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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(88)~(90)

2015-10-24 10:51:20 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*  **吉野周辺エリアに入ります** 

88)白屋岳 「山麓の集落は廃村に」



吉野郡川上村と東吉野村のとの境。薊岳から南へ走る台高
山脈支稜が、木ノ実塚を過ぎて西に向きを変えた先端にあります。東側の足ノ郷越(峠)には旧熊野街道が通り、宇陀から川上、さらに北山へと続く重要な道でした。二等三角点(1,176m)がある山頂はシャクナゲ林の中の狭い台地で、台高、大峰の山々、白髭岳や大所山などの展望が得られます。

山麓の白屋はかって林業の村として栄えましたが、大滝ダムの建設によって大きく変貌します。ダム建設による地滑りの危険はかねてから危惧されていましたが、2003年試験湛水の結果、白屋地区に亀裂が生じ、離村が勧告されました。現在、白屋地区の全世帯が移転を終え、斜面の地滑り対策工事も完了しています。



2001年9 月、千日山歩渉会9名のメンバーで集落最奥の民家横の空地に車を置かせて貰い、簡易水道浄水場横の「登山口」標識から登りました。



不明瞭な道で尾根上の大平と呼ばれる地点まで1時間30分かかって尾根に出ました。小さいピークをいくつも越えて最後の急坂を登ると、シャクナゲ林の中に山名板の立つ小台地の頂上でした(大平から1時間35分)。



下りは大平から尾根を直進して白屋辻まで来ると(頂上から1時間)、トタン張りの小屋と「白屋岳へ2.8K、約1時間20分」の標識がありました。ここから林道の終点に下り、朝の「登山口」標識に帰りました(白屋辻から35分)。武木から林道に入り、足ノ郷越に車を置くとわずか40分ほどで頂上に達すると聞いています。

(89)仏ヶ峰 「近くに同じ名の山が二つ」
 
吉野から東へ吉野川沿いに熊野に向かう国道169号線は、宮滝を過ぎたとろでトンネルに入り、東南に向きを変えます。このトンネルは吉野山の最高峰・青根ヶ峰から東北に向かう尾根の末端付近を潜りますが、近くに同じ名前の「仏ヶ峰」が二つあります。地元では東側の標高610mの山を仏ヶ峰と呼んでいるようです。

2004年5月、くっきりと青空に浮かぶ白倉山を右に見ながら、大滝集落の坂道を蜻蛉ノ滝へ登りました。子供を含めた10人ほどの人が滝を見に来ていましたが、この後は終日、誰にも出会わない二人だけの山でした。滝の横の急な階段を登って聖天ノ窟を過ぎ、さらに支尾根を登って主稜線を通る旧吉野街道に出ました。



左は青根ヶ峰へ通じ、仏ヶ峰、白倉山へは右に行くT字路になっています。



道はすぐに下りになり、岩小屋になりそうな窪みをもつ巨岩を過ぎて西河の分岐にでました。



祠の中の石のお地蔵さんに「左よしの、右かみいち」の文字が見えました。しばらく登ると王峠のT字路で、直進すると樫尾に通じます。



右へ急坂を登ると林に囲まれた10mピーク「佛ヶ峰」でした。



1年後の4月、青根ヶ峰に行く途中、もう一つの仏ヶ峰を通過しました。旧吉野街道標識から前年の仏ヶ峰と反対に行った方向にある地図上の668.4m三角点です。標識から30ほど、少し登山道を外れたブッシュの中の小ピークで、やや分かり難い場所に境界標と三角点がありました。(写真は地図上の仏ヶ峰から青根ヶ峰に続く稜線)

(90)白倉山 「低山ながら展望抜群」



仏ヶ峰と同じく旧吉野街道の通る稜線上の山。山頂にNHK電波中継塔があり展望にすぐれています。前項の「仏ヶ峰・610m」からの様子を記します。

王峠からは道標が全くなくなり、赤や黄のテープに導かれて入り混じった踏み跡を辿ります。やっと送電線鉄塔の建つピークに出て、木の間越しに白倉山の電波中継塔が見えてほっとしました。関電巡視路を下ると鹿塩神社の石標と鳥居、社務所らしい建物の前にでました。ここが五社峠で正面の参道を登った、先程立っていた峠の真上に神社があります。

本居宣長の「菅笠日記」に次のような件りがあります。宣長が西行庵から青根ヶ峰、吉野街道を辿って西河に下る途中である茶店に休み、『鹿塩神社の御事をたづねたれば、そは樫尾西河大滝と、三村の神にて、 西河と樫尾とのあはひなる山中に、今は大蔵明神と申て、おはするよしかたる、この道よりは、ほど遠しときけば、えまうでず』と結局、遠いので参詣できなかったようです。



その神社の横から急な道が上に続き、尾根に出ると眼下に西河の集落が見えました。最後の急坂は短いが胸を突く勾配で、木の幹にすがりながら登り切ると587.6m.四等三角点と標識がありました。



細長い山頂部を100mほど南に行くと電波中継塔があり、その横の絶壁の上に鎖が張られ絶好の展望場所となっています。箱庭のような村々を見下ろし、近くは今日歩いてきた長い山並みや白屋岳、白髭岳、遠く大峰の山々、大台ヶ原、さらに高見山など、胸の空くような大展望に長い歩きも報われた想いでした。


奈良の山あれこれ(86)~(87)

2015-10-18 08:33:01 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
86)辻堂山   「オオカミが避けて通るお堂」
吉野町宮滝から吉野川沿いに南西に走る国道169号線は、白川渡で南に転じて大迫ダムを過ぎ新伯母峰トンネルに入ります。その手前で右に折れ、ワサビ谷を渡り曲折しながら東に向かう道路が小さいトンネルをくぐる処が伯母峰峠です。昔は東熊野街道と呼ばれた道が伯母谷村から伯母ヶ峰を越して、堂ノ森を下って北山の河合に下っていました。非常な難路で「和州吉野郡群山記」には『伯母峯打越し六里半なり。伯母谷より辻堂まで三里半の山中にて昼寝などすれば、もと来し道をわすれて先へ行かずして、跡へ戻り帰る事ありという。この峯通り、前後同じ道あり。ゆえにまよひ行く者なり。俗にそれを、魔にまどはさるるといふ。』とあります。
 


今は伯母峰峠からは大台ヶ原ドライブウェイが南東の日出ヶ岳へ向かっていますが、辻堂山はドライブウェイを少し走った南側にある円頂型の美しい山です。
この山は昔、「堂ノ森」と呼ばれていました。ここから西の天ヶ瀬村に下る道があり、そこに地蔵堂が立っていました。「群山記」には『この地蔵を狼地蔵という。狼この前を通る事あたはずといふ』と書かれています。(今は新トンネル南側の和佐又谷に移されました)
 
 
私たちは西大台周遊の前に、非常に安直にドライブウェイの辻堂林道入口から往復しました。林道を10分ほど行くと右手に取り付き点があり、木の枝に小さな赤いテープが捲いてありました。
 


疎らな笹原の中、微かな踏み跡らしきものを探りながら数分登ると、細いがしっかりした山道に合流。



右に折れて登り着いた辻堂山は三角点のある狭い山頂で、樹木に囲まれて展望はありません。往復1時間足らずの実に手軽なハイキングでした。

(87) 伯母ヶ峰 「山姥の住んでいた山」
 
吉野川と北山川の分水嶺の一つ伯母ヶ峰は、前項(辻堂山)でご紹介したように、昔は頂上近くを東熊野街道が通っていました。「和州吉野郡群山志」に『土俗の伝説に、昔伯母峯山中に白髪なる伯母の住みて、人の見る事もありしと云ふ。』とあります。西原へ下る大台辻(現在の大台辻ではなく、辻堂山からの支尾根と、西からの稜線がドライブウエイで出会うところ)は毎年12月20日は通行禁止でした。「郡山志」に『牛鬼の出て熊野海に潮踏みに行く。その時は辻堂に戸を閉じて、これを見る事を禁ず』とあります。 

ある年、熊野の人が禁を破って峠に来ると、髪を乱して色青ざめた女に出会いました。道端に下ろしていた乳飲み子を「わが肩に負ぶわせてくれ」と言われて、そうすると「このことを里に下りても人に言うな」といいます。正月になって人に話したところ、その夜のうちに死んでしまったそうです。『古へは大台姥峰に至る人、度々山姥に逢ふ事ありし‥』と書かれています。このことから山名は「伯母峯」=「姥峰」から来ていると思われます。

伯母峰峠の怪物としては、やはり末の20日に出る、一つ目一本足の「一本たたら」が有名です。今はなき大台教会の主、田垣内政一さんから、ランプの灯りの下で聞いた話は真に迫って怖く、今も忘れられません。
 
