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ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(61)~(65)

2015-07-21 21:27:38 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<宇陀高原エリア>

(61)大平山 
「山麓に日本茶発祥の寺」

<手前中央、背後は貝ヶ平山・額井山>

宇陀市榛原区高井にある山。山麓にある仏隆寺は榛原から続く伊勢街道に近く、嘉祥三年(850)、堅恵(けんね)の創建と伝えられる真言密教の古刹です。堅恵は空海の高弟で、師が唐から持ち帰った茶の種をこの寺内に播いたのが日本での茶栽培の始まりと伝えられ、堅恵が茶を挽いた石臼は寺宝となっています。また門前の望月桜(もちづきさくら)は県最古の巨樹といわれ、天然記念物に指定されています。

仏隆寺から車道を下り、井戸杉の手前で林道・室生ダム開路線に入ると、100m程で大平山への登山口があります。マツやヒノキの林を登り、苔蒸した石がごろごろする涸沢からヒノキ林の急登で稜線上の峠に出ます。痩せ尾根を過ぎ、ピークを一つ越すと胸を突く急坂で大平山頂(711.5m)です。

狭い山頂は木に囲まれていますが、南側だけがほんの少し開けて、田圃の中に民家の点在する赤埴方面、遠く雪を被った薊岳あたりの台高の山が見えました。 

急坂を下り、やや顕著な岩稜を少し登りかえして尾根上の倒木を避けながら山腹を捲いていくと高峰山(802m)。

山頂は深い樹林の中でまったく展望はありません。

急坂を下り、ヒノキ林の中の758.8m四等三角点を過ぎて「明治百年記念造林」の碑が立つ峠から南に下ると、役行者像が祀られた唐戸峠にでました。

(62)三郎ヶ岳
「三兄弟の末っ子の山」

陀市榛原区曽爾村にある倶留尊山を太郎山、曽爾村と宇陀市の境の住塚山を次郎山、この山を三郎ヶ岳(879m)と呼び、古くは佐武良ヶ岳とも記しました。

遠望すると頂上部はなだらかな円形で優美な姿です。北山麓を室生寺に通じる室生古道、南麓には伊勢参りで賑わった伊勢本街道が通っています。旧室生街道(室生古道)は室生寺への参詣道で、高井宿で伊勢街道と分かれ、仏隆寺、唐戸(からと)峠を経て室生寺に至ります。また、伊勢本街道は高井宿から諸木野(もろきの)関、石割峠を越えて伊勢へ続いています。難波と伊勢を結ぶ伊勢街道は、他に阿保越と呼ばれる北街道、高見越と呼ばれる南街道がありますが、本街道と呼ばれるこの道はその中間を通っています。 

  明開寺奥ノ院

三郎ヶ岳への最短コースは伊勢本街道石割峠からです。峠近くにある石割山明開寺は日蓮宗の小さな、山に抱かれたような寺で、本堂と住居の間を通り抜けるとすぐ山道になります。奥ノ院を経て急坂を登ると山頂に着きます。

北東に住塚・国見・倶留尊山

東に局ヶ岳、栗ノ木岳、三峰山

南東に迷岳、大きく高見山、右端に遠く白髪岳、南に大峰・台高の山々、西は金剛・葛城と素晴らしい展望が得られます。高井から仏隆寺、高城山を経て三郎ヶ岳へ登り、石割峠へ下るのが一般的なコースです。

(63)高城山(たかぎさん)
「神武天皇国見伝説」



三郎ヶ岳と稜線
伝いに西に隣りあう山で標高は810。赤埴山(あかはにやま)の別称をもち、神武天皇の国見伝説が残ります。

三郎ヶ岳からしばらくは急な下りで慎重に降ると、後は道もはっきりしていて、のんびりと稜線歩き。小さなピークを越してまた急降下、最後に急坂を登ると四阿のある高城山頂上に着きます。

少し先の三角点と祠のある所の方が見晴らしよく、展望図も備えられています。左手にはここから見ると鋭さにかける高見山、そして特長ある袴ヶ岳の上に伊勢辻山。

ずっと右手に大平山、その上に鳥見山、貝ヶ平山、額井岳が並んでいます。

下山はちょっとした露岩にも真新しい鎖が取り付けられていて、安全に林道まで下ることが出来ます。山頂から仏隆寺まで約40分でした。

宇陀市のHPによると、仏隆寺は「室生寺の南門、すなわち正面の門として極寺と末寺の関係にあり、室生寺の宿坊または住職の隠居寺として重要な役目があった。』お寺だそうです。

