ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(46)~(50)

2015-06-12 17:21:03 | 四方山話

 *「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(46)金剛山<3>

「一言さんは男神?女神?」

一言主を祀る神社は森脇にあります。この神様は願い事を一言だけ叶えて下さると信仰を集めています。

雄略天皇が葛城山(現・金剛山)で狩りをしたとき、向かいの尾根を天皇一行と同じ装束をした行列があり、怒った天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたので、驚いて自らの弓矢・刀剣、供の者の衣服を献上して拝み奉った…と古事記にでています。

 しかし日本書記では「天皇と供に狩りを楽しんだ」「最後は一言主が天皇を来目水まで送ってきた」という記述になります。雄略天皇狩場は葛木神社と道を隔てた南側尾根にあり、このとき天皇は東雄略谷から登ってきたそうです。

さらに後の日本霊異記では、一言主神は岩橋山で役行者に使役されるようになります。時代が下がるにつれ、天皇の権力が強まるのと反対に一言主を祀る古代豪族・賀茂氏の力が弱まっていく過程を表しているように思えます。

この一言主神は世阿弥の謡曲「葛城」では女神として登場します。雪の葛木山中に行き惑う羽黒山伏たちを庵に招き、昔、岩橋を架けることができなかったので(岩橋山の項参照)、『役の行者の法力により蔦葛で縛られ、苦しんでいると明かし、消え去ります。山伏たちが、葛城の神を慰めようと祈っていると、女体の葛城の神が、蔦葛に縛られた姿を見せました。葛城の神は、山伏たちにしっかり祈祷するよう頼み、大和舞を舞うと、夜明けの光で醜い顔があらわになる前にと、磐戸のなかへ入っていきました。(the能.com)』

芭蕉は「笈の小文」の吟行で葛木山麓を通ったときに、『猶みたし花に明行く神の顔』を残していますが、この神はもちろん「一言主神」です。

 

(47)金剛山<4>

「郵便屋さんの通った道」

高天は高天原に比定される静かな農村地帯の集落ですが、ここの高天彦(たかまひこ)神社の境内にも「蜘蛛伝説」があります。
ここにいた大蜘蛛と猿伐(さるち・集落名)の大猿は仲が悪く、大猿が投げた竹の矢で知んだクモを境内に埋めて塚を立てたというお話です。なおこのクモは天皇の勅使が矢を放って征伐したともいわれ、こうなると前述の葛城山の土蜘蛛を連想します。

この高天彦神社の前から金剛山に通じる道は、御所の郵便局員が昭和10年から終戦まで徒歩で、山頂へ郵便物を配達したことで「郵便道」と呼ばれ、奈良側では最短の登山コースとして私たちも良く利用します。(日露戦争の戦勝を知らせたという話もありますが、御所市のホームページの記事では上のようになっています。)

2013年の台風による被害で一部、迂回路になっていますが、高天の滝から約2時間で山頂に達します。

春にはヤチマタイカリソウ(↑)やルイヨウボタンの花に出会えるのが楽しみで、急坂の多い道も苦になりません。

 

(48)金剛山<5>

「行者さんの修験道」

湧出岳三角点のすぐ傍に「妙法蓮華経如来神力品第二十一経塚」があります。「役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚(Wikipedia)」の一つです。法華経は釈迦晩年の最高の教えと言われ、28という数字は釈迦が56億7千万年後に弥勒菩薩となってわれわれ衆生を救済する様々な方法を示します。

役行者はそのお経を友ヶ島(序品)から大和川の亀ノ瀬岩(普賢菩薩勧発品)に至る葛城山系二十八ヶ所に埋め、その上に経塚を置いたと言われています。

金剛山中では他に石寺址に「第二十常不軽菩薩品経塚」が残っています。江戸時代末期、この二十八ヶ所の経塚、行場を巡る山伏修験道が盛んとなり、金剛山頂の転法輪寺がその大本山でした。

 二上山雄岳

2003年刊ヤマケイ関西「金剛山」所載の葛木神社禰宜・葛城裕氏による「金剛山史」からの孫引きですが、貝原益軒の「南遊紀行」に『絶頂に葛城の神社あり、大社なり、一言主神という。役行者堂あり。(中略)山上より二丁西に下れば河内国金剛山転法輪寺あり、役行者開祖なり。これ山伏の峰入りして修行するところなり(後略)』と書かれています。金剛山については、まだまだ書きたいことが山ほどあるのですが、次の山が待っていますのでこれで止(とど)めます。

 

<宇陀高原エリア>

(49)烏塒屋山(からすのとややま)

「ヤタガラス伝説の山」

榛原から南へ吉野に向かうと、正面に鋭い円錐形の美しい山が見えてきます。山頂は宇陀市大宇陀区と吉野町の境になります。

宇陀は神武東征にちなんだ伝説の多い地で、榛原区に八咫烏神社があります。八咫烏(ヤタガラス)は神武天皇が熊野から大和に入るときに、アマテラスオオミカミから使わされ道案内をした神様で、烏塒屋山にも八咫烏伝説が残されています。

山名の「烏」は「八咫烏」のことで、「塒屋」はねぐらの意味です。この山の北にある大蔵寺は、寺伝によると聖徳太子の創建。空海が真言宗最初の道場と定めたことから「元高野」とも呼ばれました。

2000年秋、下栗野の「老人憩いの家」に車を置き、土地の人に聞いた道を登りました。里山の例にもれず道が錯綜して分かり難かったです。見通しの悪いヒノキ林の中を登り、尾根に出て左に折れ、頂上直下にくると伐採中で、倒木を迂回しながら急坂を登ると山頂の三角点にでました。小さい石碑と幾つかの山名板がありました。北側だけが少し開けて伊那佐山の方が見え、南側は木の間から龍門ヶ岳や津風呂湖がチラホラ見える程度でした。あれからもう15年、今は伐採が終わり、かなり状況も変わっていると思われます。

(50)野々神山

「この山登れません」

名阪国道・針ICから南下すると白石に来ます。この辺りは古代、ツゲ国があったとされる都祁の中心地。国津神社から雄神神社に向かって、ヤスンバという叢林が並んでいます。

雄神神社の背後の二つの山が雄神山(550.6m)、雌神山(531.5m)からなる野々神山。土地の人は「ののさん」と親しみをこめて呼んでいます。三輪山と同じく御神体山で、雄神神社は大神神社の奥ノ院とも言われています。大神神社と同じく本殿はなく、拝殿の後に山に向かって鳥居があります。

しかし三輪山と違って禁足山で登ることはできません。山頂には岩窟があって白い大蛇が住んでいて、この蛇を見たものは死ぬと言われています。昔、雄雅(神)山で悪事を働いた者が二つの神社の間にある伏人橋まで帰ってくると、先廻りして待ち伏せていたナガモノ様に食い殺された伝説があります。

「岳参り」ができない代わりに、この山は神様が豊作をもたらすために自ら下りてこられます。ヤスンバはその時にお休みになる「休み場」なのです。