伯母峰峠の一本タタラ

他の地域では「だたら」と呼ぶことが多いのですが、大台周辺での村々では「たたら」と呼んできました。土地によって少しづつ違う話が伝わっていますが、ここでは「奈良県史」、「上北山村公式HP」、角川書店版「奈良の伝説」、大正11年大阪朝日新聞刊「山の情話と伝説」や大台教会の田垣内政一さんからお聞きした話などを、私なりにアレンジしてみました

 
昔、伯母峰の南山麓・天ヶ瀬に射場兵庫という武士がおりました。
毎日のように愛犬アカを連れて山に入り、溝筒の鉄砲で狩りをしていました。ある日、辻堂山手前の小豆横手というところで、アカがけたたましく吠え立てたと思うと、笹原が動き出して背中にクマザサが生えた大猪が襲いかかってきました。兵庫は何発も打った挙句、猪の足を打ってようやく倒しましたが、毒気にあてられたのか自分も気を失ってしまいました。耳元で鳴くアカの声で気が付くと大猪が倒れていましたが、とても運ぶことが出来ず、そのまま家に帰りました。翌日、見に行くと猪の姿はなく、傍らの木の幹に鉄砲の弾痕がいくつも残っていました。
 それから何日かして、紀州・湯の峰温泉に足の怪我のために湯治に来た野武士があります。宿の離れを借りて、主人に「ワシの寝ている間は誰も来てはならぬし、部屋も覗くなよ」と告げると大イビキをかいて寝てしまいました。主人が草鞋(わらじ)を揃えに行くと、藤蔓で編んだその長さは一尺八寸(68cm)、重さは二貫八百(10.5kg)ほどもありました。しかも動かぬように、緒を柱の下の礎石へ結び付けて抑えてあります。不審に思って部屋を覗いてみると、背中にササを生やした大猪が 八畳の間一杯に寝ていました。
 朝、目を覚ました客に呼ばれて、やむなく離れに行くと「何を隠そう。我は伯母峰に住む猪篠王(いざさおう)という。このほど天ヶ瀬に住む射場兵庫というものに討たれてこの怪我じゃ。兵庫は怖くないが、あの溝筒の鉄砲と犬には敵わない。お前は見るなというたに姿を見たからには、火筒と犬をわが手に入るように何とかせい。そうすれば命は助けてやろう」と怪物はいいました。震え上がった主人は天ヶ瀬に行って、兵庫と犬が本当にいると知り、鉄砲と犬を買い取ろうとしますが兵庫はもちろん、聞き入れません。
 その後、猪篠王は兵庫に因縁の辻堂山で一騎打ちを挑みます。今回は兵庫も弾を打ち尽くして危うくなりましたが、最後に残った「南無阿弥陀仏」の文字を刻んだ「お守り玉」でようやく怪物を倒しました。
 しかし、猪笹王の亡霊は一本足の化物となって、伯母峰峠を通る旅人を取り喰らうので、この辺りはすっかり寂びれてしまいました。ある時、丹誠上人がこの話を聞き「日限の地蔵さん」を辻堂に安置して、祈祷を行いました。「一年に一度、果ての二十日(12月20日)にだけは自由を許す」ことを条件として、猪篠王の霊を経堂塚に封じ込め、それ以来、他の日には旅人が安心して峠を通行できるようになりました。現在も、射場兵庫の鉄砲を祀る神社が天ヶ瀬にあるということです。

異説を並べておきます。1、犬の名は「ブチ」 2.兵庫と猪篠王の最初の邂逅は偶然でなく、以前より峠の通行人を襲っていた化け物退治を、村人が兵庫に依頼した。 3.湯治場は摂津の「有馬の湯」 4.二度目の一騎打ちはなく、湯治に来たのは猪篠王の亡霊だった。 5.妖怪もしくはその霊を封じ籠めたのは大台ヶ原の牛石… 等々。
 
2007年7月、釈迦ヶ岳から下山して和佐俣ヒュッテに泊まった翌朝、帰宅前に伯母峰園地に車を置いて伯母ヶ峰に登りました。



旧伯母峰トンネルから和佐又に通じる林道の100mほど先で、右手斜面にかかる長くて急な木の階段が登り口になります。



尾根を回りこんで大岩がある処で、北へはっきりした支尾根が延びていますが、伯母ヶ峰へは東へ進みます。なだらかな尾根道を行くと小さな台地状の所があり、ここから短いが急登で1262mピーク。背丈を超すスズタケを漕いで、コブの上にある農林省伯母峰中継所を過ぎ、伯母ヶ峰の三角点(1358m)に立ちました。



杉の木などに囲まれた薄暗く、無展望の山頂でした。

奈良の山あれこれ(84)~ (85)

2015-10-10 10:42:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
84)笙ノ峰 

 
笙の内ともいいます。大蛇を挟んで東ノ川の対岸、かっての河合道(今は小処温泉に下る道として知られています)が逆峠を過ぎて竜口(リュウゴ)尾根を分ける地点から、西へ約1㎞の尾根上にあるピーク。小処温泉からは笙ノ峰、逆(さかさま)峠、開拓を経て約6時間で山上駐車場へ登ります。しかし、この道は逆峠より環境省の「西大台利用調整地区」を通るので入山規制があり、近頃は安易には歩けなくなりました。入山には手数料1000円を支払って立入認定証の交付を受け、更にビジターセンターで講習を受ける必要があります。
 
2007年9月から始まる入山規制を前に、7月に慌てて未登だった笙ノ峰に登りました。大台ケ原ドライブウェイのワサビ谷降り口からは、釈迦ヶ岳から弥山、行者還岳、大普賢岳へと続くスカイラインが鮮やかに眺められ、和佐又山の手前に美しい円錐形の辻堂山が並んでいます。自然林の中を下ると次第に谷の瀬音が近づき、やがて清冽な流れのワサビ谷に降り立ちます.
 
ワサビ谷について「世界の名山・大台ヶ原山」にこんな面白い話が載っています。『山葵谷の渓流、天生の山葵青々たり、人の知る如く山葵は蟹の嗜むところ、故にこれを栽るもの皆蟹害を嘆ぜざるはなきに、奇しむべし大台の地、一の蟹類を見ず、これはた水質寒冽、其棲息繁殖を許さざるによるか…、』谷沿いにいくと西大台周遊路の七ツ池との分岐があります。地形図の点線路は尾根筋で逆峠(サカサマトウゲ/1411mピーク)に続いていますが、周遊路はここから尾根東側の平坦地を行きます。



開拓分岐を過ぎて小処温泉へ続く道に入り、木の階段を登ると西大台展望台にでます。



正面に大蛇クラが、中ノ滝はここからは左下方に見えます。引き返して、広い尾根のコブを越えたところに逆峠の標識がありました。地形図の逆峠の位置よりは、東へ約200m離れた尾根左下の地点になります。
 
ときどき東ノ川対岸に聳える大蛇の姿を見ながら山腹の谷沿いに捲き道を行くと、竜口(リュウゴウ)尾根への分岐で、ここまで南下してきた道はほぼ直角に曲がって西に向います。



クラガリ股谷の源流を過ぎ、稜線から60~70m下をほぼ等高線沿いに進み、疎らな笹原の急坂を登って笙ノ峰山頂(1317m)に立ちました。



三角点付近は美しい林の中ですが、南側へ10mほど下った切り立った崖の上から、南から西にかけて視界が開けます。南には、すぐ近く山腹に林道の通る又剣山、その右肩に荒谷山、更に右には遠く那智の山々が並んでいます。西には、笠捨山から地蔵岳、釈迦ヶ岳、八経ヶ岳、弥山とつづく大峰山脈が一望できました。
 
 
奈良の山あれこれ(85) 西大台周回 「苔むした岩と倒木の秘境」
 
*入山規制区域です。入山には環境省地方環境事務所のHPをご覧ください。* 
 
台高山脈の主峰・大台ヶ原山のうち、三津河落山と経ヶ峰間の尾根南側に拡がる台地をいいます。日本一の多雨地帯だけに、苔むした原生林などの美しい大自然が残っています。



駐車場の北端から大台教会「たたら亭」の前を下ります。林を抜けるとナゴヤ谷の明るい河原に降り立ち、沢を渡ると松浦武四郎の碑への分岐があります。



松浦武四郎は幕末から明治にかけての蝦夷地(北海道)探査で名高い人で、晩年は大台の開拓に尽力されました。碑は御霊丘と呼ばれる小高い丘の森に立っています。 



大正12年大台教会発行の「世界乃名山・大臺ヶ原山」に以下の記事がありました。少し長くなりますが、現在碑文は判読できないほど古くなっていますので、引用しておきます。