(64)袴ヶ岳(はかまがたけ)
「美しい円錐形の山」

伊勢本街道を挟んで北の三郎ヶ岳、高城山と向かい合う四等三角点816.7mの低山ながら、高城山から見ると美しい円錐形で登行欲をそそられます。

2008年冬、この山に登りました。高井で仏隆寺への道を分け、赤埴(あかばね)から細い道を諸木野川沿いに遡ります。埴(はに)は土器や瓦に使われる粘土のことですので、おそらく水銀を含んだ赤い色をした土が採れた土地と思われます。

諸木野の集落を抜け、峠に向かってしばらく走った地点に駐車。急な道を30分ほどで内牧から登ってきた林道と出会い、ジメジメ山道を峠らしいところに登り着きました。

テープに導かれて尾根道をいくと、780mピークからはしっかりした山道になり、鞍部から登り返して露岩を越えると、狭い頂上でした。

展望は松と灌木に遮られる真北を除いてほぼ360度で、更に遠く伊勢の山が霞んでいました。下りは780mピークから左の石割峠に続く尾根から谷に出て、しばらくで伊勢本街道に出ました。

(65)室生山(むろうさん)
「女人高野山」
かなり前(78年5月)になりますが、仏隆寺から室生寺まで室生古道を歩いたことがあります。カラト池の峠に来ると、室生川を隔てて緑の室生山が姿を現しました。それまで退屈な広い道を歩いてきただけに、この眺めは強く印象に残っています。この峠はカラミタ峠と呼ばれ、空海が室生山を開くとき、この峠からの景色を「唐(カラ)を見たようだ」と絶賛した所といいます。またカラト池は室生火山帯の古い火口の跡にできたと聞いたことがあります。

室生山は東西二峰あって、東の焼山(652m)の方が標高が高いのですが、普通は室生寺奥の院のある如意輪山を指していいます。

境内から奥の院への参道途中、無明橋のかかる谷間周辺にはシダの大群落があり、「室生山暖地性シダ群落」として天然記念物に指定されています。

400段の長い石段を登ると奥の院です。ここから如意輪山頂(621m)へは、はっきりした道はなく、薄い踏み跡を探して登りますが、山頂は深い樹林の中で、無展望です。

室生寺は、寺伝によると役行者の開山、空海の再興とされ、「女人高野」として名高い真言宗の古刹です。国宝五重塔をはじめ、本堂、金堂(いずれも国宝)はじめ重要な建築物が多く、境内にシャクナゲが多い花の寺でもあります。

北西の室生ダムに続く竜鎮渓谷の竜鎮神社や、南東1キロに室生竜穴神社など、周辺には室生開山に竜神が関係することを示す旧跡が残っています。


奈良の山あれこれ(56)~(60)

2015-07-20 21:52:20 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(56)額井岳(ぬかいたけ)<2>

「万葉歌人伝説の山」

南山麓を東海自然歩道が通っています。

「山辺三」は、『田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ 富士の高根に…』の万葉歌で有名な山辺赤人の出身地と言われ、彼の墓と言われるものが残っています。

「額井」の名については、『大和志』宇陀郡の「村里」の項に記載されていますが、「山川」の項に「額井岳」には見当りません。一方、香酔峠を挟んだ西の香酔山(こうずいやま)(800m)については「香水山。赤瀬村の西北に在り、城上山辺の二郡に跨る。山巓に竜王祠有り。旱(ひでり)の年に雨を祷(いの)る」とあります。香酔峠の近くにはスズラン自生の南限地、吐山(はやま)があり、山と峠の名はこの花の芳香からきています。

額井山麓の十八(いそは)神社は神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと・神武天皇)を祭神とし、今は廃寺となった極楽寺の鎮護社を地元の産土神として祀った神社で、春日作りの神殿が建つ境内からは室生の山並みが一望できます。

(57)戒場山(かいばやま)

