ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

¥1の本

2009-11-03 17:36:45 | 読書日記
今、読んでいる三島由紀夫の「豊饒の海」ですが、第1巻の「春の雪」の
値段はなんと僅か1円でした。

近くの書店の店頭には見あたらなかったので、Amazonで探したのですが、
ずらりと¥1の表示がでました。
今までもamazonでは中古本…特に文庫本は¥1の表示をよく見ましたが、
私は汚れた書物は嫌なので、これまで手を出したことがありませんでした。
今回は他に表示がないので、その中でも評判の良い出品者に発注しました。
二日すると、少し表紙に傷がある程度で結構綺麗な本が本当に届きました。
配達料が350円必要でしたが、手間を考えるとどうして¥1で商売になるのか、
不思議でなりません。

しばらくして近所のBookOffで一冊350円で並んでいるのを発見。
こちらの方が1円安く、汚れの程度も良かったです。
第4巻は300円でしたので、2~4巻をまとめて1,050円で買いました。
これで1ヶ月以上、じっくり味わいながら読めました。

豊饒の海

2009-11-03 08:26:06 | 読書日記
「豊饒の海」四部作が発表された1960年代末期から70年にかけての私は、
三島由紀夫を右翼作家と毛嫌いし、心情的にはむしろ全共闘の学生たち
に同情的な青年でした。
 そのため「盾の会」の軍服姿の三島への嫌悪感は、読売「巨人軍」への
それにも劣らぬ、むしろそれ以上のものでした。
 それまで「潮騒」や「金閣寺」など三島の著作は図書館で借りるなどして
読んではいましたが、「豊饒の海」はテーマに興味を持ちながらも読む気
もしませんでした。



今頃になって急に、この長編を読みたくなったのは、8月にバンコクに旅行
して「暁の寺」ワット・アルンに遊んでからのことです。
9月は「1Q84」を読んでいたこともあり、10月になって「春の雪」から
読み始め、ようやく三巻目の「暁の寺」を読み終わりました。

「豊饒の海」は輪廻転生をテーマにしていますが、ときには唯識論などの
仏教哲学が長々と論じられ、また「感情を心の中でちょっと揣摩(シマ)
してみた」とか「彼の穎脱(エイダツ)を誰よりも買っていた人」とか、
ルビはふってありますが最近はお目にかからない難しい単語が、ちょくちょく
出てきて時間がかかります。

「暁の寺」では中心的な主題はむしろインドのベナレスであり、そこに燃える
ガートの火であり、ワットアルンは一点景に過ぎないのですが、しかし三島の
風景描写は的確で、特に色彩の表現は絵画的な鮮やかさで目に浮かぶようです。(これは、第一巻の「春の雪」から、ずっと感じていたことですが…)

例えばワット・ポー



『涅槃仏殿の巨大な金色の寝釈迦は、青、白、緑、黄のモザイクの箱枕に、
叢林のように高い金いろの頭髪を委ねていた。金の腕は長く伸びて頭を支え、
暗い御堂のむこうの端、はるか彼方に黄色の踵が輝いていた。』



『その蹠(足の裏)はみごとな螺鈿細工で、こまかく区切られた黒地の一区切
ごとに、紅色にきらめく真珠母が、牡丹、貝、仏具、岩、沼から生い出でた
蓮の花、踊り子、怪鳥、獅子、白象、竜、馬、鶴、孔雀で三帆の船、虎、鳳凰
などの図柄を以て仏陀の事蹟をあらわしていた。』



そして「暁の寺」の描写…
『近づくにつれて、この塔は無数の赤絵青絵の支那皿を隈なくちりばめて
いるのが知られた。
 いくつかの階層が欄干に区切られ、一層の欄干は茶、二層は緑、三層は
紫紺であった。嵌め込まれた数知れぬ皿は花を象り、あるいは黄の小皿を
花心として、そのまわりに皿の花弁がひらいていた。あるいは薄紫の盃を
伏せた花心に、銀子の皿の花弁を配したのが、空高くつづいていた。
葉は悉く瓦であった。そして頂きからは白象たちの鼻が四方へ垂れていた。



塔の重層感、重感は息苦しいほどであった。色彩と光輝に充ちた高さが、
幾重にも刻まれて、頂きに向って細まるさまは、幾重の夢が頭上から
のしかかって来るかのようである。すこぶる急な階段の蹴込も隙間なく花紋
で埋められ、それぞれの層を浮彫の人面鳥が支えている。一層一層が幾重の夢、
幾重の期待、幾重の祈りで押し潰されながら、なお累積し累積して、
空へ向って躙り寄って成した極彩色の塔。
 メナムの対岸から射し初めた暁の光りを、その百千の皿は百千の小さな
鏡面になってすばやくとらえ、巨大な螺鈿細工はかしましく輝きだした。
 この塔は永きに亘って、色彩を以てする暁鐘の役割を果して来たのだった。
鳴りひびいて暁に応える色彩。それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の
破裂感を持つように造られたのだった。』

…全巻を通じての「見者」本多は19歳の青年から78歳の老人まで、60年の
歴史を、ときには「人間は歴史に関われるか」と自問しながら見つめて
きます。私も最終巻の本多に近い年齢の老醜の身になって、始めて三島の
「美意識」が、おぼろげながら理解できるような気がしています。
なによりも年齢を重ねたお陰で、ワット・アルンや、(ネパールでではあり
ましたが)ガートでの火葬を実際に見たきたことで、より深い読後感を味わ
うことができたと思っています。