この日は連休になることも多いので、あちこちに登っています。
1958年 東六甲縦走。初めて大山に登った仲間と芦屋ロックガーデンから最高峰
へ登り、宝塚まで縦走しました。これが2度目の山歩きです。
ハンチングベレー帽というのが流行していました。
1960年 金剛山南尾根縦走 紀見峠から金剛山に登り、御所に下山しました。
金剛山頂葛木神社にて。右端が変愚院です。隣で手に雪塊を持って女の子に
イタズラしているのは9歳年の離れた弟。この時代は、この時期の積雪は
ごく普通のことでした。
1961年 比良山北比良峠付近。前夜、八雲ヶ原で幕営のとき、後輩たちが
苦労して運んできたバーズデーケーキで祝ってくれました。朝から降雪の中、
武奈ヶ岳に登り下山してきたところです。
1978年 多武峰の向かい側にある音羽三山(音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳)を
縦走しました。何故か写真がありません。
1989年 毎年のように紅葉を見に行く大台ヶ原。大蛇にて。
1992年 唐木のキレット。鈴鹿山脈の南端近く、那須ヶ原山と高畑山の間に
あります。那須ヶ原山からキレットまではアップダウンが激しく、ところどころ
で藪漕ぎやガレ場の通過もあり面白かったです。
2000年 これも、あまり登られていないマイナーな大和の山。
大宇陀の南にあり、神武東征にまつわる八咫烏(ヤタカラス)伝説が残る山
です。
そして10年前の11月23日。標高およそ5,100m、「烏の墓場」という意味の
ゴラクシェプ。
荒れ果てたクーンブ氷河のアブレーション・バレー(側谷)に沿って登り、
標高差100mのサイドモレーンを越えて5時間かかって着いた、カラパタール
への最後の泊まり場です。背後の美しい三角錘の山はプモリ(7161m)です。
一休みすると、高山病の徴候が出てふらふらの身体を励まして、明日登る道を
標高差推定100m程登って高度順化しました。とても苦しい一日でした。
1958年 東六甲縦走。初めて大山に登った仲間と芦屋ロックガーデンから最高峰
へ登り、宝塚まで縦走しました。これが2度目の山歩きです。
ハンチングベレー帽というのが流行していました。
1960年 金剛山南尾根縦走 紀見峠から金剛山に登り、御所に下山しました。
金剛山頂葛木神社にて。右端が変愚院です。隣で手に雪塊を持って女の子に
イタズラしているのは9歳年の離れた弟。この時代は、この時期の積雪は
ごく普通のことでした。
1961年 比良山北比良峠付近。前夜、八雲ヶ原で幕営のとき、後輩たちが
苦労して運んできたバーズデーケーキで祝ってくれました。朝から降雪の中、
武奈ヶ岳に登り下山してきたところです。
1978年 多武峰の向かい側にある音羽三山(音羽山、経ヶ塚山、熊ヶ岳)を
縦走しました。何故か写真がありません。
1989年 毎年のように紅葉を見に行く大台ヶ原。大蛇にて。
1992年 唐木のキレット。鈴鹿山脈の南端近く、那須ヶ原山と高畑山の間に
あります。那須ヶ原山からキレットまではアップダウンが激しく、ところどころ
で藪漕ぎやガレ場の通過もあり面白かったです。
2000年 これも、あまり登られていないマイナーな大和の山。
大宇陀の南にあり、神武東征にまつわる八咫烏(ヤタカラス)伝説が残る山
です。
そして10年前の11月23日。標高およそ5,100m、「烏の墓場」という意味の
ゴラクシェプ。
荒れ果てたクーンブ氷河のアブレーション・バレー(側谷)に沿って登り、
標高差100mのサイドモレーンを越えて5時間かかって着いた、カラパタール
への最後の泊まり場です。背後の美しい三角錘の山はプモリ(7161m)です。
一休みすると、高山病の徴候が出てふらふらの身体を励まして、明日登る道を
標高差推定100m程登って高度順化しました。とても苦しい一日でした。