山麓に「お葉付きイチョウ」の戒長寺

額井岳の北東の峰続きにある山です。山名の由来は、読みから「家畜の飼料を取った所、飼い場」とか、字義から「仏教の戒律を守るところ」とか言われています。

南山麓には戒長寺があります。寺伝では用明天皇の勅願による聖徳太子の建立で、空海も修行した寺といいます。質素な佇まいですが、境内のお葉付きイチョウと十二神将を鋳出した重要文化財の梵鐘で有名です。

イチョウは目通り4m、高さ30mの大木で樹齢500年。ごくまれに葉に実が付くという珍しいもので、県指定文化財に指定されています。2008年に行った時、境内は、ぎっしりとイチョウの葉で埋め尽くされて黄金色の絨毯を敷いたようでした。

その中から妻が何個か見つけましたが、和尚さんは「寺でも焼酎に漬けておいて参拝者に見せている」ほどで、数が少ないとおっしゃいました。普通のギンナンは正月の参拝者に配るそうです。

この戒長寺境内を通り抜けた右手から山道になり、クマザサの中を登ると稜線の小さいコルに出て、左に行くと寺から40分程で山頂に着きます。樹木に囲まれた平坦地で展望はありません。別に、山部赤人墓から北へ登ると、奈良市都祁小川口に通じる戒場峠があります。ここから左(西)に行けば額井岳、右すれば戒場山で、峠から約30分で山頂です。私たちはいつも秋の紅葉の時期に、隣りの額井岳から稜線を辿っています。

(58)城山 

櫻井市と宇陀市榛原区の境にあって長谷寺から正面に大きく見える山ですが、2万5千図には山名も山頂への道も記されていません。城山という名の山は、名阪国道近く(別名・椿尾塁)、大和高原の馬場、白石、吐山、室生の竜口などにもあります。

 いずれも山城が築かれていたことから付いた山名です。この榛原の城山は戦国時代に宇陀三将の一人、秋山氏の出城があったところと考えられています。岳山という別名もあります。

新陽明門院笠間山陵右手の道を北へ登ると、15分ほどで鉄塔の下に出て、しっかりした踏み跡が左から延びてきていました。さらに20分登るとNHK宇陀中継所のTV塔のある平坦地。東西に延びる稜線上のT字路で、ここが宇陀松山の出城のあった場所と思われます。

西へ100m程、深いクマザサを漕いでいくと、草の茂みの中に山名板と三角点(525.5m)がありました(笠間山稜から45分)。

59)伊奈佐山(いなさやま)

宇陀市榛原(はいばら)区一帯はもとの伊那佐郷でした。その南の郊外にある山で『大和志』には「一名山路山、山路村の上方にあり」と記されています。

記紀にも登場する古くから知られた山で、『日本書紀』神武天皇即位前紀に、吉野から宇陀に入ろうとした神武軍が連戦に疲れたとき、天皇が墨坂で「御謡(みうた)を為(つく)りて将卒(いくさびと)の心を慰(やす)めたまふ」として「楯並(な)めて伊那瑳(いなさ)の山の 木の間(このま)ゆも い行き瞻(まも)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」の歌を詠まれたと記しています。伊那佐文化センターの前にこの歌碑があります。

伊那佐文化センターから山頂までは十八丁を示す江戸期の石標に導かれて、スギやヒノキの植林の中を登ります。古来、日照りが続くと「だけのぼり」と称して、降雨祈願に登った道でした。

山頂には式内社の都賀那岐(つがなぎ)神社が建ち、三角点は社殿裏にあります。

伊那佐山から南西の稜線上、標高約525mピーク(城山)に沢城址があります。14世紀後半に宇陀地方の將、沢氏により築城され、後のキリシタン大名高山右近が幼時を過ごしたところです。

(60)日張山(ひばりやま)

「中将姫所縁の山」

奈良県宇陀郡菟田野町にある標高595.1mの低山ですが、この地方では中将姫伝説でよく知られています。

『大和名所図会』に「日張山また鶬山と書す。宇賀志村にあり。山中に青蓮尼寺あり。鶬雲庵は中将姫法如尼の閉籠の地なり」とあります。継母によりこの山に捨てられた中将姫は、嘉藤太に助けられてこの寺で念仏三昧の生活を送っていました。たまたま狩りに来た父・藤原豊成に対面し奈良に帰った後、再び出家して当麻寺に入り、蓮葉の糸で当麻曼陀羅を編み上げます。のちに19歳でまたこの地に帰り、青蓮尼寺に自分と恩人・嘉藤太の像を刻んで安置したといいます。

