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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ <余録~山女のお話>

2016-03-21 11:10:12 | 四方山話

紀州藩士畔田翠山(くろだすいざん)は19世紀中頃の文政から弘化年間にかけての幕末期に、20数年間にわたって大和国吉野郡を踏査して、見聞した自然、民俗などを写生図を含めて書き記しました。うち『和州吉野郡群山記』六巻は吉野山をはじめ大台、大峰およびその周辺の民俗や歴史を含む山岳誌であり、『和州吉野郡中物産志』二巻は動植物、鉱物についての博物誌です。『物産志』は上巻が薬草の部、諸草の部に、下巻が木の類、竹類、果類、穀豆菜類、虫類、魚類、禽類、獣類に分かれて、それぞれ非常に詳細に、時には図を入れて科学的な解説がされています。ところが最後の獣類で、こんな面白いものを見つけました。

<この「奈良の山あれこれ」シリーズでは『1998年東海大学出版会発行・御勢久右衛門編著『和州吉野郡群山記~その踏査路と生物相』を参考・引用させて頂いていますが、私なりに現代文にしてみました。以下<>は御勢グループの註、()は原文の註です。なお下の図は 鳥文斎栄之・画『模文画今怪談』より、下野那須野(現・栃木県)で討ち取られた山女 で本文とは関係ありません>

山女[ヒト?]
釈迦ヶ
岳の山中にヤマオンナというものがいる。美しい服を着ていて、人に逢えば後姿を見せて顔は表さない。これは年老いた蟒(ウワハミ)<大蛇>が化けたものだという。花瀬村<現、十津川村花瀬>の人のことだが、花瀬の奥、佛倉というところに佛像の立ったような形の15、6mの高さの巌がある。この岩に石茸(イハタケ)がたくさん生えるので、よくここに来る。ある日、岩の上から降りてイワタケを採っているところに、美しい服装の一人の女が来て後ろを見せて顔を隠して岩の上に立っている。すぐに山刀(ヤマカタナ)を抜いて、女を背後から討ち取ると、女は岩の上より落ちた。その音は百もの雷が一時に落ちたようであった。その後、家に帰ると病気になり、臨終のときにこの事を語して死んだ。十津川の猟師にこの蛇のことを訊ねると、その身体は五色の錦の衣を着ているようだということだ。『木草時珍』の説に、『録異記』、「蟒蛇大なる者、五、六丈、回り四、五尺。小なる者、三、四丈を下らず。身に斑紋あり、胡錦纈の如し」とある。

上の文章の最後の「胡錦纈 」については、手元にある辞書やネット検索では見つかりませんでした。「胡」中国の辺境部族、「纈」は絞り染めのことですので、斑紋のついた他国産の美しい布を想像する他ありません。また、ウワバミは大酒飲みの代名詞として使われますが、これはウワバミがかなり大きな動物でも丸飲みすると言われ、また神話のヤマタノオロチが八つの甕の酒を飲むことから来ていると言われます。連れ合いは山も酒も、いつも喜んで付き合ってくれますが…ひょっとすると


奈良の山あれこれ(119)~(120)

2016-03-18 00:00:30 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

(119) 弥山(みせん) 「大峰修験の中心的な山」



今こそ南側にある八経ヶ岳が登山者の人気を集めていますが、古くは八経ヶ岳、明星ヶ岳を含めた「山上」の中心でした。仏教の世界観を表す須弥山から名づけられた山名が示す通り、大峰修験の中心的な山で、御山、深山(いずれも読みはミセン)とも書かれました。「吉野郡群山記」の「弥山の記」で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、山の様子、宿、弁財天奥社、伝説まで詳細に紹介しています。
同書に『この所は天の川弁財天の奥の院といふ。山は平らなる大お山なり。余りそびえ、けはしからず。頂に樹木生い茂りて、四方見えず。』とあるように、現在も、奥宮(弥山神社)と200人収容の弥山小屋が立つ山頂台地はモミやトウヒに囲まれています。



小屋の前には御手洗池という木の柵で囲まれた水たまりがあり、昔は貴重な水源となっていたようです。



小屋のすぐ前が弥山神社で、最高所に三角点(1895m)、南側の一段低いところに行者堂があります。神社裏手から北に延びるなだらかな尾根は「香精山」と呼ばれる「御留山」で樹木の伐採が禁止されていました。現在は酸性雨などの影響か、この原生林の霜枯れ現象が痛々しく眺められます。



展望は小屋から200m足らず東の「国見八方睨み」からがよく、台高山脈、大普賢、山上ヶ岳が間近に眺められます。

 
1970年代に山友達と二人で弥山谷を遡行したことがあります。桟道や橋の崩壊箇所が多くて体力を費やし、双門ノ滝を見上げるところまで来て引き返しました。一般的な登山路は行者還トンネルの東西の出入口から始まります。



94年はオオヤマレンゲを見に行者トンネル西口からふたりで登りました。谷沿いの道から直登して奥駆道の通る稜線にでて、理源大師像の立つ聖宝ノ宿跡からは聖宝八丁と呼ばれる急な登りで弥山小屋に着きます。



(120)八経ヶ岳(はっきょうがたけ)
 <1915m> 別名・八剣山、仏教ヶ岳 「近畿より西の本州最高峰」



大峰山脈の中央部、弥山の南側にあります。大峰の盟主であり、近畿地方より西(本州)の最高峰です。山頂(1915m)に役行者が法華経八巻を埋めたといわれ、奥駆第五一番行所となっています。弥山から八経ヶ岳、明星ヶ岳にかけてはシラビやトウヒの原生林が多く、また弥山と八経ヶ岳の鞍部周辺には「天女の花」オオヤマレンゲの自生地があり、天然記念物に指定されています。


八経ヶ岳は前項(119)で記したように、弥山に比べるとそれほど重要視されていませんでした。例えば『吉野郡群山記』では『弥山の記』で釈迦ヶ岳から弥山への道(大峯通り)を記す中で、「鉢経 弥山辻にあり。道、左右に分かる。右(東)、山に登れば弥山に至る。左(西)、山を下れば川瀬村に出る。その分れる辻に金剛童子の小社あり。」と記載されているだけです。記述の中心はあくまでも「弥山」で、現在でも両山の位置関係などもあって、殆どの場合は弥山とあわせて登られています。登山道は弥山から稜線のすぐ下を捲くように八経ヶ岳に通じ、奥駆道もこの間に頂鮮岳遥拝所(靡53番・朝鮮岳)、古今宿(52番)を経て頂上の51番八経ヶ岳に至ります。しかし古来の奥駆道は、当時はオオヤマレンゲの密生していた山腹の更に下を次項の明星ヶ岳に通じていたようです。


 ←聖宝八丁(1994年) 
天女の花と言われるオオヤマレンゲは、梅雨の時期に弥山と八経ヶ岳の間に美しい姿を見せ、この自生地は天然記念物に指定されています。この花には1994年、ふたりでトンネル西口から登り初めて対面しました。清楚な白い花が、蕾から半開、満開、落花寸前のものと様々な姿を見せてくれ、幻の花を心行くまで鑑賞できた山行でした。



11年後の2005年秋、日本山岳会の山友と新しくなった弥山小屋で一泊し、頂仙岳から八経ヶ岳へ巡りました。



聖宝八丁の道はなだらかな新道に変わり、旧道と合流した後も幅広い木の階段や鉄梯子で歩き易くなっていました。しかし、酸性雨の影響か弥山の縞枯れ現象は一段と目立ち、オオヤマレンゲ自生地にはシカの食害を防ぐためのネットが張り巡らされていました。この網は奈良県、と環境庁が1996年から設置したもので、2008年に日本山岳会「大峯・弥山周辺~明星岳のオオヤマレンゲの保護状況と観察」会に参加した時も工事が続けられていました。