〇御霊岡  大台教堂を距る五町可り、渓流を隔てし彼方の丘岡を云う。松浦翁を始め、大台ケ原開拓に旧縁あり、功労ありし人々の神霊を齊き奉る、境域数十頃、幽邊閑寂にして山気膚を刺す、昇り盡せば直ちに伊勢国なる御料林に連接す、松浦翁の碑は通路より約半町の処にあり、文は明治初年の碩儒南摩羽峯先生の撰、書は一河三兼翁の筆にして松浦翁の閲歴と共に三美を以て称せらる、台原名跡の一なりしが、惜ひ哉前年烈風の為め倒され、上半部を砕き去られしこそ恨みなれ、其全文左の如し

大臺山、跨和紀勢三国、其巓夷漿、而有水利、拓之可穫三萬石、北海翁欲拓之
年過耳順、面登五次、大有所経書焉、既而羅病不果、遺言曰、我死則葬此山、
及歿嗣子一雄、将従遺言、而官不許、因建追悼碑、於山中名古屋谷、以表其繾錈之意、
謁余乞文、余乃併記翁平生曰、翁夙有志拓蝦夷、屢往相其地理、風土、人情、物産、
著職夷沿海圖二十餘員、三航蝦夷日誌三十六巻  
既而幕布、置箱舘奉行柘之、明治維新、置開拓使、櫂翁任判官、叙従五位、改蝦夷稱北海道、
定國郡地名、以致今日之盛、蓋翁之力居多焉、翁乃造大鏡五、背刻日本地圖、殊詳北海道、
納之西京北野社、東京東照宮、大阪天満宮、大宰府菅公廟、吉野大峰山、以傳不朽  
翁好遊、足跡遍四陲、其至深山窮谷、無人之境也、毎負三小鍋、自炊而起臥林中、
後座之近江、稱鍋塚、常遍訪菅公遺跡、皆建石表之、又献所蓄古錢数百文 於朝廷、朝廷賞賜千金
翁爲人、志大識遠、而氣鋭、克勤克儉、而勇於義、臨事不惜千金、宣其爲非常之事也、
鳴呼國家政教日新、開拓之業月進、意必不出敷十年、大臺山荊棘、變爲禾恭豊饒之地、其猶北海道、
於是乎、翁泉下之喜可知也、翁諱弘、稱多氣志郎、北海其號松浦氏、伊勢小野江村人、壽七十一  明治二十二年九月



ゴヤ谷左岸を少し遡って再び河原に降り、小さな尾根へ登ると山腹を捲く水平道になり、涸沢を幾つか渡ります。すぐ頭の上にドライブウェイが近づきますが、道はここから西に向かい、再び静まりかえった原生林の中に入ります。



窪地に雨水がたまっただけの湿地帯の七ツ池を過ぎ、苔むした岩がゴロゴロしている沢に沿っていきます。この辺り、しっとりと水分を含んだ苔もササも活きいきとして、西大台らしい雰囲気が横溢しています。



カツラ谷を渡ると山間の小平地「開拓」に来ます。



ブリキの説明板には『明治の頃この地、高野谷で開拓し、そば、ひえ、大根、馬鈴薯を播種したが、大根、馬鈴薯のみ生育し、他は結実せず廃す。そのため、現在地名として残って居る。又、高野谷は弘法大師が大台に寺院を草創せんとしたが、深山のため、現在の高野山に変更したと伝えられている』と地名のいわれが記されていました。(2001年の山日記。2007年にはブリキの説明板が半分に壊れていました)



「世界の名山・大台ヶ原」によると、この開拓事業を始めたのは京都興正寺で、明治3年のことといいます。高野谷を渡り、次のワサビ谷を越すとT字路の開拓分岐です。直進すると前項の西大台展望台への道で、広い河原を流れるのが「サカサマ川」です。『此わたり西北より来たりて東南に流るる一水あり、逆川と云ふ、凡そ大台全山の渓流、皆源を東に発して西に流る、独り此の川、西より来たりて東に流るるが如くなるを以て此名あり。(世界の名山・大台ヶ原山)』 



開拓分岐で左に折れ、吊橋を二つ渡ります。小岩がゴロゴロする急な登り道の傾斜が緩むと、大岩の下からこんこんと清水が湧き出ている「弁慶の力水」にきます。



(2000年には「たたら力水」の標識がありましたが、2007年にはこの名前に変わっています)木の橋を渡り、笹原の中の急登で大台教会の横に帰りました。

奈良の山あれこれ(81)~(83)

2015-09-25 16:41:32 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
81)日出ヶ岳(ひでがたけ) 別称 秀ヶ岳 「日の出を見るのにふさわしい山」



大台ケ原周辺は年間雨量500ミリを超える日本有数の豪雨地帯で、そのためトウヒ、ブナなどの鬱蒼とした原生林に緑のササやコケが生育して、美しい自然風景を醸し出しています。春のシャクナゲ、秋の紅葉、黄葉の素晴らしさでもよく知られています。「世界の名山・大臺ヶ原山」(大正12年大台教会発行)によると、山上に広大は高原をもつことから、昔は大平原(おおたいらはら)と呼ばれていたのが、いつしか大台と書かれるようになったようです。また大和、伊勢、紀伊の三国に跨ることから三国山と、また眺望の素晴らしいことから国見山とも呼ばれていました。



台ヶ原山は巴岳や三津河落山など周辺の山々の総称ですが、その最高点が日出ヶ岳(1695m)です。熊野灘に臨み、日の出を見るのに相応しい山としての名を持ち、山頂からは大峰山脈の主要な山々を一望、冬季の晴れた日には富士山や御岳も見ることができます。

っては筏場道、尾鷲道(現在は廃道に近い)が大台ケ原への登路でしたが、今はドライブウェイ終点の山上駐車場からスタートするのが普通になっています。上北山村物産販売所とビジターセンターの間の道を入ると心・湯治館(宿泊施設元大台荘)を過ぎて、すぐ右に尾鷲の辻に通じる中道、その先で苔鑑賞路が別れます。しばらく林の中の平坦な道を行き、いくつか流れを渡ると整備された登り道になって稜線の鞍部、熊野灘の見える展望三叉路の展望台に出ます。



右は東大台周回路ですが、左へ急な木の階段を登ると三角点があり、横に休憩所を兼ねたコンクリート製の展望台がある山頂です。





駐車場から40分ほどで、屋上に登れば360度の大展望が待っています。


82)大杉谷
 
「関西の黒部」
  大小の瀑布と深い淵を連ねた9キロにわたる美しい渓谷、冠松次郎が「関西の黒部」と絶賛した大杉谷。本来は三重県側から入山して途中、桃の木山荘で一泊して日出ヶ岳を目指すのが本来のルートでしょうが、ここでは、日出ヶ岳から東に派生する尾根を下った時の様子をご紹介します。

*現在、通行は可能ですが、入山期間が4月24日~1123日(2015)と定められ、台風などの影響で危険な場所もあるので、十分な注意が必要です。また例年、ダム湖の水位によっては連絡船が運行されないなど、交通の便が非常に悪いので、必ず最新の情報をご確認ください。* 



日出ヶ岳山
頂を下るとミネコシという小ピークを越えてシャクナゲ平にでます。ここからシャクナゲ坂の下りは、花の時期には顔が染まるほどの見事さです。堂倉避難小屋を過ぎて、最後は少し石段を下ると大台林道にであいます。



さらに尾根道を下ると大杉谷で最初の、落差20mの堂倉滝に出会います。吊橋を渡り、対岸に見える与八郎滝、姿を見せぬ隠滝を通り、次の吊り橋で光滝の上に出ます。



坂を下って光滝を見て、水際の岩の道をいくと七ツ釜吊橋です。



ここから滝見小屋までの下りは悪場の連続です。



ツ釜滝は「日本の滝百選」に選ばれた、大杉谷で一番の見どころです。名の通り七つの滝がかかっていますが、見えるのはそのうち三つです。しばらく岩壁の道を下ると桃の木山荘が建っています。



翌日は山荘の前にかかる吊り橋を渡り、不動滝のかかる不動谷出合を過ぎて嘉茂助吊橋に来ます。ここから平等クラを仰ぎ、長い平等クラ吊橋を渡ると、



次に出会うのはニコ二コ滝。



その先の猪(しし)ヶ渕では河原に降りて、水面に周囲の岸壁や緑を写す美しい眺めで一休みできます。



さらにアップダウンの連続で、大杉谷最大の135mの落差を持つ千尋滝を仰ぎます。



京良谷出合で再び河原に降りた後は、更にいくつかの吊り橋を渡します。



最後は大日の岸壁をくり抜いた、下を見ると恐ろしいほどの道を通って宮川発電所の立つダム湖登山口、500mほど歩くと乗船場です。ダム湖を船で渡れば30分ほどですが、ある年、船に乗れず、くねくねと湖岸を巡る道を歩いたことがあります。大杉バス停まで2時間近くかかりました。