現存の青蓮寺の開創などは詳しくは分からず、「ひばり山」は「火祝り山」が語源とする説もあります。2008年5月、宇陀市菟田野宇賀志から宇賀志川に沿って上流に向かいました。

源流の無常橋を渡り、つづら折りの道を登ると、中将姫の歌碑を過ぎて青蓮寺に着きます。

宇賀志から約4km、1時間でした。

墓地の横から山道に入ると20分で頂上三角点ですが、樹木に囲まれて展望は得られませんでした。


奈良の山あれこれ(51)~(55)

2015-06-25 16:41:26 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(51)都介野岳(つげのたけ)<1>
「ツゲの富士」

大和高原にある低山ながら美しい円錐形の山容で、都介野富士とも呼ばれています。都祁は「闘鶏、竹谿」とも表記されましたが、語源は櫛の材料で知られる「黄楊(つげ)」というのが通説になっています。都祁の辺りは大和朝廷以前に「都祁国」が栄えたところで、都介野岳はその神山として信仰の対象でした。小川光三氏の「大和路散歩ベスト8」では『呉音でツゲと読む都祁は漢音ではトキで、トキとは古代朝鮮語で日の出を意味する言葉である。したがって都祁国は日の出の国のことであり、都介野岳は都祁野(ときの)の岳山、つまり天を祀る神山であった。』と記されています。

 柏森

ずいぶん昔のことになりますが、1989(平成元)年5月3日の山日記に「車で南之庄まで移動して電報局の前にパークする。すぐ裏に都祁の国造の墓と伝えられる三陵墓古墳がある。金剛廃寺の跡、観楽寺を通り抜けて柏峰に緩い登り。林の中に古代信仰の名残の磐座と三角点がある。都介野岳が天を祭る、中国でいう圜丘とすると此処は方丘にあたり地の神を祭ったところであろう(小川光三氏説による)」と書きました。

南之庄から南へ行くと分岐があり、どちらからも山頂に登れますが、私たちは柏峰(上の写真)へ立ち寄るために右側から登りました。

頂上(631m)まで約30分でした。


 

(52)都介野岳(つげのたけ)<2>
「雨乞いの山」

都介野岳は頂上に竜王を祀ることで分かるとおり、水を司る龍神信仰の山で、田植えの水を願ったり、そのお礼や雨乞いのために、古くから近隣集落の人々が登ってきました。西南山麓に都祁山口神社があります。この辺りが都祁国の中心であったところで、各所にツゲが自生しています。社の裏山にも「都祁直(つげのあたい)霊石」という磐座が祀られています。また、南之庄に三陵墓があります。直径40mの円墳で、闘鶏国造(つげのくにのみやつこ)の墓という伝承が残っています。

北西一㎞ほどの友田には都祁水分(つげみくまり)神社があります。大鳥居から広い参道が重文の拝殿に続く立派な式内社で、境内外れの杉の根元に「山辺の御井」があります。

昔は「山辺の三井」といって閼伽井、日賀井、藤井の三つがあり、そのうちの閼伽井に当たると言われています。横の石燈籠には「山辺の三井を見ても神風や伊勢の乙女に相みつるかな」と刻まれているそうですが、私には勿論読めませんでした。

近くに朝命で都介野を開拓した小治田安万呂(おはりだのやすまろ)の墓があります。


 

(53)貝ヶ平山(かいがひらやま)
「鐘ヒラ山の謎」



(鳥見山との鞍部より)

奈良県櫻井市、奈良市都祁吐山町、宇陀市榛原区の三市境にまたがる、額井(ぬかい)火山群の最高峰(822m)。南側からは鋭い山容を見せますが、西側から見ると横に長いゆったりした姿をしています。