この時は特別許可を得て弥山西尾根の保護区域にも入りましたが、斜面一面に咲くオオヤマレンゲの姿はまさに天女の群舞を思わせ、時の経つのを忘れました。



山頂からの大峰、台高の大展望だけは昔と変わらず、雄大そのものでした。


奈良の山あれこれ (117)~(118)

2016-03-15 09:16:09 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。

(117)栃 尾 山 (とちおやま) 地元でもあまり名の知られていない山」



天川坪内から栃尾辻、頂仙岳、狼平を経て弥山に登る道の途中、栃尾辻から西に派生する尾根上にある1256.9m峰ですが、2万5千図には山名が記載されていません。2006年9月下旬、妻と二人で登りました。ハンディGPSを使いながら歩きましたが、道が分かり難く、何度か行ったり来たりして道を探しながら歩いています。

 


スタート地点の天河神社は「日本三弁天」として有名な神社で、弥山頂上にはこの神社の奥宮があります。林道坪内谷線で出会った男性は、栃尾辻への登山口を丁寧に教えてくださいましたが、栃尾山の名はご存じありませんでした。「弥山へ」の標識がある登山口から、頭上に見える送電線鉄塔に向けて林の中の急坂を登ります。登山口から30数分ほどで木材運搬用のモノレールの横に出ると、殆ど水平な遊歩道のような道になり、次第に高度を上げていきます。



植生が植林、混成林、自然林と変る美しい樹林帯を歩き、林を抜けたあたりから「左は弥山、右は坪ノ内」の標識がある尾根に出るまでが、最初の分かり難い道でした。



何度か緩いアップダウンで背の低い笹原を行くと、林の中に三等三角点と小さな山名板がありました。登山口から2時間余りでした。



山頂は灌木に囲まれて無展望でしたが、少し手前の大岩のところからは西に送電線の並ぶ尾根上の1287mピークとその右の天和山。遠く陣ヶ峰、水ヶ峰が霞んでいます。北には天狗倉山の右に金剛・葛城の山々が遠望されました。下りの大原への道も分かり難く、赤テープ標識を頼りにしましたが、当時の2万5千図の点線路ではありませんでした。GPSのトラックは弱受信で残っていません。帰ってからネットで見ると、他にも何人かがこの辺りで戸惑っていました。『13時半、登山口に帰り、弁天様に無事下山のお礼をして家路に着く。登りの10時頃、弥山から下りてきた二人組の男性に出会った他は、日曜日なのに誰にも会わない静かな山だった。』


(118)頂 仙 岳(ちょうせんたけ) 「朝、鮮やかに見える山」



頂仙岳 (1717.4m)は昔、仙人が住んでいたといわれ、昭和初期からこのように書きます。古くは朝鮮岳と書き(興地通志、大和名所図会)、「大和志」には「朝鮮嶽、在稲邑嶽西南、山脈相連、喬木陰森、怪石奇争聳、早旦望之、山色鮮明」とああります。「朝早くは山が鮮やかに見える」という意味で、朝鮮岳と名づけられたようです。

 森沢義信氏の「奈良 80山」によれば「弥山から出発することを弥山駈出という」。現在のように弥山から八経ヶ岳へ直接登る道が開かれたのは明治になってからで、それまで「山伏は午前4時に駈出し、弥山から狼平に下って頂仙岳に登り、次の古今宿を経て八経ヶ岳へのぼったという」(前掲書)
「修験」(大正15年)によると、「以前は八経へ登らず、朝鮮ヶ嶽に回り、八経の横を迂回して明星嶽に出たが、明治十九年楠本真成行者が、八経頂上へ直行する道を発見したとの事である」。 「修験」は京都の聖護院門跡の機関誌で、宮城信雅師は当時の執事長(前掲書の著者・森沢義信氏のご教示による)。現在の奥駆修験者の殆どは弥山より直接、八経ヶ岳へと辿り、頂仙岳は途中の「頂仙岳遥拝所」(靡第五三)から拝むだけです。ただし、ここからは頂仙岳は見えず、もう少し先の古今宿近くになって初めて山容を現します。
 2004年10 月、森沢氏と私を含む日本山岳会の有志4人と妻の5人パーティで大峰に入り、前日は弥山小屋で一泊、森沢氏の案内で上記の「弥山駆出」コースを歩きました。

弥山小屋から大黒岩を見て、弥山川に沿って長い木の階段を狼平↑に下ります。



吊り橋を渡ると高崎横手と明星岳への分岐で、ここから踏み跡を辿って山頂に登りました。



頂上台地から西に天和山、東北に稲村ヶ岳↓が見えました。(弥山小屋から約90分)



  
なお、直接この山に登るには、天川村川合から栃尾辻をへて山頂まで約3時間50分。2008年8月、弥山でのオオヤマレンゲ観察会の帰途、明星ヶ岳からこのルートを下っています。


奈良の山あれこれ (114)~(116)

2016-03-10 10:28:28 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

大峰山脈と周辺の山々

(114)行者還岳(ぎょうじゃがえりたけ、ぎょうじゃかえしたけ)<1547m> 「役行者も引き返した峻険な山」



七曜岳から鞍部にくだった奥駆道が、次に登り返すのが行者還岳です。大台ヶ原から見ると烏帽子型の峰が、南に倒れかかったような特異な姿をしています。これは山頂の南側が垂直の断崖となって落ち込んでいるためで、その険しさに役行者でさえ引き返したという言い伝えが山名の由来です。西行の『山家集』に「屏風にや心を立てておもひけむ行者はかへりちごはとまりぬ」の歌があります。この歌の前に「屏風立て」という地名がでてきて、この難所を思い悩むであろう「宿」として「ぎょうじゃかえり」と「ちごとまり」の名を記しています。「屏風立て」は七曜岳から弥勒岳にかけての岩場を指すのでしょうか。
 天川村と上北山村を結ぶ道は、かっては行者還岳を南に下った「北山越」(天川辻)で大峰山脈を越えていたましたが、現在は国道309号線がさらに南の「行者還トンネル」で両村に通じています。



1998
年9月、天川村側の神童子谷と布引谷の合流点・大川口から関電巡視路を登りました。吊橋を渡りヒノキ林の中を急登。ジグザグを繰り返して4つ目の鉄塔の立つ小さなコブから尾根を登り、右に捲くように進んで涸れた沢を三つほど越します。



苔むした岩や倒木が多く、深山幽谷の趣でした。危なっかしい桟道をいくつか通り、尾根を緩く登ると、自然林の中に行者還小屋の青い屋根が見えました(その後、2002年改築)。大峰奥駆道(縦走路)に出て北へ行くと、すぐ岩盤に細い滝のかかる水場があり、その右の長短3つのハシゴを登り、笹原の急坂を登ります。



林に囲まれた小台地に三角点(1546m)と大きな錫杖の形の山名板がありました。正面に弥山などが見える筈でしたが、この日は小雨模様で無展望でした。2005年、奥駆山行のときも雨の中で、つくづく展望にはついていない山です。


*しばらく大峰の主稜を離れて周辺のピークをご紹介します。*

(115)鉄 山(てっせん)<1563m> 「大峰の大展望台」



弥山北方支稜に連なる岩稜の山。雌雄二山からなり、雄岳は別名・三ツ塚と呼ばれています。山頂は樹林に囲まれていますが、弥山への縦走路を南へ歩き、小さなピークを二つ越した台地は大峰山系の大展望台です。2002年10月、日本山岳会の先輩、同僚の6人でこの山に登りました。