83)大蛇クラ
「絶壁の上の素晴らしい展望」
 


日出ヶ岳から正木ヶ原、牛石ヶ原、大蛇クラを経てシオカラ谷吊橋から駐車場へ回るコースが「東大台周回路」です。



休憩を含まない所要時間は約3時間半ほど。大蛇クラはその中の名勝の一つですが、日本山岳会編「新日本山岳誌」で大台ケ原山と並んで一項を立てているのに倣いました。 



日出ヶ岳から展望三叉路に下ると、行く手には木の階段道が続いています。



この階段は鹿による食害と登山道保護のために設置されたのですが、最初は人工的な空中回廊の出現に「二度とくるか」と憤りさえ感じました。しかし、年月の経過とともに周りの景観とも少し溶け込んできました。



シロヤシオの花を見ながら階段を登り切ると正木辻で、ここから正木ヶ原にかけては、立ち枯れたトウヒの白骨林が特異な景観を見せています。



明るい笹原の正木ヶ原に下るとシカの遊ぶ姿も見られます。中道と合流するところが尾鷲辻で休憩所があります。



針葉樹の林を過ぎて次に開けたところが牛石ヶ原。金の鳶を乗せた弓を持つ神武天皇像が立ち、道を挟んで牛石があります。



昔、高僧が様々な妖怪を封じ込めたという伝説もありますが、「世界乃名山・大薹ヶ原山」では『伝説して神武天皇御小憩の跡なりと云ふ、巨石あり、形臥牛に似たりこれ地名の出る所似なり』と、

「和州吉野郡群山記」では『…牛の形のごとし、ただ一石至って大なり。色黒し。』と記されていて、どちらにも怪物の話は載せられていません。



石畳の道を行くとシオカラ谷へ下る道を分岐して、直進すると少し下りになり大蛇クラの岩頭に立ちます。大蛇クラの名の由来については「和州吉野郡群山記」に『この処、大蛇を封じ籠めし所と云ふ』とあります。ここからの眺めは素晴らしく、正面には西大台の竜口尾根の起伏の上に大峰山脈、約800m下に東ノ川の流れ、右手には蒸篭クラ、千石クラの大絶壁の奥に西ノ滝、中ノの滝が白布をかけています。




大パノラマに満足して分岐に帰り、シャクナゲ林の急坂を下り終えるとシオカラ谷の清流に出ます。吊橋を渡ると整備された急坂の道を、途中で少し平坦な道を挟んで駐車場へ登り返します。

<付録>大蛇クラの伝説 大台ヶ原山は尾鷲辻の名が残るように、古くから紀州からの海産物などを「熊野物」として大和に運ぶ通商路があるなど、廃道になった今と違って、尾鷲湾周辺の村々と行き来の盛んなところでした。

昔、紀州船津村の猟師、六兵衛は大蛇クラ近くに小屋を作り、網すきに使う「スクリ」の木を集めていました。ある夜、焚火の横でスクリの皮を剥いていると、四十歳くらいの女が立っていて「ご飯をくれ」といいます。お櫃の麦飯を空にした女は次に「酒をくれ」といって、六兵衛の五升樽を飲みだしました。

 そこへ、同年配の女が現れて無言でにらみ合い、先の女に目で合図して表へ消えました。すると天地が揺れ動くようなもの凄い音がして、六兵衛は気を失って倒れてしまいました。
 気が付くと、あとから来た女が白髪白鬚の老人と並んで立ち「われは大台ヶ原の山の神、先の女は大蛇の化身じゃ。お前を助けてやろうと思ったが、化け物の力が強いのでこの人の力を借りて追い払った。」と言って二人の姿が消えました。大台の神に協力した老人は弥山大神だったとういうことです。 

伝説の山の花

2015-09-07 15:46:16 | 四方山話

1 クロユリ(1)



戦国の世、信長の信任を経て五十四万石の富山城主となった佐々成政は、本能寺の変後、秀吉と対立して、雪のザラ峠を越えて浜松の家康に援軍を求めます。しかし色よい返事は得られず、再びアルプスを越えて帰城した彼は家臣が不愉快な話を聞かされます。
 それは寵姫の小百合姫と中小姓・熊四郎が彼の留守中に不倫したということでした。激怒した成政は「身に覚えがない」という小百合姫の言葉を信じず、姫は一族とともに神通寺川畔の榎に逆さ吊りにして斬り殺されます。
 断末魔の姫は「立山にクロユリが咲けば、必ず佐々家を滅亡させる」と恨んで亡くなります。クロユリはこんな不気味な伝説の花です。 

2 クロユリ(2) 



秀吉の大軍に富山城を囲まれた佐々成政は、頭を丸め墨染めの衣を着て和を乞い、許されて二年後には肥後一国を与えられます。彼は秀吉のご機嫌伺いにと、正妻・北政所に加賀白山のクロユリを取り寄せて贈りました。
 北政所は日頃の意趣晴らしに、淀君に「この天下の珍花を見せて、鼻を明かしてやろう」と茶会を催します。ところが淀君は活けられた花を見て「これは珍しい。滅多に見られぬ白山の黒百合」と言ったので、北政所の怒りは「二股をかけた?成政」に向けられます。
 しかし、真相は淀君が困らぬように、師匠の千利休が娘を通じて、あらかじめ教えておいたということです。 

3 ミズバショウ、クガイソウ、ヤナギラン



有峰の近く亀谷(かめがい)には天正年間、銀山が発見され、最盛期の慶長から元和年間には数千軒が密集し、数千人の遊女が工夫を慰めていました。そんな或る日、山師の大山左平次らの宴席に見知らぬ三人の美女が現れ、工夫がいつものように戯れようとすると姿を消してしまいました。
 その後、鉱山は廃れ、その跡に今まで見なかった美しい三つの花、ミズバショウ、クガイソウ、ヤナギランが咲きだしたと伝えられています。

4 ヤマアジサイ



雪倉岳の麓・小谷村に手巻という美しい娘が母と住んでいました。ある日、母の薬を貰いに行ったまま帰らず、村では総出で探したが見つからず、峠近くの川縁に彼女の櫛が落ちていただけでした。
   村人は「送りオオカミに喰われた」と噂しました。何年か後、櫛の落ちていた辺りに美しいヤマアジサイの花が咲き、娘の命日に散っていきました。その後、オオカミは姿を見せなくなりました。

5 シラネアオイ



五竜岳の麓、四ヶ庄村の猟師、茂一には自慢の娘「ゆき」と老練な愛犬「アカ」がいました。ある雪の日、カモシカ猟に出たアカは漁場に行く途中、雪崩に会い死んでしまいます。
 それを聞いて探しに行った「ゆき」も同じ場所で雪崩に会い亡くなります。やがて雪が解けて娘と犬の遺体が見つかり、その後には美しいシラネアオイが咲きました。

6 トリカブト 



北海道にモリというアイヌがありました。湖を隔てた隣村との争いが絶えず、村長は相談の末、智勇優れた若者を使者に送ることにしました。
 ところがこの壮挙を喜ばないのが若者の恋人、村長の娘でした。船出の時、半狂乱になった娘を血涙を払って村長が切り捨てると、真っ赤な血潮が辺りの飛び散りました。その後に生えたのがトリカブトでした。

7 コマクサ(1)



昔、木曽の御嶽を登る行者が激しい腹痛に襲われました。一心に般若経を唱えていると一羽の雷鳥が現れ、導かれて田の浦(今の田の原?)に来ると雷鳥は樹に止まり羽根を休めました。行者が足元を見るとそこには世にも美しい花がさいていました。
 
行者が試みにそれを噛むと気分が爽快になり、あれほど苦しんだ腹痛も嘘のように収まっていました。それ以来、このコマクサとキハダの皮から出来た「お百草」は霊薬として有名になりました。

8 コマクサ(2)



浅間山の麓、小諸に「お駒」という母と「お市」という娘が住んでいました。ある日、お市は病を得て、八方手を尽くしても治りません。お駒は知人に勧められて木曽の御嶽に登り、御嶽神社に娘の治癒を一心に祈願したところ「頂上に咲く美しい桃色の花の汁を飲まよ」という神のお告げがありました。
 娘は快癒し、誰云うともなくこの花は「お駒草」という名になりました。

9 リンドウ 



ある冬の日、役小角(役行者)が日光の奥山を歩いていると、一匹のウサギが雪の中からせっせと草の根を掘り出していました。行者が聞くと兎は「主人が病気なので薬草を取りにきた」と答えて草の根を咥えて跳んで行きました。
 小角が持ち帰り、煎じてみると薬効があることが分かり、健胃、強壮剤として今に伝えられています。
  このウサギは二荒神の化身だったといわれています。

10  オトギリソウ 



平安の昔、晴頼(せいらい)という鷹飼いがいました。タカが傷つくと何処からか薬草を取ってきて、その汁で傷を治していました。決して他人には教えなかったその草を、弟が私すべきではないと草の名を他言してしまいました。(他の鷹飼いが弟を女で誘惑したという説もあります)。
 激怒した兄が弟を斬り殺したことから、この名が付いたと「和漢三才図会」に名の由縁が載っています。

*信濃路社「北アルプス夜話」他を参考にしました。写真は画像加工.comで処理しています* .