私の住む大和郡山市や矢田丘陵からも、大和平野の東に並ぶ山々の奥にくっきり見えています。

南山麓に二枚貝の化石が採取された跡があり、この辺りが太古(約二千万年前)には海底であったことが分かります。山名はそれから来ています。

昔はカネヒラ山ともいいました。昔、吐山の男が芝刈りにこの山に入ったところ、山鳴りのような音がするので山腹を見ると大きな鐘が岩から頭を出しています。驚いて村役を呼びに行って帰ってみると、岩に大きな穴が開き、鐘は大阪湾から堺まで抜けて行きました。桃の節句には頭を海の上に出していた鐘は再びカネヒラ山に帰り、月の輪と呼ばれる黄色い場所の地中に埋もれて、年とともに移動しているといいます。



吐山より左は香酔山、右・貝ヶ平山

吐山はスズランの自生地で、貝ヶ平山から東へ稜線続きに香酔山(795m)という美しい名の山もあります。山の名はスズランの花の香りから来ています。また香酔(水)峠には神武天皇東征の時に清らかな水の流れるこの峠で人馬を休ませたとか、後醍醐天皇が笠置から吉野に向われる時にこの峠で芳香がしたため休まれたという伝説が残されています。


 

(54)鳥見山(とみやま)
「神武天皇の祭祀跡」



左から鳥見山、貝ヶ平山、香酔山(玉立から)

貝ヶ平山から南西に伸びる稜線上にあります。国道165号線が桜井から榛原に近づく頃、西峠を通ります。その北の弓の形をしていると言われる大きな山で、ボタンで名高い長谷寺も遠くありません。

山頂へ向かう途中の鳥見山公園はツツジがきれいな処ですが、ここに「鳥見山中霊畤址」(とみやまなかまつりのみやあと)という碑があります。日本書記に『己立霊畤於鳥見山山中。其地号日上小野榛原』とあり、神武天皇が大和を平定したのは神霊の加護のお蔭と、この地に祖神を祀ったと記されています。

『和州旧跡幽考』に「神武天皇長随彦(ながすねひこ)と闘ひ給ひしとき、金色の霊鵄(れいし)(トビ)飛来たり皇弓の弭(ゆはず)にとどまれり。其鵄光かがやくこと流電の如し。かかりければ長随彦軍破
れたり。鵄の瑞を得給ひしより鵄邑と名づけり。今、鳥見というは訛り」の記述があります。なお奈良県には他にも5カ所の鳥見山霊畤址があり、一時はどこが本当の場所か論争があったそうです。

貝ヶ平山からは何度か登りましたが、2005年1月、この年の干支の山には人口のダム湖・まほろば湖畔から歩き出しました。馬乗り石、城址の残る高塚山を通り、5.6km・1時間40分ほどで鳥見山公園(ここまで車でも来ることができます)。

5月にはツツジで賑わうところですが、勾玉池の水面には薄い氷が張っていました。赤い鳥居の横から「2000年の森」を抜けて展望台に登ると、眼下に榛原の町、正面に竜門岳、音羽三山が見えました。



吹き曝しの稜線を頂上に向い、公園から30分足らずで三角点に着きました。

(55)額井岳(ぬかいたけ)<1>

「大和富士」

奈良市都祁吐山町と宇陀市榛原区の境。大和高原の南端に位置するこの山を中心に、西にある貝ヶ平山、香酔山、東の戒場山(かいばやま)などを額井火山群と呼び、その主峰です。「大和富士」の別称通り富士山型の秀麗な山容で、南の榛原や室生ダムからは、左右に支峰を従えた「山」の字形に見えます。

この山も大和に多い雨乞いの山で、頂上に水神を祀る小さな祠があります。旱魃の年には火を焚き降雨を祈る「岳参り」が行われました。

頂上台地の南側が切り開かれた展望台からは龍門山系を初め、遠く大峰、大台の山々が望まれ、眼下には榛原や大宇陀の町並みが拡がります。頂上北側からは西方に鳥見山、貝ヶ平山と見事な展望が開けます。


奈良の山あれこれ(46)~(50)

2015-06-12 17:21:03 | 四方山話

 *「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(46)金剛山<3>

「一言さんは男神?女神?」

一言主を祀る神社は森脇にあります。この神様は願い事を一言だけ叶えて下さると信仰を集めています。

雄略天皇が葛城山(現・金剛山)で狩りをしたとき、向かいの尾根を天皇一行と同じ装束をした行列があり、怒った天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたので、驚いて自らの弓矢・刀剣、供の者の衣服を献上して拝み奉った…と古事記にでています。