河合から行者還林道に入り、川迫川に沿いに登った神童寺谷出合が登山口です。水位観測塔に架かる橋の途中から左の山腹に取り付き、壊れかけた木の梯子や朽ちた桟道を30分ほど登ると明るい台地に出ました。目の前にバリゴヤノ頭が大きく、眼下の川迫川を挟んでトサカ尾山が左に頭を傾げています。尾根に取り付くと再びブナやヒメシャラ林の中の急登。急な岩稜を今にも切れそうな古いロープや岩を頼りに登りました。やや勾配が緩み、二度、大きな倒木を越えていきます。再び急登になり、1251mピークを知らない内に通過すると、展望が開け広い台地に出ました。背の低いクマザサの中に白い岩が散在し、まるで公園のよう。川迫ダムの上に金剛・葛城の山並みが青く浮かんでいます。

バリゴヤノ頭の背後には、ずらりと大峰の山々。行く手には目指す鉄山の雌雄二峰、その左には弥山が手の届く近さに望まれます。シャクナゲやモミの木の根が網の目のように絡み合ってたところを、梯子代わりに登ると雌岳のピークです。少し下り、支点がぐらぐらする急勾配の鎖場を登り切って雄岳(三ツ塚)の狭い頂上に立ちました。



樹林の中で、展望は僅かに稲村ヶ岳周辺だけでした。南の弥山への縦走路に入り、急傾斜を10分ほど降って正面に見える薄緑色の台地を目指します。コルに降り、背の低い小笹の道で小さなピークを二つ越し、更に緩く登ると、ヒカゲノカツラや芝のような草の生えた開けた台地に出ました。振り返ると、紅葉した林の上に鉄山がほぼ此処と同じ高さに見え、その背後に大日岳、稲村ヶ岳、山上ヶ岳、大普賢岳、行者還岳から弥山に続く稜線、その上に大台ヶ原がくっきりと浮かんでいます<最初の写真>。期待以上の大展望にすっかり満足して、元の道を引き返しました。

(116)天和山(てんなさん)<1285m> 「大展望ながら不遇の山」



大峰山系支脈にあるこの山の名前は、森沢義信氏の「奈良80山」(青山社刊)で初めて知りました。日本山岳誌(日本山岳会編)では選出されず、コンサイス版日本山名辞典には所在地(天川村と大塔村の境)の他は「大峰山脈の西斜面にある」と記されているだけです。「奈良80山」には『天和山は既刊書でも紹介されているが、登る人は多くない』と記されていますが、私の知る限り、殆どのガイドブックには触れられていない不遇な山です。「80山」には『しかし(中略)山頂に至れば、そこは谷一つ隔てて弥山・八経・明星ヶ岳がせまる絶好の展望台で、その景観には誰もが圧倒される。』と記されています。

2002年11 月、日本山岳会の4人で登りました。9時半、天川村和田の発電所の前から天川支流にかかる小橋を渡り、杉林の中に伸びる木材搬出用モノレールの横を登ります。やがて軌道を離れジグザグの登りとなり、数えて三番目の鉄塔を過ぎると、左に川瀬峠に通じる山腹を捲く道が分岐しました。この道は帰りに通ることにして、右の尾根上に出る急坂を登ります。



四番目の鉄塔が建つ展望場所から振り返ると、紅葉が美しい五色峰の向こうに、大天井岳あたりの稜線がくっきりと浮かび上がっていました。ここまでちょうど1時間、しばらく展望を楽しんで尾根道を行きます。左



手が深く切れ落ちたガレ場があり、ロープが張られていますが、足幅だけの崩れやすい踏み跡で、やや緊張しながら通過しました。1183mのピークは疎林の中で展望も少ないので、左に90度折れて自然林の中、クマザサの気持ちのいい尾根道を辿ります。川瀬峠過ぎてしばらく登ると、天和山の頂上で、ちょうど正午に着きました。



少し東側の台地からは、『頂上では木の間からチラホラ見えていた景色が、ここでは遮るものなく展開する。大日岳、稲村ヶ岳の右に頂仙岳、頂上付近に白く雪を付けた弥山、八経ヶ岳、さらに釈迦ヶ岳へと続く稜線が見渡せ‥(山日記より)』期待に背かぬ大展望に満足しました。


奈良の山あれこれ(111)~(113)

2016-03-08 09:07:58 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

大峰山脈と周辺の山々

(111)大普賢岳(だいふげんたけ)<1780m> 「普賢菩薩の山」



大峯奥駆道は山上ヶ岳から東へ約2キロの小笹宿で女人禁制区間が終わります。次の阿弥陀ヶ森近くで南へ方向を転じて、3キロで大普賢岳に至ります。



奥駆道は山頂西側の山腹を捲いていますが、5分ほどで到着する頂上からは、山上ガ岳の宿坊まではっきりと望めます。さらに稲村ヶ岳の間には金剛・葛城の山々、南には奥駈道上の行者還岳、弥山、八経ヶ岳、行仙岳、笠捨山…と見飽きることがない大展望です。奥駆行所(第六三番普賢岳)の勤行は本峰北にある小普賢岳で行われています。普賢岳の名は、ここでの礼拝対象の普賢菩薩からきています。

 


大普賢岳山頂から東に延びる尾根は笙ノ窟尾根といわれ、伯母峰峠に続いています。笙ノ窟尾根の山腹には、鷲ノ窟、笙ノ窟↑、朝日窟、指弾ノ窟などが連続していますが、中でも笙ノ窟は平安時代から冬籠り修行の場として知られるところです。『吉野郡群山記』に「窟の内広き事、二十畳ばかり。水湧き出る処有り。修行の僧、九月九日山止りの節より、飯菜等を用意し、来年四月八日まで籠るを、冬籠りの行と云ふ。冬に至れば、巌谷の外は白雪積りて、往来なしがたし。…」とある笙ノ窟は六二番靡(行所)でもあります。




 

これまでに5度(和子は3度)登りましたが、2度は奥駆山行の途中でした。他3度は和佐又ヒュッテから笙ノ窟、石ノ鼻(岩頭の展望台)↑を経て登りました。この登山道は年々、整備が進められて鉄梯子や桟道が増えていますが、かえって登り辛く危険な気がします。

(112) 和佐又山 (わさまたやま)<1344m> 「岩壁と森林の山」



吉野郡上北山村。大普賢岳から笙ノ窟を通り南西に延びる尾根上にあります。大台ケ原ドライブウェイから大普賢岳手前に見える、整った三角形の山です。山麓の和佐又高原には和佐又ヒュッテや和佐又スキー場があり、夏の林間学校、冬のスキー客で賑わいます。国道169号線の新伯母峰トンネルを出たところから、高原に向かって谷沿いに林道が走っています。この谷が和佐又谷で、「大和青垣の山々」には『天然ワサビを産することからワサビ又谷の転訛したものだといわれる』と記されています。

車でヒュッテまで林道を登ると、あとは標高差約200m、わずか30分ほどで山頂です。







山頂からは弥山、大普賢、孔雀岳などを望むことができます。1994年、大普賢へ登る途中に立ち寄りました。2006年には奥駆けの途中、七曜岳で奥駈道と別れて、標高差およそ600mを下って水太谷の河原に降り立ちました。

右岸の石灰岩にうがたれた上下二つの洞穴、無双洞↑から流れ落ちる水は水太谷の支流と合して、高さ20mの水簾ノ滝↓となって落ちています。

水太谷源流部の涸れ谷からアングルが打ち込んである急勾配の岩壁を登ると、ぽっかりと底なし井戸が開いていました。ほぼ水平になった夕暮れ近い山道を歩くうち、梢越しに見える和佐又山の円い頭が次第に近づいて、和佐又分岐に出ました。七曜岳から4時間半かかりました。

