ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(84)~ (85)

2015-10-10 10:42:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
84)笙ノ峰 

 
笙の内ともいいます。大蛇を挟んで東ノ川の対岸、かっての河合道(今は小処温泉に下る道として知られています)が逆峠を過ぎて竜口(リュウゴ)尾根を分ける地点から、西へ約1㎞の尾根上にあるピーク。小処温泉からは笙ノ峰、逆(さかさま)峠、開拓を経て約6時間で山上駐車場へ登ります。しかし、この道は逆峠より環境省の「西大台利用調整地区」を通るので入山規制があり、近頃は安易には歩けなくなりました。入山には手数料1000円を支払って立入認定証の交付を受け、更にビジターセンターで講習を受ける必要があります。
 
2007年9月から始まる入山規制を前に、7月に慌てて未登だった笙ノ峰に登りました。大台ケ原ドライブウェイのワサビ谷降り口からは、釈迦ヶ岳から弥山、行者還岳、大普賢岳へと続くスカイラインが鮮やかに眺められ、和佐又山の手前に美しい円錐形の辻堂山が並んでいます。自然林の中を下ると次第に谷の瀬音が近づき、やがて清冽な流れのワサビ谷に降り立ちます.
 
ワサビ谷について「世界の名山・大台ヶ原山」にこんな面白い話が載っています。『山葵谷の渓流、天生の山葵青々たり、人の知る如く山葵は蟹の嗜むところ、故にこれを栽るもの皆蟹害を嘆ぜざるはなきに、奇しむべし大台の地、一の蟹類を見ず、これはた水質寒冽、其棲息繁殖を許さざるによるか…、』谷沿いにいくと西大台周遊路の七ツ池との分岐があります。地形図の点線路は尾根筋で逆峠(サカサマトウゲ/1411mピーク)に続いていますが、周遊路はここから尾根東側の平坦地を行きます。



開拓分岐を過ぎて小処温泉へ続く道に入り、木の階段を登ると西大台展望台にでます。



正面に大蛇クラが、中ノ滝はここからは左下方に見えます。引き返して、広い尾根のコブを越えたところに逆峠の標識がありました。地形図の逆峠の位置よりは、東へ約200m離れた尾根左下の地点になります。
 
ときどき東ノ川対岸に聳える大蛇の姿を見ながら山腹の谷沿いに捲き道を行くと、竜口(リュウゴウ)尾根への分岐で、ここまで南下してきた道はほぼ直角に曲がって西に向います。



クラガリ股谷の源流を過ぎ、稜線から60~70m下をほぼ等高線沿いに進み、疎らな笹原の急坂を登って笙ノ峰山頂(1317m)に立ちました。



三角点付近は美しい林の中ですが、南側へ10mほど下った切り立った崖の上から、南から西にかけて視界が開けます。南には、すぐ近く山腹に林道の通る又剣山、その右肩に荒谷山、更に右には遠く那智の山々が並んでいます。西には、笠捨山から地蔵岳、釈迦ヶ岳、八経ヶ岳、弥山とつづく大峰山脈が一望できました。
 
 
奈良の山あれこれ(85) 西大台周回 「苔むした岩と倒木の秘境」
 
*入山規制区域です。入山には環境省地方環境事務所のHPをご覧ください。* 
 
台高山脈の主峰・大台ヶ原山のうち、三津河落山と経ヶ峰間の尾根南側に拡がる台地をいいます。日本一の多雨地帯だけに、苔むした原生林などの美しい大自然が残っています。



駐車場の北端から大台教会「たたら亭」の前を下ります。林を抜けるとナゴヤ谷の明るい河原に降り立ち、沢を渡ると松浦武四郎の碑への分岐があります。



松浦武四郎は幕末から明治にかけての蝦夷地(北海道)探査で名高い人で、晩年は大台の開拓に尽力されました。碑は御霊丘と呼ばれる小高い丘の森に立っています。 



大正12年大台教会発行の「世界乃名山・大臺ヶ原山」に以下の記事がありました。少し長くなりますが、現在碑文は判読できないほど古くなっていますので、引用しておきます。