 しかし日本書記では「天皇と供に狩りを楽しんだ」「最後は一言主が天皇を来目水まで送ってきた」という記述になります。雄略天皇狩場は葛木神社と道を隔てた南側尾根にあり、このとき天皇は東雄略谷から登ってきたそうです。

さらに後の日本霊異記では、一言主神は岩橋山で役行者に使役されるようになります。時代が下がるにつれ、天皇の権力が強まるのと反対に一言主を祀る古代豪族・賀茂氏の力が弱まっていく過程を表しているように思えます。

この一言主神は世阿弥の謡曲「葛城」では女神として登場します。雪の葛木山中に行き惑う羽黒山伏たちを庵に招き、昔、岩橋を架けることができなかったので(岩橋山の項参照)、『役の行者の法力により蔦葛で縛られ、苦しんでいると明かし、消え去ります。山伏たちが、葛城の神を慰めようと祈っていると、女体の葛城の神が、蔦葛に縛られた姿を見せました。葛城の神は、山伏たちにしっかり祈祷するよう頼み、大和舞を舞うと、夜明けの光で醜い顔があらわになる前にと、磐戸のなかへ入っていきました。(the能.com)』

芭蕉は「笈の小文」の吟行で葛木山麓を通ったときに、『猶みたし花に明行く神の顔』を残していますが、この神はもちろん「一言主神」です。

 

(47)金剛山<4>

「郵便屋さんの通った道」

高天は高天原に比定される静かな農村地帯の集落ですが、ここの高天彦(たかまひこ)神社の境内にも「蜘蛛伝説」があります。
ここにいた大蜘蛛と猿伐(さるち・集落名)の大猿は仲が悪く、大猿が投げた竹の矢で知んだクモを境内に埋めて塚を立てたというお話です。なおこのクモは天皇の勅使が矢を放って征伐したともいわれ、こうなると前述の葛城山の土蜘蛛を連想します。

この高天彦神社の前から金剛山に通じる道は、御所の郵便局員が昭和10年から終戦まで徒歩で、山頂へ郵便物を配達したことで「郵便道」と呼ばれ、奈良側では最短の登山コースとして私たちも良く利用します。(日露戦争の戦勝を知らせたという話もありますが、御所市のホームページの記事では上のようになっています。)

2013年の台風による被害で一部、迂回路になっていますが、高天の滝から約2時間で山頂に達します。

春にはヤチマタイカリソウ(↑)やルイヨウボタンの花に出会えるのが楽しみで、急坂の多い道も苦になりません。

 

(48)金剛山<5>

「行者さんの修験道」

湧出岳三角点のすぐ傍に「妙法蓮華経如来神力品第二十一経塚」があります。「役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚(Wikipedia)」の一つです。法華経は釈迦晩年の最高の教えと言われ、28という数字は釈迦が56億7千万年後に弥勒菩薩となってわれわれ衆生を救済する様々な方法を示します。

役行者はそのお経を友ヶ島(序品)から大和川の亀ノ瀬岩(普賢菩薩勧発品)に至る葛城山系二十八ヶ所に埋め、その上に経塚を置いたと言われています。

金剛山中では他に石寺址に「第二十常不軽菩薩品経塚」が残っています。江戸時代末期、この二十八ヶ所の経塚、行場を巡る山伏修験道が盛んとなり、金剛山頂の転法輪寺がその大本山でした。

 二上山雄岳

2003年刊ヤマケイ関西「金剛山」所載の葛木神社禰宜・葛城裕氏による「金剛山史」からの孫引きですが、貝原益軒の「南遊紀行」に『絶頂に葛城の神社あり、大社なり、一言主神という。役行者堂あり。(中略)山上より二丁西に下れば河内国金剛山転法輪寺あり、役行者開祖なり。これ山伏の峰入りして修行するところなり(後略)』と書かれています。金剛山については、まだまだ書きたいことが山ほどあるのですが、次の山が待っていますのでこれで止(とど)めます。

 

<宇陀高原エリア>

(49)烏塒屋山(からすのとややま)