(113)七曜岳(しちようだけ)<1584m> 「国見七曜の大展望」


 
天川村と上北山村との境に位置する奥駆道の通る山です。大普賢岳を過ぎて水太覗(みずふとのぞき)の絶壁を過ぎると、しばらく笹原の平坦地を行きます。

やがて弥勒岳(行所六一番)があり、ここから「内侍落とし↑」「薩摩ころび(薩摩こけ)」の岩場の難所を通ります。

急斜面を下った稚児泊↑から国見岳、七つ池(山中の窪地)を過ぎて、岩場を登ると第五九番行所がある七曜岳山頂です。

ここは「国見七曜」とも呼ばれる通り、素晴らしい展望が得られます。「吉野山群山記」では「国見嶽」として『この所、大和国中(くんなか・大和盆地)能く見ゆるにより名づく。この外、諸方見ゆ』と記しています。特にここから見る西方の稲村ヶ岳やバリゴヤノ頭は絶景です。畏友・森沢義信氏の名著「大峰奥駆道七五靡」によると、七曜岳の名が初めて現れるのは「大峰細見記」で、「北斗七星ノ多和」の添え書きがあり、北辰(妙見菩薩)を祀る儀式が行われたことが山名の由来となったと考えられます。


奈良の山あれこれ(110)山上ヶ岳

2015-12-21 09:55:11 | 四方山話

「サンジョウサンで大人の仲間入り



吉野郡天川村。広義の大峰山は、吉野山から山上ヶ岳を経て弥山付近までを含めて呼びますが、狭義にはこの山を指します。



登山対象としての山上ヶ岳は、大峰山寺本堂近くのお花畑にある湧出岩(わきで、ゆうしゅつ)横に一等三角点(1719m)を持つ展望にも優れた山です。



ここからは大普賢、弥山、稲村ヶ岳などの大峰の山々を一望することができます。




山上ヶ岳への主な登山道には吉野道、洞川道、柏木道の三つがありますが、「柳の渡し」(↑)近鉄吉野線六田駅近く)を起点とする吉野道は距離が長いので、吉野郡天川村洞川からの洞川道が最もよく使われています(約2時間)。柏木から伯母谷覗き、阿弥陀森、小笹の宿を経て山上に至る柏木道(約5時間)も、かっては良く利用されていたと聞きますが、私は歩いていません。


山上ヶ岳は、神道と仏教の混淆した民俗信仰から発展したとみられる修験道の聖地です。伝説では役行者(小角)が開いたとされていますが、実際の開祖は理源大師・聖宝であり、当初は真言宗(当山派)が勢力を持っていました。 しかし、平安時代中期以降、朝廷の熊野信仰が盛んになるにつれて熊野から大峰山への修験道が開かれ、天台宗系の本山派が勢力を持つようになりました。そのため、熊野から大峰山を経て吉野に至る修行の道筋・奥駆道を「順峰」、吉野から熊野への順路を「逆峰」と呼びます。




修験道の聖地として、山上ヶ岳は今なお「女人禁制」を守り続けています。女人禁制の結界は、吉野側では吉野金峰神社から500m南の大滝への降り口にありますが、現在は五番関(↑)まで通行できます。


2004年4月に柳の宿(靡七五番)をスタートし、2005年6月の熊野本宮証誠殿(一番)まで、日本山岳会関西支部70周年記念行事の一環として、奥駈道を7回に分けて歩きました。(他にこの期間に世界遺産・紀伊山地参詣道の殆どを踏破しています。)この奥駈山行第三回目は、靡六九番の五番関から六二番の笙ノ窟を経て大普賢岳に至る20㎞に及ぶ行程でしたが、山上ヶ岳を通るので参加できなかった妻は今も残念がっています。




山頂にある大峰山寺(↑)の本尊・金剛蔵王権現は役行者が感得したと伝えられています。また弘法大師・空海も、金峰山(吉野山)から高野山への修行をしています。大峰山寺周辺には表行場・裏行場と呼ばれる、合わせて18の行場があり、また奥駆道には一番の熊野本宮から75番の「柳の渡し」に至る、75の「靡(なびき)」という拝所・行場が設けられています。関西の若者にとって、「サンジョウサン詣り」は昭和になっても成人式を兼ねた重要な行事であり、 私の住んでいた河内でも、青年団の先輩などから「西の覗き」での修行の様子や下山時の「精進上げ」の話などをよく聞かされたものです。


この行場に初めて入ったは奈良に来てからで、1975年6月に近所の仲間たちと洞川表行場で修行したあと、稲村ヶ岳へ向かいました。また2003年には町内の山の会で洞川の発菩提心門(↑)から入山して、表行場、裏行場を巡拝しました。行場の様子の一端を古い書物から引用しますと‥
 
平等岩について、天保9年(1838)年に土佐藩士・安田相郎が著した『大和巡日記』に、『扱吉野奥ノ院より女人禁制也』‥いよいよ行場に入って七十九文を払って先達を頼み、「…ビヨフト岩、石の腹を廻る。手足の掛り壱寸ばかりの岩角あり。先達エリツボを取りて引き上げる。夢の心地す。危きことの至極也」と記されています。



また「吉野郡群山記」には各行場の様子が詳しく記されています。一番有名な「西の覗き」(↓)については『 鐘懸岩(↑)を過ぎて、のぞきなり。

西ののぞきは、西南にむかへり。左の方、岩のはなに、山先達足を組み坐してのぞかしむ。のぞく岩の前に、水の少し溜れるはざま有り。そこを越えてのぞかしむ。岩のはな、さがりたるに、はらばひして、先達くびすぢを捕へ、下を望めば、底は深く彼の杉菜のごとき大木の梢を見るに、内のかたにそりし巌なれば、眼くらめきていとすさまじ。』とあります。『かの杉菜の…』というのは鐘掛岩のところで『下は底いと深き谷にて、幾年経しとも知らぬ杉の、ここより見おろせば杉菜といえる草のごとく梢のみ見ゆるにぞ、その深きことを知るべし』と記述したことを受けています。

古い書物からの引用が続きましたので、裏行場の様子は私の山日記(2003年8月24日)と写真でご覧ください。この日は千日山歩渉会11名(もちろん全員男性、L.芳村)で、洞川の清浄大橋から発菩提心門を8時に潜りました。陀羅尼助茶屋から鐘掛岩、西の覗き、日本岩など表行場を経て山上ヶ岳頂上には11時35分に着きました。

昼食後、『下山の前に裏行場巡りをする。難所が多く事故を防ぐため、必ず宿坊に案内を乞うことになっている。

私たちは喜蔵院に案内をお願いした。

 

行は「不動の登り岩」(↑)に始まり、 「押し分け岩」の隙間を通り、



「護摩の窟」(↑)にくる。仏の子として生まれ変わるため、真っ暗な「胎内潜り」を終えて、



笈掛け・衣掛け、袈裟掛けの巨岩に囲まれた通路を通り、



更にいくつかの岩場を経て「東覗き岩」(↑)(危険なため現在は行が行われていない)の横にある「飛び石」にくる。

ここからが核心部の「蟻の戸渡り」(↑)、ついで「平等岩」となる。スタンスもホールドも十分あるのだが、岩登りの経験のない人にはやはり鎖が頼りで、どうしても足運びの順序を教える先達が要るところだ。
 
案内のKさんはそれぞれの行場での技術指導?はもちろん、行場のいわれも分かりやすく解説して、またカメラマンでもあるだけに周囲の山の名前なども詳しく教えてくれた。晴れた日には平等岩の上から白山や富士山まで見えるということだ。