奈良の山あれこれ(70)~(75)

2015-08-31 16:18:38 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 (71) 薊 岳(あざみたけ) 「山腹のアザミが山名の由来」



台高山脈北部の国見山から西に派生した尾根上にあり、昔は山腹にアザミが密生していたのでこの名があるといいます。頂上は小さな双耳峰になっていて、最高点の雄岳と西側のやや低い雌岳の間は、痩せた岩尾根で結ばれています。山頂付近ではシャクナゲがたくさん見られます。 



岩稜とシャクナゲの間に登山路が通る狭い山頂(1406m)は素晴らしい展望所です。南に木ノ実ヤ塚の円頂に続く二階岳。北に伊勢辻山、その右の赤ゾレ山との間に高見山、その奥に曽爾の山々。伊勢辻山から国見山、水無山に続く稜線、明神岳からの尾根が池木屋山を過ぎて低くなると、その上に七ツ釜高から日出ヶ岳、経ヶ岳へと続く大台ヶ原が浮かんでいます。経ヶ岳の下に見える二階岳がちょうど南になります。



南西には釈迦ヶ岳、仏生ヶ岳、特異な山容の大普賢岳から山上ヶ岳、大天井岳と大峰の山々。さらに右、西から北西にかけては岩湧山、金剛山、葛城山、生駒山まで望むことができます。

大又からの途中にある大鏡池(だいきょういけ)は、今は水量が少なく湿地のようになっていますが、竜神を祭る祠がある雨乞いの池で、夕日長者(金扇で沈む夕日を呼び戻そうとする)や美しい天女、天狗までが登場する賑やかな伝説が残っています。

1997年に明神平から(1時間15分)、2004年には大又から(3時間)、2005年に木ノ実ヤ塚経由(麦谷林道登山口から1時間30分)で登りました。 


72)雲ヶ瀬山 「鳥の渡りの見られる山」

 
(大峠から雲ヶ瀬山:左端に頭だけ見える)

伊勢辻山から高見山に続く稜線を緩く下り気味に行く途中で、高見山が近くなる頃に出会う小高いピークです。伊勢辻山経由の道は大又から叉迫谷を遡り、和佐羅滝を見送って急坂を登って稜線に出ます。伊勢辻から伊勢辻山までは僅かの距離で往復できます。伊勢辻を北へハンシ山を越えて、南タワから登り返すと雲ヶ瀬山
(1075m)です。

私たちは2004年の秋、高見山へ登る前に大峠から往復しました。トイレや四阿のある大峠の広場の南端からは紅梅矢塚が正面に見え、雲ヶ瀬山はちょっぴり頭だけを見せています。ヒノキとスギ林の山腹の捲き道は、途中で急斜面のトラバースになり一箇所では虎ロープが張ってありました。
 



広い尾根にでた処で陣ヶ平の標識があり、伐採跡の苔むした切り株にスギヒラタケがびっしり付いていました。源流部らしい谷を挟んで左右に道が分かれ、左は通行止になっていました。



谷と分かれ、広い尾根を緩く登った
1021mピークには周囲を石で囲んだ立派な標高点がありました。
いったん下った雑木林の広い鞍部から暗いスギ林の登りとなり、やがて雑木林に変わって次第に明るくなる中を少し登ると雲ヶ瀬山(1075m)でした。



山頂は樹木に囲まれて展望はまったくありませんでした。
少し南に行くと左手が開け、三峰山とその右肩に局ヶ岳の鋭峰、右には迷岳などが見える開けた処に出ました。



ここはサシバなどの「渡り」が見られる展望所らしく、やや古びた説明板が三枚ありました。梢越しにちらちら高見山を見ながら、もとの道を大峠に帰りました。往復
1時間あまりの適度な足慣らしでした。


 73)木ノ実ヤ塚(きのみやつか)「円頂形の穏やかな山容」



東吉野村にある薊岳から南に延びる尾根上のピークです。由来は知りませんが、珍しい、印象的な山名です。「塚」がつく山は、この近辺で他にも「檜塚」「コウベエ矢塚(紅梅塚)」がありますが、いずれも円頂型の穏やかな山容を見せています。この山も、山腹はブナやミズナラなどの自然林に覆われ、秋には美しい黄葉がみられます。



2004
年秋、麦谷川沿いに伸びる林道麦谷線を車を利して登りました。林道が稜線にでたところが登山口で、すでに標高は1100m。二階岳(1242m)を経て1時間ほどで頂上に着きました。



 1374m
三等三角点のある山頂は樹林に囲まれ展望はありませんが、広くて明るい感じです。時間があるので薊岳へピストン(80分)して展望を楽しみました。山頂から薊岳へは、急坂を水溜まりのような池がある鞍部に降り、しばらく岩混じりの暗い痩せ尾根を登ります。尾根が広くなると、ブナ、ヒメシャラ、オオイタヤメイゲツなどの林の中、気持ちの良い稜線歩きとなります。



右手の梢越しに明神岳から笹ヶ峰、千石山と続く稜線が見えます。薊岳のピークを見上げながら、傾斜が強まった道を岩角や木の根を掴んで登るようになると、間もなく薊岳雄岳山頂の東端にでました。


 
(74)
 池木屋山(いけこややま) 「深山幽谷の趣」



奈良県吉野郡川上村と三重県松阪市にまたがり、台高山脈のほぼ中央に位置します。ブナの原生林を初め豊かな自然が残り、深山の趣が深いところです。シャクナゲやサラサドウダンも多い山です。奈良側からは、明神平から千石山、赤クラ山を経て6時間を要します。
『大和青垣の山々(1973奈良山岳会編)』には「とにかく大和の山で最も登りにくいのがこの池小屋山なのである」と記されています。(この本で「池小屋山」と表記されています)私たちは、三重県側の奥香肌峡宮ノ谷から入山しました。それでも標高差580m、休憩を含めて4時間の登高を強いられました。



山頂は笹原とブナの疎林に囲まれていますが、大熊谷の頭、迷岳、白倉山、古ヶ丸山などが展望されました。近くの木立の中に小さな木屋池がある。山の名はこの池から来ているとも、池の畔に小屋があったからとも聞きましたが定かではありません。



宮ノ谷は奇岩や飛瀑の連なる美しい渓谷です。高滝までは遊歩道が設けられ、犬跳び、鷲岩、六曲屏風岩などの奇岩や蛇滝を見ながら行きます。



高滝は落差50mの堂々たる大滝で、ここから猫滝を過ぎるまで、岩角や灌木などを手掛かりに登る危険地帯です(ロープが付けられていました)。



河原を何度か渡り返して「奥の出合」で谷を離れ、ようやく中尾根の本格的な登りになって山頂(1396m)に立ちます。
奈良側からは川上村入之波(しおのは)から北股川を遡行するルートがあると聞いています。


75)白鬚岳(しらひげたけ)「今西錦司先生1500山目の山」

別称を朝倉山といい、吉野郡川上村のほぼ中央、池木屋山北西の赤倉山から南西に延びる稜線上にあります。山頂に白髭大明神の祠があったことで山の名がつきました。



西側の神之谷から峠を越した東谷出合(
530m)まで車で入りました。谷沿いに三度ほど沢を渡り返し、谷を離れるとジグザグの登りから植林帯の急登となって稜線に出ます。



ここは神の谷コースの分岐点になっています。尾根通しに登っていくとコル状になって右手が開け、真下に不動窟の赤い屋根と幟が見えました。その先の檜林の中で、突然、激しい物音がして大型の鳥が羽ばたきの音高く飛び立って斜面沿いに滑空して行きました。



露岩混じりの痩せ尾根を行くと、植林の切り開きから薊岳から明神岳、桧塚、迷岳へと続く稜線が一望されるようになり、行く手には鋭い頂を天に突き上げた白髭岳が見えました。緩く登って低い笹原の中の明るい小台地、小白髭に着きました。北側の集落ではここを白髭岳とか粉尾(そぎお)峠と呼び、白髭岳(
1378m峰)はアサクラ山と呼ぶそうです。



