が弱まり、雑木林の山腹を捲くほぼ水平な道になります。冬は美しい霧氷の林が迎えてくれます。

弘川寺からの林道と合して直角に右に曲がると緑に苔むした杉林の木の根道で、春はショウジョウバカマの大群落が見られます。右に砂防堤防を見て間もなく、頂上すぐ下のキャンプ場に着きます(1時間45分)。ロープウェイ山頂駅からの道と合流すると白樺食堂前に出て、右へ数分でなだらかな草原の山頂です。標高952,9mの山頂からは大和・河内平野を見下ろし、すぐ近くの金剛山から右に紀泉高原の山々、左に台高、大峰などの大展望が得られます。

 

奈良の山あれこれ(44)金剛山<1>

「床下の土にもご利益が…」



水越峠を挟んで葛城山に対する金剛山は、山頂に葛木神社が鎮座することでも分かるように古くは葛城山と一体の山と考えられていました。役小角(えんのおずぬ・役行者)も賀茂氏の一族で、この山中で松葉を食べ葛の衣を着て修行を重ねて、遂には修験道の祖となる神通力を得たと伝えられています。

金剛山の名は平安時代に金剛山寺(転法輪寺)が出来てからと考えられています。創建は665年、役行者が五眼六臂の法起菩薩を祈り出して、本尊として安置したという伝説があります。

もともと神仏習合の霊山として修験道七高山に数えられ、本堂は現在の葛木神社境内にあったのですが、明治の神仏分離・廃仏棄釈によって廃寺となりました。現在の本堂は1950年(昭和25)役行者1250年忌を契機に発願され1961年(昭和31)に落慶し再建されました。床下の土を少し持ち帰り「我が田地に入れれば稲よく実りて虫喰わずとて、参詣の人夥し」と記されています。南北朝の動乱で、楠正成は河内側山麓に千早・赤坂城を築き、この寺の僧兵の力を借りて大いに奮闘しました。

境内には行者堂があり、前の牛王の背には金剛山の名前の由来が記されています。

 

奈良の山あれこれ(45)金剛山<2>

「金剛山は大阪の山?」

金剛山は大阪と奈良の府県境に位置し、大阪の人にとって馴染みの深い山です。近くの校区の人はもちろん、堺市や大阪市南部にお住まいで、小・中・高校生時代に遠足や耐寒登山で登った想い出をお持ちの人も多いでしょう。

西山麓(大阪側)からは金剛山ロープウェイが架かっていて、山頂近くまで楽に運んでくれます。なお、このロープウェイは千早赤坂村営で日本では唯一の村営です。 

また、楠正成に関する史跡の多くが大阪側にあり、「千早本道」と名付けられたコースは千早城すぐ下の登山口から国見城址に通じています。

城址に山頂と書かれた大きな標識があり、ここが最高点と思っている人も多いようです。

しかし金剛山の最高地点は葛木岳で、葛木神社の本殿裏にあります。神域のため立ち入ることができないので、少し降りた国見城址が山頂とされているのです。

また一等三角点は湧出岳1,112mにあります。他に大日岳1,094mのピークがありますが、ここも所在は奈良県御所市。

大阪府の最高地点 (1,053m) は千早園地の一角にあります。このシリーズ「奈良の山あれこれ」では、山頂周辺や東側山麓(奈良側)からの話題を綴っていきます。