最後に(不動明王と蔵王権現の銅像のある)「本結払い(モッテンバライ)」(↑)の前で全員が「平等岩廻りて見れば阿古滝の捨てる命も不動くりから」と歌を詠み、「南無神変大菩薩・南無アビラウンケンソワカ」と真言を唱えて行を終える。本堂前に出るまでちょうど1時間かかった。』

 

山上ヶ岳については、まだまだ語り尽くせませんが、割愛して次の山に向います。


奈良の山あれこれ(106)~(109)

2015-12-19 09:19:22 | 四方山話

 (106) 勝負塚山(しょうぶつかやま) 「水争いの勝負か?聖宝か?」
上多古谷の上にそびえる大峯の前衛峰。吉野郡川上村と天川村の境に位置し、点名・鳴川山の三等三角点(1,246m)を持ちます。
  山名は、元は「しょうほうつか」で理源大師聖宝が毒蛇や獣をここに閉じ込めたのが由来といわれています<同じ伝説は(102)百貝山でもご紹介しました>。
また、この山を巡っては、昔、川上村と天川村の間で30年に及ぶ境界争いがあったと言われていますので、このことが山名に関わりがあるのかも知れません。



2008年7月、梅雨の晴れ間に上多古林道の伊坪谷出合から二人で登りました。(登山口の様子から見ると、われわれ登山者は地元の方からあまり歓迎されていないようです。)



 七合目

急登の連続で3時間半かけて頂上にたどり着きましたが、暗い林に囲まれた山頂は僅かに南側が開けているだけでした。吉野川の支流・上多古谷を隔てて山上ヶ岳と対峙しているので、頂上からは山上ヶ岳の宿坊が見えると言われますが、靄がかかっているようでよく見えませんでした。全身汗まみれで記念写真を撮り、早々に元の道を下山しました。



一日中、誰にも会わず、心配した雨にもクマ、マムシ、ヒルにも遭わずに済みましたが、下りも3時間近く、標高差850mのかなりシンドイ山でした。それだけに登り終えたあとの達成感は大きく、二人とも大満足で帰宅しました。


(107)観音峰(かんのんみね) 「南朝の天皇、観音様に助けられる」
この山の名は後村上天皇が観音の夢告げで難を逃れたことに由来します。南朝の後醍醐天皇が吉野行宮で崩御のあと、大塔宮護良親王、後村上天皇、長慶天皇らは天川郷を南朝最後の砦として潜行していました。この峰は南朝守護の観音信仰の場所でした。

「みたらい渓谷遊歩道」が通る虻峠近くが登山口です。



展望台までは遊歩道になっていて、途中の観音平休憩所まで6か所に「南朝物語」の説明板があります。



休憩所からは林の中の急登、水平道、ジグザグの急登で観音峰展望台(1208m)に着きます。



展望台からの眺めはまさに360度。東南には大日岳、稲村ヶ岳からバリゴヤ谷の頭に続く岩稜、さらに鉄山、弥山、八経ヶ岳、頂仙岳と大峰の山々が続きます。西には天狗倉山と高城山、その左に双耳峰の武士ヶ岳。遠くは護摩壇山、荒神山、生石ヶ峰、陣ヶ峰、そして高野三山、龍門山…数えきれぬ山々の饗宴です。




一帯は初夏には緑の笹原にベニバナヤマシャクヤクが紅を点じ、秋にはススキが銀色の穂をなびかせる楽園です。目の前の1285m峰へ急登して尾根道を行くと、展望台から1時間で観音峰(1347m)の三角点です。ここは灌木に囲まれて展望は全くありません。



  おすすめの下山路は、法力峠から洞川(どろがわ)への周遊コースです。稜線の最高点・三ツ塚(1380m)を通り、左手が開ける痩せた岩稜帯を急降下で法力峠に下ったあとは、母公堂へ降りてもいいし、五代松鍾乳洞を通って行くのも面白いでしょう。洞川には日帰り温泉もあります。


(108)大日山(だいにちやま)かかる聳えたる山は近国にはまれなり」



大峰山脈主稜線上の釈迦ヶ岳南にある大日岳とは別の、稲村ヶ岳を双耳峰とみた時に南峰にあたる岩峰です。昔はこの山が稲村嶽と呼ばれ、雨乞いの山として知られていました。

 キレットより

「和州吉野郡群山記」の「稲村嶽記」に『稲村嶽は、高山の上に直立せる奇峯にして、遠くよりながむれば、山上嶽の西に細く尖りて、山上嶽と相並びたり。かかる聳えたる山は、近国にはまれなり。近くして山体を見れば、南西の方、山半ばより土なく、大なる巌石なり。周廻六丁、高さ三丁なり。』と記されています。



また蟷螂の窟から登り、虎丸嶺(現在の法力峠)、山上辻(現在の洞川辻)を越える登山路が紹介され、虎丸の『「辺り、石楠花極めて多く、林をなして、四月中下旬の頃、花をひらく。外の石楠花に勝れ、紅色うるはしくして美なる事、枝頭に紅絹を引きかけるがごとし。その樹大は柱のごとく、高き事、一、二丈ばかりなり。」と称賛しています。

 


確かに花の頃は美しく岩壁を彩り、絶景です。現在は山上辻近くのキレットから登りますが、『坂極めて急にして、梯をたてたるがごとし。木の根を取らへて登る(群山記)』」ことは昔に変わりません。



山頂(約1700m)には大日如来を祀る祠があります。


(109)稲村ヶ岳(いなむらがたけ)
 「稲叢の形をした山」

山上ヶ岳から西に延びる支脈上にあります。古くから女人禁制ではありませんでしたが、大峰山(山上ヶ岳)と峰続きのため、女性の登山は忌まれていました。「女人大峰」として正式に禁制が解かれたのは戦後のことです。洞川から法力峠を経て登る現在の登山道は、昭和初年に赤井五代松が独力で開いた登りやすい道です。



途中に彼の偉業をしのぶ名を残す「五代松鍾乳洞」があります。小屋やトイレのある山上辻で山上ヶ岳への道を分けると大日キレットで、周辺と稲村ヶ岳南斜面にかけてシャクナゲが群生しています。



山頂には大きな展望台があり、目前の山上ヶ岳をはじめ大峰山脈北部を中心とした大展望が得られます。

 


初めて訪れたときは、五代松鍾乳洞を見学後、山上辻にでて南面のシャクナゲ鑑賞路から登頂。稲村小屋に一泊して翌日、山上ヶ岳へ登りました。78年は10歳と8歳の子供たちと洞川の蟷螂窟前にテントを張りピストン。



シャクナゲ鑑賞路は鎖場やトラバースがあるのに子供たちも頑張ったものです。下山後、ローソクを灯した子供の案内で蟷螂窟を見学しました。その後も何度か登りましたが、五代松鍾乳洞か母公堂経由の道ばかりです。清浄大橋からレンゲ谷を詰める道は、一度下りに使ったことがあります。


奈良の山あれこれ(101)~(105)

2015-12-18 11:18:57 | 四方山話

*このシリーズは山行報告ではなく私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*

<吉野山周辺>

(101) 青根ヶ峰(あおねがみね) 「吉野山の最高峰」
前項で「吉野山は周辺のいくつかの峰の総称」と書きましたが、その最高峰が青根ヶ峰です。昔は青折嶽、金の御嶽とも呼ばれました。



頂上近くには、「従是女人結界」の文字の両側に「左・蜻蛉瀧、右・大峰山上」を示す大峯奥駆道の結界石とお地蔵さんが立っています。この結界石は慶応元年のものですが、第二次大戦後の1970年に結界の位置が五番関に後退するまで、長らくここから先が大峯山の女人禁制区域でした。