白髭岳までは小うるさいほど痩せ尾根のアップダウンがあり、目立つピークだけでも4つを越していきます。最後の急登で山頂に立ちました。山名の由来になった白髭大明神の祠は今はなく、三角点の前に「今西錦司先生
1500山目の山」の小さい石柱が立っています。側面には「一山一峯に偏らず。一覚一私に偏らず。錦司」と記されていました。



展望は南側が日出ヶ岳から三津河落山と続く大台ヶ原、その右(南西)に孔雀岳から弥山、大普賢、山上ヶ岳へと続く大峰の山々。その右に丸い小白髭のピークが低く見えます。山頂から東へ少し下ると、露岩が散在し、迷岳、赤クラ山、池木屋山など東から南にかけての展望が大きく開けました。登りはじめてから休憩を含め
3時間半近くかかりました。

この日、帰りに白屋岳の登山口を探しにいきました。白屋地区の小母さんに、どこの帰りかと聞かれて白鬚岳と答えると「その山には白い鷹がいる」と聞きました。私たちが山頂近くで見た大きな鳥は茶色でしたが、これもタカだったかも知れません。

奈良の山あれこれ (66)~(70)

2015-08-26 20:39:14 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 66)三峰山 (みうねやま)「霧氷の山」 



畝が三つ並んだように見えるので、三畝山(みうねやま、さんせやま)とも呼ばれました。高見山地の中央にあって、奈良県御杖村、三重県津市、松阪市にまたがる大きな山容を誇ります。



「霧氷の山」として人気が高く、冬は大勢のハイカーで賑わいます。一等三角点の埋まる山頂は樹木の成長でかっての大展望が失われ、僅かに北側に室生火山群が望めるだけとなりました。



南西に少し下った八丁平は、ススキやヒメザサに覆われた広々とした高原で、花期にはシロヤシオの花が咲き誇ります。迷岳、池木屋岳、国見山など台高の山々の展望が良いところです。

山麓の御杖村には伊勢本街道が通り、垂仁天皇の皇女倭姫命が、天照大御神の御杖代(神意を受ける依代)」となって巡行した時、この地に行宮を造り休憩したところという伝承があります。村名は倭姫命の玉杖を祀ったことから生まれたといわれています。「みつえ青少年旅行村」が山行の起点で、シーズンの休日には、ここまで「霧氷バス」が運行されます。



少し引き返して神末川に架かる橋を渡り、大タイ川沿いに行くと尾根道の「登り尾コース」と、落差15mの不動滝を見る「不動谷コース」に分岐します。



どちらをとっても1時間半ほどで避難小屋がある地点で合流します。小屋から三畝峠を経て約30分で山頂に着きます。別コースとして、新道峠(ワサビ峠)を経るコースがあります。(2時間40分・林道歩きが長く下山に使われることが多いようです)。


(
67)高見山  「関西のマッターホルン?槍ヶ岳?



西側、とくに国道166号線の木津(こつ)峠付近から見た姿は、まさに「天を衝く」感じです。吉野郡東吉野村と三重県松阪市の境にあり、台高山脈北端の山として南端の大台ケ原山と山脈を代表しています。



三峰山と同じく霧氷で有名な山です。



この山は古くは高角山(たかつのやま)といい、山頂の高角神社は神武天皇東征のとき道案内を勤めた八咫烏建角見命(ヤタカラスタケツノミノミコト)を祀っています。



杉平からの表登山道には、神武天皇が国見をした国見岩がある他、天狗岩、揺岩、笛吹岩など伝説の残る巨岩がいくつもあります。
高見山は『万葉集』 我妹子を いざ見の山も高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも の「いざ見の山」に比定されています。「去来見山(いざみやま)」の別名はこの歌が元になっています。



1
248mの山頂からの展望は名の通り雄大で、間近の三峰山をはじめ曽爾、大峰、台高の山々などが一望できます。



山頂南側の大峠は、伊勢街道が通る高見峠として交通や通商の要衝でした。今は峠のさらに南の山腹を国道166号線高見トンネルが通っています。また登山口の杉谷近くには「古市」跡が残り、往時をしのばせます。
一番簡単に登るには、車で166号線から大峠に登り広場に駐車すると、1時間足らずで山頂に立ちます。平野からは樹齢700年の高見杉を見て2時間半。



杉谷からは伊勢南街道を通り小峠へ。ここから急登で平野からの道と合わさるとなだらかな尾根道になり、先述の説話の説明がある岩を見ながら山頂に向かいます。冬には美しい樹氷が見られる人気の高いコースです。杉谷の登山口から2時間15分。


(68)国見山  「これで幾つめの国見?」

 
台高山脈北部にあります。北の高見山から伊勢辻山を経て縦走路がこの山の頂上を通り、さらに南の明神岳へと続いています。全国に数多い「国見山」はすべて展望がよいことで名付けられたと思いますが、この山もかっては近江から伊勢、紀州まで見渡せたということです。



近年は灌木が次第に視界を狭めていると聞きますが、2001年に伊勢辻山へ縦走した時は、越えてきた水無山の向こうに薊岳から明神岳、檜塚に続く稜線、遠くに大台ヶ原が霞んで見えました。山頂から南に縦走路を行くと、すぐウシロ嵒という絶壁上の展望台があり、明神谷を隔てて薊岳がよく見えました。

 
明神平から明神岳、水無山を経て登るのが一般的です。私たちが初めて登ったときは、最短で山頂に立てる「天高ルート」をとりました。この道は大又林道終点から明神平に登る途中、旧あしび山荘を過ぎたところでキハダサコの涸沢に入ります。右岸を行き尾根に出て急登。右にキハダサコの源流を見る痩せた岩尾根から、プナ、ヒメシャラ、コナラ、リョウプなどの雑木林に変わり、出会いから僅か1時間で頂上(1419m)に着きました。


 
(69) 伊勢辻山  「大和と伊勢との辻」

 
奈良県東吉野村と三重県松阪市の境界、国見山から高見山に続く台高主脈上にあります。伊勢辻の名は、山の北側に大和と伊勢を結ぶ道が通る峠があったことに由来します。



山頂(1290m)からは北に高見山、遠くに倶留尊、大洞など室生の山々、その右に局ヶ岳、修験業山、栗ノ木岳。東から南にかけては国見山、水無山の稜線。南方、薊岳の右に大普賢、山上ヶ岳など大峰の山々…と見飽きぬ大展望が繰り広げられます。



国見山と伊勢辻山との間には「馬駆場ノ辻」という芝のような草地があり、源義経が愛馬と別れた場所という伝説が残っています。山頂から大又に下る途中には、落差30mと聞く和佐羅滝が山肌に白布をかけています。

高見峠からは雲ヶ瀬山、ハンセ山を経て3時間。私たちは明神平から明神岳に登り、水無山、国見山と北上して伊勢辻山から大又に下りました。明神平からは約1時間45分でした。


(70)明神岳
   
「祠はなくても名前は残る」



この山の名は昔、山頂に穂高明神を祀る祠があったことによると言われています。現在も国土地理院地形図には1432mのピークに「穂高明神」と表示されていますが、祠は見当りません。



東吉野村大又から、大又川に沿った林道は魚止滝や石ヶ平谷、三度小屋谷、アベ山谷などいくつかの支谷を見送り、かなり奥まで通じています。



終点から、冬には美しい氷瀑と化す明神滝をみて、樹林帯を登ると約1時間半で明神平に着きます。



「あしび山荘」の西側から台高山脈主稜線にかけての笹原は、かっては雪質のよいスキー場として知られたところです。頭上に見える稜線に登りきったところは三ツ塚と呼ばれ、北は水無山、国見山へ、南は千石山を経て池木屋山、西は薊岳への三叉路となっています。



三ツ塚から南へ10分ほどで檜塚への支稜が分かれますが、明神岳はここ(国土地理院地形図には山名の表記はなく、前述の穂高明神と記されたところ)に位置しています。周辺は美しいブナ林で、展望は主稜線を少し南に下った笹ヶ峰(1367m)の方が優れています。
大又バス停から林道終点までは歩くと1時間15分ほどかかります。薊岳から明神岳へは1時間強。

奈良の山あれこれ(61)~(65)

2015-08-19 20:03:27 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

 61)亀 山 「お亀伝説の山」



亀山峠(倶留尊山の項参照)の南にある草原状の山です。形状がカメに似ているので名付けられたと聞いたことがありますが、定かではありません。





山頂
(849m)からは眼下に「お亀池」を抱いた曽爾高原が広がり、正面に屏風岩の岩峰や、住塚、国見、鎧、兜と続く山々の素晴らしい展望が拡がります。南には後古光山から古光山への稜線、遠く高見山の鋭鋒も望むことができます。