〇御霊岡  大台教堂を距る五町可り、渓流を隔てし彼方の丘岡を云う。松浦翁を始め、大台ケ原開拓に旧縁あり、功労ありし人々の神霊を齊き奉る、境域数十頃、幽邊閑寂にして山気膚を刺す、昇り盡せば直ちに伊勢国なる御料林に連接す、松浦翁の碑は通路より約半町の処にあり、文は明治初年の碩儒南摩羽峯先生の撰、書は一河三兼翁の筆にして松浦翁の閲歴と共に三美を以て称せらる、台原名跡の一なりしが、惜ひ哉前年烈風の為め倒され、上半部を砕き去られしこそ恨みなれ、其全文左の如し

大臺山、跨和紀勢三国、其巓夷漿、而有水利、拓之可穫三萬石、北海翁欲拓之
年過耳順、面登五次、大有所経書焉、既而羅病不果、遺言曰、我死則葬此山、
及歿嗣子一雄、将従遺言、而官不許、因建追悼碑、於山中名古屋谷、以表其繾錈之意、
謁余乞文、余乃併記翁平生曰、翁夙有志拓蝦夷、屢往相其地理、風土、人情、物産、
著職夷沿海圖二十餘員、三航蝦夷日誌三十六巻  
既而幕布、置箱舘奉行柘之、明治維新、置開拓使、櫂翁任判官、叙従五位、改蝦夷稱北海道、
定國郡地名、以致今日之盛、蓋翁之力居多焉、翁乃造大鏡五、背刻日本地圖、殊詳北海道、
納之西京北野社、東京東照宮、大阪天満宮、大宰府菅公廟、吉野大峰山、以傳不朽  
翁好遊、足跡遍四陲、其至深山窮谷、無人之境也、毎負三小鍋、自炊而起臥林中、
後座之近江、稱鍋塚、常遍訪菅公遺跡、皆建石表之、又献所蓄古錢数百文 於朝廷、朝廷賞賜千金
翁爲人、志大識遠、而氣鋭、克勤克儉、而勇於義、臨事不惜千金、宣其爲非常之事也、
鳴呼國家政教日新、開拓之業月進、意必不出敷十年、大臺山荊棘、變爲禾恭豊饒之地、其猶北海道、
於是乎、翁泉下之喜可知也、翁諱弘、稱多氣志郎、北海其號松浦氏、伊勢小野江村人、壽七十一  明治二十二年九月



ゴヤ谷左岸を少し遡って再び河原に降り、小さな尾根へ登ると山腹を捲く水平道になり、涸沢を幾つか渡ります。すぐ頭の上にドライブウェイが近づきますが、道はここから西に向かい、再び静まりかえった原生林の中に入ります。



窪地に雨水がたまっただけの湿地帯の七ツ池を過ぎ、苔むした岩がゴロゴロしている沢に沿っていきます。この辺り、しっとりと水分を含んだ苔もササも活きいきとして、西大台らしい雰囲気が横溢しています。



カツラ谷を渡ると山間の小平地「開拓」に来ます。



ブリキの説明板には『明治の頃この地、高野谷で開拓し、そば、ひえ、大根、馬鈴薯を播種したが、大根、馬鈴薯のみ生育し、他は結実せず廃す。そのため、現在地名として残って居る。又、高野谷は弘法大師が大台に寺院を草創せんとしたが、深山のため、現在の高野山に変更したと伝えられている』と地名のいわれが記されていました。(2001年の山日記。2007年にはブリキの説明板が半分に壊れていました)



「世界の名山・大台ヶ原」によると、この開拓事業を始めたのは京都興正寺で、明治3年のことといいます。高野谷を渡り、次のワサビ谷を越すとT字路の開拓分岐です。直進すると前項の西大台展望台への道で、広い河原を流れるのが「サカサマ川」です。『此わたり西北より来たりて東南に流るる一水あり、逆川と云ふ、凡そ大台全山の渓流、皆源を東に発して西に流る、独り此の川、西より来たりて東に流るるが如くなるを以て此名あり。(世界の名山・大台ヶ原山)』 



開拓分岐で左に折れ、吊橋を二つ渡ります。小岩がゴロゴロする急な登り道の傾斜が緩むと、大岩の下からこんこんと清水が湧き出ている「弁慶の力水」にきます。



(2000年には「たたら力水」の標識がありましたが、2007年にはこの名前に変わっています)木の橋を渡り、笹原の中の急登で大台教会の横に帰りました。


コメントを投稿