ここから木の階段道を登ると青根ヶ峰の三等三角点(858m)がありますが、樹木の中で展望は期待できません。

 この石標の少し手前、金峰神社を過ぎたところに「峰入りや一里遅るる小山伏」の句碑があります。ここの辺りが大峰七五靡き(なびき)の第七十番「愛染(あいぜん)宿」跡ですが、この地名は明治初年の廃仏毀釈まで安禅寺の愛染宝塔があった処といわれています。



ここで奥駆道と離れ、奥千本に向かうと「西行庵」があります。西行が隠棲した桜の名所で、「吉野山やがていでしと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」と詠んだところ。近くには、芭蕉の「露とくとく試みに浮世すすがばや」の句で知られる苔清水(↑写真)が滴り落ちています。

  近鉄吉野駅より上千本を経て2時間30分。川上村大滝からは、林道沿いに2時間。途中には落差30mの「蜻蛉(せいれい)の滝」があります。

音無川沿いに登り、愛染宿跡とは反対側の車道にでると階段で山頂に登ります。

(102) 百貝岳(ひゃくかいたけ) 「法螺貝の音で大蛇退治」
吉野山奥千本の西南にあって、奈良県吉野郡黒滝村に位置する山。名称には次の伝説があります。役行者が大峰山を開いて200年ほど後、山中に大蛇が棲み、村人や参詣人に危害を加えたので信仰は途絶え、山は荒廃していました。宇多天皇の勅命を受けた理源大師が先達(せんだち)の「餅飯殿(もちいどの)」箱屋勘兵衛を伴い、法力によって大蛇を退治しました。その時、大法螺貝(ほらがい)を吹き祈祷しましたが、其の音は百の法螺貝を一時に吹き鳴らしたようだったといいます。その後、大峰修験道は復興し、理源大師は中興の祖とされています。
  
大師ゆかりの百螺山鳳閣寺は、寛平七年(895)建立と伝えられます。花崗岩作りの理源大師廟塔は国重要文化財で、台座の浮き彫りの亀に吉野朝時代の正平二四年(1369)の銘があります。

吉野郡黒滝村寺戸から川沿いに東へ脇川に向かいます。ここから県道48号を地蔵トンネル手前まで行き、左の谷沿いの道を地蔵峠に登ります。峠からは東に林道を歩き、鳥住集落の林道終点から坂道を登ると鳳閣寺(寺戸から1時間30分)。本堂横から松林の中の廟塔を経て踏跡を登るとTV塔の立つ尾根に出ます。



急坂を登り詰めると如意輪観音の祠がある百貝岳頂上(860m)。



樹木に囲まれ無展望です。



吉野山からは、奥千本から大峰奥駆道への分岐、西行庵への分岐を経て山腹をからむ道を行きます。45分ほどで左手の斜面に山頂への踏み跡の分岐があります。直進しても鳳閣寺からの登路に合します。

*いよいよ奥駆道の走る大峰山脈主稜とその周辺の山に入ります。*

(103)四寸岩山 「四寸の岩の隙間を通る」



大峯奥駆道は、青根ヶ峰から林道吉野大峰線を少し歩いた四寸岩山登山口で、新旧の二道に分かれます。尾根通しに四寸岩山の頂上を通る古道は、江戸時代から明治末まで歩かれた奥駈道で「大天井越え」と呼ばれました。その後は廃れていましたが、林道開通後に金峯山寺が復旧しています。



山名のいわれは、昔は四寸しかない岩の隙間を通ったからだそうですが、この岩も今は山道脇にある平凡な石に過ぎません。二等三角点(1,236m)の頂上はこの石から少し登ったところにあり、山頂からは大天井岳が高く、その左に山上ヶ岳が微かに望めました。この山の東山麓の集落・高原は「木地師の村」として知られています。

 私たちは大峯奥駆道をたどりました。青根ヶ峰下の大滝分岐から一里茶屋跡、心見茶屋跡、守屋ノ茶屋跡、新茶屋分岐を経て1時間30分。他の道としては中戸から(柏原山経由で3時間30分)、高原から高原山経由の道などがあります。

(104)柏原山 「造林帯の中の山」
四寸岩山から西に派生した尾根末端にある三等三角点(943m)のピーク。
 奈良山岳会『大和青垣の山々』に「新茶屋からの尾根道の他に、北方の槇尾からと、南方の赤滝からそれぞれ登る道がある…」。昭文社の山と高原地図「大峰山脈」では中戸からの尾根道、赤岩から迫ノ谷に沿う道が記載されています。2004年、妻と二人で森沢義信氏の『奈良80山』に記された柏原谷からの道を登りました。車を置いた「きららの森赤岩」から2時間ほどでした。
 


登山口には地名通りに川の中には赤い岩が点在し、その間を澄み切った水が渦を巻いて流れていきます。対岸に前登志夫の「みなそこに 赤岩敷ける 恋ほしめば 丹生川上に 注ぎゆく水」の歌碑がありました。上平のバス停前で橋を渡ったところが登山口。このルートは、登山口から頂上近くまで、道標はおろかテープ標識も殆どありません。このときは沢から稜線に出たところで林道の工事が行われていて、尾根道が分断されていました。



その先で、はっきりした登山路が続いていて「柏原山」の大きな標識がありました。この標識は上中戸への下山路では要所で何カ所か設置されていました。山頂直下で踏み跡に変わり、稜線の一角に出て数分で山頂に着きました。



植林の中で展望は全くありません。



東へ関電巡視路を少し行くと、関電鉄塔下の広場で、すぐ目の前の四寸岩山から大天井に続く稜線、その左遠くに稲村ヶ岳などが展望されました。

(105) 大天井岳(おおてんじょうだけ) 「五番?碁盤?御番?」



五番関トンネル横の急坂を登って、稜線に出ると女人結界門があります。



右に門をくぐると山上ヶ岳への道で、左へは大天井岳への登路である吉野古道と山腹を捲く水平の新道に別れます。頂上を通る道は「山上参りの難所」で知られ、山名の「大天井」も「非常に高いところ」を表しているようです。

『和州吉野郡群山記』には「杉その外、諸木の根の蟠れるを道として、その上を越え行く。吉野より参諸多きゆゑ、この処道中広くなれり。いづれも蟠根の上を行くなり。大天井嶺有り」「洞辻よりこの辺まで、樹木生ひ茂り、日光を見ざる所多し」と記載されています。頂上からの展望は北側が開け、四寸岩山から百貝岳に延びる尾根の上に青根ヶ峰、遠く金剛葛城の山々が見渡せます。

  


五番関近くの御番石茶屋跡には碁磐石という名の大石があります。『群山記』には「この辺に石多く、四方なり。紫色にて、白く糸のごとき筋有り。碁盤の目のごとく十文字をなせり」とありますが、五番関の五番の意味は、御番でしょうか碁盤でしょうか?