亀山峠はかって太郎越とも呼ばれ、太良路(太郎生への道が通る意)から三重県津市美杉町太郎生(タロウ)に通じています。



峠を南に木の階段道を下ると三重県側への車道が通る長尾峠で、さらに古光山へ稜線を縦走することができます。

瓢箪形をした「お亀池」の『お亀という美人妻の正体が池の主の大蛇だった』という伝説は有名ですが、他にも、こんな人魚伝説が残されています。『昔、馬に乗った一人の武士が池の傍を通りかかると、美しい女が「水浴びをする間、子供を預かってくれ」と頼みます。あまり長いので池を見ると、女の下半身は魚で、水中深く姿を隠してしまいました。ふと見ると抱いていた子供は石の地蔵さんでした。」

池の周囲は800mほどありますが水深は約1mと浅く、低層湿原特有の植性が見られます。池の中にこれらの植物が枯れて推積してできた浮島があります。



登路は「倶留尊山」の項をご参照ください。曽爾高原入口ある有料駐車場からは約30分です。


62)古光山 (こごやま) 「天狗の住む山」



倶留尊山、亀山から南に続く稜線に石英岩質の五つの峰が、奈良県宇陀郡曽爾村と御杖村にまたがって、鋸の歯を連ねたようなアルペン的な風貌を見せています。

ここには天狗が住んでいたという伝説が残っています。昔、この山へ草刈りに行った人が、天狗の太鼓を叩く音を聞いて怖くて逃げ帰ったといいます。その場所には「天狗の踊り場」という名が付いています。

古光山は「ぬるべ山」とも呼ばれました。「ぬるべ」は「漆部」で、古代「漆部造(ぬりべのみやつこ)」が置かれたことから、曽爾は「漆部の郷」といいます。山麓の塩井には『漆部の造磨の妾は仙女であった(日本霊異記)』という伝説が残っています。



曽爾高原駐車場から杉植林の中を緩やかに登って、古光山登山口の長尾峠にでます。



林の中に延々と続く木の階段道を登ると、なだらかな尾根道となり展望が開け、行く手には後古光山(左)と古光山の頂きが並んで見えます。



再び林の中の急坂を登り切ると後古光山(
892m)の狭い山頂に立ちます。



背後に亀山から二本ボソに続く稜線、尼ヶ岳、大洞山、三峰山、局ヶ岳と遮るものない大展望です。



岩や木の間に太いロープが張ってある急斜面をフカタワと呼ばれる後古光山と古光山の鞍部に下ります。



左の後古光山(
892m)と古光山に挟まれているので、昔は「はさみ岳峠」と呼ばれたそうです。曽爾と御杖を結ぶ道の通る明るい峠です。峠から更にロープを頼りに急坂を登ると古光山山頂。



樹木に囲まれた狭い広場に三角点(
953m)が埋まり、わずかに木の間から倶留尊山が見えます。展望は、さらに南に厳しいアップダウンを繰り返した南峰の方が優れています。



四峰と南峰(五峰)の間は短いが鋭い岩尾根を通過します。



五峰からの展望は南東に三峰山のどっしりした山容、高見山。その右手遠くに大峰の山々が青く霞んでいます。東に住塚、国見山。その右の鎧、兜は、ここからだとあの怪異な姿に見えず平凡な形です。滑り落ちそうな急坂を下り、しばらく笹原の尾根道で傾斜は緩みますが、再び足首が痛くなるような急下り。



ようやく「ふきあげ斎場」の納骨堂裏に出て、やがて大峠の登山口に降り立ちました。


63)学納堂山 (がくのどうやま) 「大和最東端の山」



 三峰山(みうねやま)から北に延びる支稜上にあり、楽能堂とも岳の洞とも書かれる二等三角点(1022m)の山です。



ドーム型の山頂部はススキや笹で覆われて樹木が少なく、胸のすくような素晴らしい展望が開けます。



北に倶留尊山と大洞山、尼ヶ岳、古光山。南には伊勢の局ヶ岳と高見山を東西に従えた三峰山が大きく見えます。

学能堂の名は、かって山頂に文殊菩薩を祭る祠があったことからといい、学芸上達を祈願する人たちの思いを偲ばせます。「御杖村史」には、昔、能楽が催された山と記されています。三重県側の津市美杉町で「岳の洞」と呼ぶのは「大の洞」(大洞山)と同様でです。 昭和48年刊の「大和青垣の山々」では、「大和最東端の山」として、「山頂に至る道らしい道が開かれていない」と記されていますが、今は奈良県、三重県の両側からいくつかの登山道があります。



私たちは杉平から水谷林道を経て県境尾根を登る道や、神末から小須磨峠、白土山を経て登る道を、また
200612月には神末から小須磨山(850m)、小須磨峠を経る道を登りました。



最後はカヤトの原の中、かなりの急登でした(いずれも1時間半~
2時間)。他にも払戸、笹峠からも登る道があると聞いいています。


64)黒石山(くろいしやま) 

高見山で大きな高まりを見せた台高山脈は、さらに北へ延びて高見山北東1キロの地点で東と北に分かれます。北へ続く稜線は、天狗山(993m)、船峯山(938m)、黒石山(916m)、高山(893m)と次第に高度を下げながら差杉峠(西杉峠)に至ります。黒石山は、この高見山北方稜線上の三角点峰のひとつです。



頂上には915m三等三角点がありますが、灌木に囲まれて無展望です。わずかに木の間から高見山が望見されました。桃俣から西杉自然遊園を経て登る道があります(自然遊園から1時間半)が、踏み跡に近く藪漕ぎが必要かも知れません。私たちは天狗山経由で登りました。

65)天狗山 「天狗様の好きな山」 



黒石山と並ぶ高見山北方稜線上のピーク。登山口にあたる高角神社から南へ進み、急登で「小烏の尾」という尾根道に出ると、



屏風岩から鎧・兜、倶留尊山、尼ヶ岳、大洞山と曽爾火山群の展望が開けます。尾根の左側は切れ落ちた絶壁になっています。



山腹を直登して山頂(
993m)にでますが、ここも木立に囲まれ展望は期待できません。V字に折り返す形で北に向かうと、大天狗岩の下に出ます。岩屑が崩れやすい急斜面を岩稜と灌木の根や枝の間をよじ登ると、中間のテラスがあります。



足元はオーバーハング気味の絶壁で、三峰山から高見山に続く稜線がすぐ前に見えます。ここから見る高見山の北面は、見慣れた鋭鋒の姿と異なり、ゆったりした山容です。大天狗岩の頂(
933m)は灌木が茂り無展望です。

天狗山は、この岩の名前に由来すると思われますが、いかにも天狗が好みそうな岩峰です。北へ稜線をたどると約1時間で黒石山に達します。

奈良の山あれこれ(58)~(60)

2015-08-13 13:54:17 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*  

(58)兜岳(かぶとたけ)「室生火山爆発時のマグマの跡」



兜岳、鎧岳の名前は、その形を武具に見立てたものです。奈良県宇陀郡曽爾村に隣り合ってあり、青蓮寺川に面した南側に大岩壁を露わにして偉容を誇っています。鎧・兜に屏風岩を加えて「曽爾三山」と呼び、1934年、国の天然記念物に指定されています。



曽爾村横輪から赤目掛線を北へ45分で、目無し地蔵が佇んでいます。ここが登山口で深い樹林帯の中、露岩混じりの急坂を登ります。 途中に大岩が二つあり右側の展望が開けますが、頂上は雑木林の中で無展望です。頂上(920m)まで目無し地蔵から45分でした。 



兜岳、鎧岳とも、急峻な東側に反して西側は比較的緩やかで雑木に覆われています。青蓮寺川沿いには柱状節理の岩が多いのですが、これは1000万年前の室生火山の爆発によるマグマの痕跡といわれています。兜岳の西側を県道784号が走っています。かつての今井林道、更に古くは椿井越えといわれ、昔から曽爾と名張を結ぶ重要な道でした。 今井から北に登ると、何段にも分かれて兜岳の岩裾を洗う「長走りの滝」があります。名張、曽爾の市村境が赤目出合茶屋で滝川が流れています。



川沿いに西へ下ると名勝・赤目四十八滝で、大小の滝が約4㎞にわたって続き、オオサンショウウオの棲息地として知られています。また、出合茶屋を東へ進むと小笹峠を越えて青蓮寺川沿いの落合に出ます。青蓮寺川の両岸には、この辺りから北へ6㎞にわたって、柱状節理の大岩壁や奇岩が続き、香落渓と呼ばれる名勝になっています。