 


99年に二人で南の五番関から登りました。山腹を貫く五番関トンネルの西口から1時間15分ほどで1439mの山頂に立てました。04年はJAC関西支部の奥駆山行で、青根ヶ峰から四寸岩山、大天井岳を経由して五番関に下りました。他に洞川から尾根道で大原山を経て登る道があります。


奈良の山あれこれ(96)~(100)

2015-11-25 17:41:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
*吉野周辺エリア* 

(96)高城山(たかしろやま) 「昔は展望がよく山城もあった?」
乗鞍岳から東へ、西吉野町と天川村を北と南に分ける稜線は、国道309号線の通る新川合トンネルの上に達します。この大峰支稜はさらに東の大天井岳へと続いています。乗鞍岳から新川合トンネルの間には西から天狗倉山、高城山、武士ヶ峰と三つの山が並んでいます。高城山は私たちにとって、奈良県選定の『奈良百遊山』の中で唯一登り残していて、気になっていた山です。
 2007年5月、山友二人が一緒してくれることになり、天川村川合から県道を天ノ川沿いに西南へ走ります。当初は一台を西之谷に配置して、五色谷から天狗倉山を経て周回するつもりでいましたが、今にも降り出しそうな空模様でもあり、西之谷林道を登れるところまで登ってピストンすることになりました。道は谷に沿って北へ向かい、ぐんぐん高度をあげてやや広くなった処で舗装が切れると、真新しい切り開きで稜線を横切る峠に着きました。
 


車を降りると北風が吹き過ぎ、初夏とは思えぬ肌寒さです。正面に金剛・葛城、五條市街、ずっと右手に音羽三山など、曇り空ながら展望はまずまず。峠の標高はすでに約915m。高城山までは標高差約200mですが、途中大小のコブを三つ、四つ越していきます。最後のピークは霧に包まれて神秘的な雰囲気でした。



滑り落ちそうな急坂を登って、二等三角点の埋まる高城山頂に着きました。



1973年発行の奈良山岳会編『大和青垣の山々』では「北部大峰の連山が手に取るように見える。大峰の前衛の山にふさわしい展望台である。」と記されていますが、残念ながら成長した樹木に覆われて全くの無展望でした。峠から僅か40分、あっけない「百遊山」最後の山でした。


(97)武士ヶ峰(ぶしがみね) 「近くに武士の往来した峠が…」
高城山と同じ支稜上で約2キロ西にある双耳峰です。南北朝の頃や天誅組が活躍した時代などに、近くの峠を武士の往来が多かったので名付けられたそうです。その峠と同じではないと思いますが、西之谷林道が稜線の鞍部を越えています。2007年には開通から間もなかったようで、両側が切り通し状に開かれた状態になっていました。稜線の登山路が林道で完全に分断されているので、高城山の帰り鞍部に降りたって4人で登り口を探し回りました。



稜線の右側から北西の矢筈峠の方に向けて、ブルーのネットが張り巡らしてあるので、いったんネットに沿って西側に回りこんだあと、頭上に見える稜線に向かって直登しました。



稜線の登山道に出ると、ひと登りで武士ヶ峰(北峰1014m)頂上。樹木に囲まれていますが北側が切り開かれていて、矢筈峠に向かう林道が見え、左に1007.5m峰から乗鞍岳へと稜線が続いています。



振り返ると高城山が見えました。ミズナラやブナの道を南へ進みましたが、南峰山頂は全くの無展望なので、写真だけをとって北峰に帰りました。



下り道はしっかりした道で、最後は林道鞍部の高い土止めの上に出ました。小さなプラスチック板に、「すぐ上、武士ヶ峰登山口」とマジックで書かれていました。


(98)乗鞍岳(のりくらたけ) 「ここのキツネは人を化かしません」



乗鞍岳は吉野郡西吉野村と天川村の境に位置し、標高994m、二等三角点があります。馬の背に似て小さい起伏があるのが山名の由来でしょうか。「日本山名辞典」では、義経が熊野に逃れるとき、ここに愛馬を捨てたことにより山名が生じたといいます。孫引きになりますが『宮本常一先生の吉野西奥民俗探訪緑に、むかし、源義経が白馬に乗って、キツネ40匹と天狗47人を連れてここに落ち延びてきたとある。そしてこの山頂に白馬を乗り捨てて天に上がったという。またこの山にいるキツネは、いまも人を化かしたりはしないという。』(奈良山岳会「大和青垣の山々」)

 


もう20年近く前になりますが、西吉野の天辻から植林帯を富貴辻に登りました。謂われを記す立派な標示板と、横に石柱があり、左面に「右 五條、下市、左ふき はし本」、正面に「二の声は 何国の華そ ほととぎす 武蔵坊南岳」の文字が記されていました。



正面にゆったりした乗鞍岳を見ながら稜線を進み、短い急登を二度、最後クマザサの中を登るとあっけなく頂上に着きました。周囲を樹木に囲まれ、木の枝越しにチラチラと遠くの山や町が見えるだけ。二等三角点横にブリキ板が倒れていて、起こすとこんな文字が記されていました

『ここがご案内の「乗鞍岳」頂上で「海抜九九三米」周囲杉、檜山となり眺望が悪るいですが、「記念写真」でも撮して「頂上」征服の気分を満きつしてください』(原文のまま「」内は赤字)
名前の割に展望の悪いのは、地元でも気にされているようでした。

(99)大日山(だいにちやま) 「目出度い名前は富貴辻」
標高897.1m。天辻峠を挟んで乗鞍岳の反対側にあります。頂上近くに大日如来を祀る祠があり、登山道は地元の人により参道としてよく踏まれています。前項「乗鞍岳」の帰り、富貴の辻へ下りました。

標示板には「富貴辻の道標」について詳しく記されています。少し長いですが書き写します。
『ここ天辻は、江戸幕末の頃より天川・富貴・五條方面からの物資の集散地として栄え、峠付近は旅館、問屋など一時は100戸をこしほどの賑わいをみせた所であった。天忠(まま)組がこの地に本陣を構えたのはそう言った交通の便や、地形上、要塞の地として有利な地にあったためと言われている。
 この「富貴辻」は、北方の五條・下市方面、西方の富貴・橋本方面、そして東南の天川方面の丁度三叉路にあたり、街道を往来する人々の道案内としてこのような道標が建てられた。道標には歌が詠まれており、この種のものは吉野路においては唯一とされている。尚、施主の南条治郎左衛門は建立年である1846年に五條代官陣屋にて勤務し、武蔵坊南岳とは彼の号である。
(正面)二の声は 何国の華ぞ ほととぎす  (右面)弘化三丙午年正月 日 
(左面)右 五條 下市  左 ふきはし本 (裏) 施主 五條陣屋  南条治郎左衛門』



大日山を目指して石標の「左ふきはし本」の道を進みます。ほんの10m林道を進んだ所に大日山を示す小さい標示があり、NTT鉄塔の建つ台地に出ると乗鞍岳や唐笠山らしい整った山容が見えました。さらに林の中を登ると祠のある台地で、頂上の三角点はその上にありましたが暗い林の中で無展望でした。



天辻に下ると天誅組の遺跡(本陣跡)は、小さい小学校の校庭隅にありました。

(100)吉野山(よしのやま) 
「これは これはとばかり 花の吉野山」貞室



古くから桜の名所として知られ、多くの詩歌や文芸作品を生み、また古くは壬申の乱では大海人皇子の隠棲、頼朝に追われた義経の逃避行、更には芭蕉の門弟、支考の「歌書よりも軍書でかなし吉野山」の句で知られる太平記の舞台ともなった吉野山。

『大和名所図会』には「そもそも吉野山は満山桜樹にして、花時には積雪の朝のごとし。騒人墨客ここに遊賞し、その名中華に聞こえて天下の名勝なり。」と記されています。ここは熊野へと続く大峰奥駆道の起点であり、古くから山岳修験者にとって重要な山でした。



全山にサクラの木が多いのも、修験道の開祖・役小角(役行者)<写真・桜本坊にて>が修行中に感得した蔵王権現を桜の樹で彫ったことに始まり、以後、神木として「一枝を伐るものは一指を切る」と言われたほど、大事に育てられてきたからです。



金峰山修験本宗金峰山寺の本堂・蔵王堂はその蔵王権現を本尊として祀っています。この名からも分かるように昔は吉野山とは呼ばず、「金峰山」または「御金(みかね)の嶽」と呼ばれました。この名称は吉野川南岸から大峰山脈に続く一連の山並みの総称で、特に一つの峰を指すものではありません。よく知られるように、桜の開花は麓から下千本、中千本と進み、上千本、奥千本に至ります。



この間に点在する歴史的な建造物や、それにまつわる物語はあまりにも多いので、ここでは割愛します。


「雲を呑んで 花を吐くなる 吉野山」蕪村

*お陰様で100回を終えました。これから大峰山脈に入ります。引き続きよろしくお願いします*

奈良の山あれこれ(91)~(95)

2015-11-09 11:25:43 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
*吉野周辺エリア* 

(91)栃原山(とちはらやま) 「吉野三山の黄金岳」



この山と南に並ぶ銀峰山、櫃ヶ岳を吉野三山と呼びます。どの山も登山口から短時間で楽に登れる里山です。栃原山は吉野町栃原にあり、標高531m。『大和名所図会』に「黄金嵩(こがねだけ) 栃原村にあり、奇峰高く聳え、山色蒼々たり」と記された山です。頂上には『大和志料』に「金ヶ岳の宮」と記された波比賣(はひめ)神社があります。社頭の説明板によると「天平2年11月11日に創建されたと伝えられおり、水の神・雨師の神である『弥都披比賣神』が祀られて」います。



下市から車を栃原へ走らせると、山頂に大きな鉄塔が立つ山が近づき、以前に櫃ヶ岳、栃ヶ山に登ったとき見覚えのある「一の鳥居」の前に出ました。車道が鳥居を潜って続いているので、そのままもう少し上までと車を進めるうちに、NHK栃原中継所の建物と二本の高い鉄塔、見晴台などのある広場に着きました。



石段を登ると、すぐ波比賣神社の境内で、結局、歩かずに山頂まで来てしまいました。



三角点を探して境内や裏手の広場も歩くが見付かりません。おそらく金剛山の葛木神社のように神域周辺にあるのでしょう、あえて深入りはしないで、展望台から大淀や五條の市街地、金剛・葛城の山並みを眺めて、「金の嶽」をあとにしました。


(92)銀峯山(ぎんぷさん)
「吉野三山の白銀山」



大峰山脈前衛峰で甘南備山でもある吉野三山のうちで、五條市に位置しています。近在の人からは尊敬と親愛をこめて「岳さん」と呼ばれています。『大和名所図会』では「白銀岳。古田荘夜中村にあり。銀(しろがね)ヶ岳は南にして、金(こがね)ヶ岳は北にあり、吉野将軍の宮合戦ありしよし太平記に見えたり」とあります。『太平記』には「銀嵩軍事云々。四月二十五日、宮之軍勢二百余騎、野伏三千人をめし具し賀名の奥銀嵩といふ山に打ちがり…」の記事があります。



山頂には古田荘12ケ村の氏神である波宝神社が建っています。『吉野郡群山記』に「御社、道の左に有り。鳥居は、額に神蔵(カンノクラ)大明神と記す。」と書かれています。



山麓の賀名生は吉野に侵攻された南朝が皇居を移したところで、藁葺の堀家住宅が皇居跡として今に残っています。冠木門の扁額「賀名生皇居」は維新の志士・天誅組吉村寅太郎の筆によるものです。文久3年(1863)、高取城攻撃に失敗した天誅組は、白銀岳に本陣をかまえて追討軍に備えました。堀家には天誅組関係の資料も数多く残っています。



賀名生は梅林としても有名で、急傾斜の斜面に一目一万本といわれる紅白の梅が咲き誇ります。


(93)櫃ヶ岳(ひつがたけ)  「吉野三山の銅岳」



山名の通り、お櫃のような形で吉野町と五条市にまたがる標高781mの里山です。黄金岳、白銀岳の南にあり「銅岳」と呼ばれました。ここにも山頂に誉田別命を祀る八幡神社があり、里人の信仰を集めました。『吉野郡群山記』に「上笠木(現・吉野郡黒滝村笠木)より峯伝ひに行けば櫃ヶ嶽にでる。この辺、酢の木多し。ふしの木(ヌルデ)極めて多し。土俗も、女の歯を染める(お歯黒)に用ゆ。‥櫃嶽『興地通志』曰く「櫃岳在貝原村、以形名」(形をもって名とす?)」とあります。



この笠木からの尾根道や十日市から尾根伝いに登る道があるといいますが、私たちは森林公園「やすらぎ村」に車を置いて登りました。山腹を登っていくと櫃ヶ岳への標識があり、貝原地区の最後の民家を過ぎると舗装が切れ林道らしくなります。見晴らしのよい丘の上に「あずまや」があり、行く手に櫃ヶ岳の頂が見え、振り返ると丹生川を挟んで銀峰山から吉野の方の山々が見えます。左手遠くには金剛・葛城の峰々。林道を離れて鳥居をくぐり、ヒノキ林の中の急坂を少し登ると神社の拝殿前にでました。





社の後ろの小高い所に小さい祠とケルンがあり、東側の木の開から、思いがけぬ近さに行者還岳から大普賢岳に続く峰々、疎らに雪を付けた弥山の大きな山容が正面に見えました。



帰りにお隣の栃ヶ山に寄り道しました。



杉林の中、無展望の山で、途中で山仕事をしている人に訊ねても、「名前は知らぬが、この上にある山に登る人が時々ある」というほどの不遇な山でした。


(94)龍王山 「ここも水乞いの山?」



銀峯山から南西の尾根上にあり、途中、大峰山脈の展望がいい山です。

銀峰山の波宝(はほ)神社参道を下ると、正面に龍王山が見えます。賀名生へ下る分岐から道は細くなり、左手に大峰の連山を見ながら行くと杉林に入り、一本の木に「竜王山へ」の標識がありました。



踏み跡を辿っていくと倒木が連続していて、潜り、乗り越え、迂回しながら高みを目指します。やや道らしくなるとNHK中継所のある山頂でした。



標点名「夜中」の618.8m二等三角点がありますが、周囲はヒノキ林に囲まれて全く無展望の山頂でした。少し右側の明るく開けた柿畑からは和泉山脈、金剛山地の眺めが美しく、眼下には五條の町並み、手前に拡がる緑の田園風景の中に「柿の博物館」の屋根の朱色が鮮やかでした。ここへは急な舗装路が登ってきていて、西側へ下ると山腹を水平に横切る道に出会い、テープ標識のある登り口に帰りました。


(95)扇形山(おうぎかたやま)  「扇を拡げたような形の山」

吉野から洞川への道は、江戸時代から大峰山への「山上街道」と呼ばれ、広橋峠からいくつもの峠を越えていきます。



小南峠はその最後の難所で、先達に率いられた白装束の人たちが喘ぎながら登ったところです。『あまりにも苦しい峠道なので貴重な米すら投げ捨ててしまう「米投げ」が転訛して「こみなみ」となった…「ひだる神」に憑かれ、歩行不能になった者も多かったことが伝承の由来かもしれない。(Wikipedia)』 

この峠から西に延びる尾根上に標高1053mのこの山があります。稲村ヶ岳の方から見ると、扇を拡げたような美しい形をしています。尾根が峠から東、さらに東南に回り込むと大天井岳に至ります。 

私たちは大天井岳に登る前に、今はトンネルが抜ける小南峠に車を置いて2時間ほどで往復しました。トンネルの上を通る尾根の中腹を捲いて行き、黒滝川沿いの集落を見下ろしながら緩く登り、15分で送電線鉄塔の下に来ます。左手には稲村ヶ岳と大日岳が見えました。コルに降り、しばらくはヒノキ林の中、殆ど水平の道を進みます。



やや登りになると笹原の中に立つ2本の送電鉄塔の下を通り、少し急坂を登ると扇形山の頂上でした。二等三角点が埋まっていましたが、樹木に囲まれて展望は全くありませんでした。