(59)鎧岳(よろいたけ)「戦国武将を思わせる山」



隣り合う兜岳より標高は低い(894m)のですが、やや背を傾げて屹立する姿はよく目立ち、兜岳の雌岳に対し雄岳と呼ばれました。



『大和名所図会』に「雄嶽。葛(かつら)村にあり。一名鎧嶽という」と記されています。露出した柱状節理の岩肌を鎧のくさずりに見立てた名称です。岩壁は南に面して三段からなり、この辺りに多い柱状節理の中でも屈指の大岩壁で、特に青蓮寺川沿いの岳見橋から仰ぐと、鎧をまとった偉丈夫を思わせる堂々たる姿です。兜岳と鎧岳を結ぶ道は始めての1962年(昭和37)にはヤブ漕ぎとルート探しにかなり苦労して、なんとか尾根通しに歩くことができました。



今は痩せ尾根の上にはっきりとした道が続き、右手の倶留尊山方面の展望が素晴らしく、稜線歩きを楽しめます。しかし、足元は切り立った断崖絶壁で足がすくみそうです。 



急坂を下ると峰坂峠で、この峠を北に越すと布引谷に出合います。谷を左に遡ると落差30mに近い布引滝があります。また右(北東)に下ると、県道81号の通る落合にでます。ここから1㎞弱南にある小太郎岩は、幅約700m、高さ約200mの垂直の岩壁。「小太郎落とし」の伝説が残り、かつては岩登りのゲレンデとしても有名でした。峠から再び、雑木林の中の急登になりますが、登山道の随所に立派な道標が設置されています。鎧岳の頂上は雑木が切り開かれて、曽爾高原方面の格好の展望地になっています。

 (60)倶留尊山(くろそやま)「室生火山群の主峰」



奈良三重県境に連なる室生火山群の主峰で、山の西側は奈良県宇陀郡曽爾村、東側は三重県津市になります。奈良側はなだらかな地形ですが、三重側からは荒々しい岩壁の様相を見せています。



名張駅からバスで太良路(たろうじ)または「少年自然の家」下車。1時間で曽爾高原入口に着きます。お亀池を横に見て、ススキの中に付けられた道を亀山峠に登ります。



左に折れて、開けた急坂の尾根道を二本ボソ山に登ります。





樹林帯に入ると、二本ボソから先の頂上部が私有地のため、環境整備のための協力金として入山料500円を徴収する小屋が立っています。



二本ボソ(996m)頂上東側の鰯ノ口展望台に下ると、三重県側の地形の一端を窺うことができます。



また正面に尼ヶ岳、大洞山、さらに局ヶ岳、学能堂山と見飽きることがない眺望が拡がっています。
いったん岩稜を標高差80mほど下り、鞍部から樹林帯の中を登り返します。上り下りともロープの張ってある急坂です。



高原入口から1時間15分で倶留尊山山頂(1038m)に着きます。広く開けた台地ですが、展望は二本ボソに劣ります。



倶留尊山の名は、自然信仰の名残と思われる倶留尊石仏から来ています。荒井魏 『日本三百名山』によれば『柱状節理の大障壁、すなわち賢却千仏の「拘留孫」に由来する』とあります。ちなみに拘留孫(倶留孫仏)は過去七仏と言われる、釈迦牟尼仏以前に現れた仏様の一人です。石仏は山の北西、伊賀見にある15mの大岩に彫られています。

奈良の山あれこれ(55)~ (57)

2015-08-09 08:55:42 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。* 

「奈良の山あれこれ」シリーズも、前回で大和平野、生駒・金剛、宇陀高原エリアの山を巡り終えて65回を数えました。これまで一つの山で複数回をUPしたものもありましたが、この際、一山を一つのナンバーとして整理しました。今回の「室生火山群エリア」から新しいナンバーで(55)に帰ります。ご参考までにこれまでの山名とナンバーを記します。

<大和平野エリア> (01)春日山、御蓋山 (02)若草山 (03)春日山 (04)芳山 (05)高円山 (06)一体山 (07)矢田山
(08)松尾山 (09)神野山 (10)城山 (11)高峰山 (12)国見山 (13)大国見 (14)竜王山 (15)白山 (16)巻向山 
(17)初瀬山 (18)三輪山 (19)天神山 (20)外鎌山 <大和三山 (21)耳成山 (22)畝傍山 (23)天香具山> (24)高取山
(25)高取山 <音羽三山 (26)音羽山 (27)経ヶ塚山 (28)熊ヶ岳> (29)竜門ヶ岳
生駒金剛エリア (30)生駒山 (31)大原山 (32)高安山 (33)信貴山 (34)明神山 (35)屯鶴峰 (36)二上山 (37)岩橋山
(38)葛城山 (39)金剛山
宇陀高原エリア (40)烏塒屋山 (41)野々神山 (42)都介野岳 (43)貝ヶ平山 (44)鳥見山 (45)額井岳 (46)戒場山 
(47)城山 (48)伊奈佐山 (49)日張山 (50)大平山 (51)三郎ヶ岳 (52)高城山 (53)袴ヶ岳 (54)室生山
 
 
室生火山群エリア  (55) 屏風岩 「柱状節理の大岩壁」
 

香落渓で知られる曽爾村は奈良県の東北端にあり、西に住塚山、国見山、北に鎧・兜岳、北東に倶留尊山、東に古光山と周囲を山に囲まれ、古くは「塗部(ぬるべ)の里」と呼ばれた処です。屏風岩は住塚山から東に続く稜線の一部で、断層活動で南側が石英安山岩の柱状節理を示し、約200mの高さの断崖となって約1.5キロにわたって続いています。1934 年に国の天然記念物に指定されました。周辺は屏風岩公苑として整備され、桜の名所でもあり花の時期は賑わいます。その後はミツバツツジが岩肌を彩り、秋の紅葉も素晴らしいところです。



 
1990年頃には公苑まで車で入れるようになりましたが、屏風岩の稜線はブッシュがひどく、とても歩けませんでした。2005年秋、屏風岩公苑に車を置いて住塚山、国見山、松ノ山、クマタワ、林道川根線をへて若宮峠へ。クマザサの中をひと登りで屏風岩の上を通る道に出ました。地図には出ていませんが、笹が切り開かれていて歩き易くなっています。しかし、美しく紅葉した樹木が途切れて剥き出しの絶壁の上に出ると、目が眩むような高度感でした。

 
小さなアップダウンのあと「屏風岩一ノ峰92656m」の小さな標識がついたピークをすぎると、三角点はその少し先で尾根が右に折れる見晴らしがよい場所にありました。
 
(56) 住塚山  「昔の名は屏風嶽」
 


奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境界にあり、室生火山帯に属しています。『大和名所図会』では屏風嶽として、「今井村にあり。山形峭壁し林木叢茂す。屏風の如し。因って名とす」と記されています。



曽爾村長野から徒歩約1時間で屏風岩公苑。山頂へは公苑を横切るように屏風岩の裾を西に辿り、ヒノキ林の中を急登して尾根に出て、「一ノ峰」コルから頂上に至ります。公苑から山頂まで約45分です。



山頂からは国見山、鎧岳、兜岳、
 


倶留尊山、古光山などの曽爾の山々を初め、高見山、三峰山などが遠望できます。住塚山は、ゼニヤタワと呼ばれる鞍部を挟んで北にある国見山とあわせて登られることが多く、私たちも殆どの場合、それに倣っています。住塚山山頂から北へ向かう稜線は、ゼニヤタワと呼ぶ鞍部に下ります。登り返せば露岩もある痩せた尾根になり、国見山へ。ゼニヤタワから左の谷を下れば、室生と曽爾を結ぶ東海自然歩道に出ます(山頂から45分)。ここから室生寺へは約1時間30分です。

(57)国見山 「時の権力者が国見した山」



奈良県宇陀市室生区と宇陀郡曽爾村の境にある標高1419mの山。全国に散在するこの名前の山は、為政者がその山に登って、自分の支配する範囲を見渡したことから付いたものと思われます。



『日本書紀』神武記に「天皇、彼の莵田の高倉山の巓(いただき)に登りて、域(くに)の中を瞻望(おせ)りたまふ。ときに国見岳の上に則ち八十梟師(やそたける)有り。……」とあることから、『大和志料』では国見岳をこの山に比定しています。しかし現在では前後の記述から無理があり、別の山と考えられています。



『大和名所図会』では「国見嶽。伊賀見村にあり。勢・伊の二州に跨(またが)る。山勢高く聳えて巉々(ざんざん)(高く嶮しい)たり」と記されています。住塚山からゼニヤタワへ下り、登り返すと45分で国見山頂です。



確かに国見の名にふさわしく頂上からの展望は雄大で、倶留尊山、古光山など曽爾の山々を初め、台高、大峰、吉野の山々なども遠望することが出来ます。山頂から稜線を北へ進むと、松ノ山のピークを越えて東海自然歩道の通るクマタワに下ります。左を取れば室生、右は曽爾へ通じています。曽爾への途中にある済浄坊渓谷は、隠れた名勝地です。