「ヤタガラス伝説の山」

榛原から南へ吉野に向かうと、正面に鋭い円錐形の美しい山が見えてきます。山頂は宇陀市大宇陀区と吉野町の境になります。

宇陀は神武東征にちなんだ伝説の多い地で、榛原区に八咫烏神社があります。八咫烏(ヤタガラス)は神武天皇が熊野から大和に入るときに、アマテラスオオミカミから使わされ道案内をした神様で、烏塒屋山にも八咫烏伝説が残されています。

山名の「烏」は「八咫烏」のことで、「塒屋」はねぐらの意味です。この山の北にある大蔵寺は、寺伝によると聖徳太子の創建。空海が真言宗最初の道場と定めたことから「元高野」とも呼ばれました。

2000年秋、下栗野の「老人憩いの家」に車を置き、土地の人に聞いた道を登りました。里山の例にもれず道が錯綜して分かり難かったです。見通しの悪いヒノキ林の中を登り、尾根に出て左に折れ、頂上直下にくると伐採中で、倒木を迂回しながら急坂を登ると山頂の三角点にでました。小さい石碑と幾つかの山名板がありました。北側だけが少し開けて伊那佐山の方が見え、南側は木の間から龍門ヶ岳や津風呂湖がチラホラ見える程度でした。あれからもう15年、今は伐採が終わり、かなり状況も変わっていると思われます。

(50)野々神山

「この山登れません」

名阪国道・針ICから南下すると白石に来ます。この辺りは古代、ツゲ国があったとされる都祁の中心地。国津神社から雄神神社に向かって、ヤスンバという叢林が並んでいます。

雄神神社の背後の二つの山が雄神山(550.6m)、雌神山(531.5m)からなる野々神山。土地の人は「ののさん」と親しみをこめて呼んでいます。三輪山と同じく御神体山で、雄神神社は大神神社の奥ノ院とも言われています。大神神社と同じく本殿はなく、拝殿の後に山に向かって鳥居があります。

しかし三輪山と違って禁足山で登ることはできません。山頂には岩窟があって白い大蛇が住んでいて、この蛇を見たものは死ぬと言われています。昔、雄雅(神)山で悪事を働いた者が二つの神社の間にある伏人橋まで帰ってくると、先廻りして待ち伏せていたナガモノ様に食い殺された伝説があります。

「岳参り」ができない代わりに、この山は神様が豊作をもたらすために自ら下りてこられます。ヤスンバはその時にお休みになる「休み場」なのです。


奈良の山あれこれ(41)~ (45)

2015-06-10 17:37:21 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。* 

<生駒・金剛エリア>(41)葛城山<2>

「土蜘蛛退治」

葛城の地名(元の読みはカズラキ)については、『日本書記』に「高尾張邑(たかをはりのむら)に土蜘蛛あり。その為人(ひととなり)、身短くして手足長し。(中略)皇軍(みいくさ)、葛(かづら)の網を結(す)きて、掩襲(おそ)ひ殺しつ。因りて改めて其の邑を号(なづ)けて葛城という」という神武東征説話があります。



岩橋山の項でご紹介した「一言主」を祀る一言主神社については金剛山の項で改めて書きますが、この神社の境内に神武に退治された「土蜘蛛塚」があり、葛の網で捕らえ頭と胴体と脚を三ヵ所に分けて埋めたという伝説では大きいクモ(節足動物の…)のようですが、上の日本書記の記述『その人となり』から、この辺りに古くから居住していた人たちのように思えます。

また古代神道で葛の蔓を結んで神籬(ひもろぎ)としたことが、謡曲『葛城』に「標(しめし)を結いたる葛なるを、この葛城山の名に寄せたり」と謡われています。『大和名所図会』には「金剛山土産(こんごうせんどさん)」として、「防巳藤(ふじかづら)。物を束(つか)ねて結(ゆ)ふに縄に代る。かつらぎの名義ここに起こる」の記述があります。今も奈良側の名柄から水越峠に登る車道(旧309号線)周辺を始め、藤や葛の植生が多く見られます。



なお、この旧309号線沿いにある「祈りの滝」はもと「祈(い)の滝」と言われ、役行者が衆生済度の願をかけるために身を浄めたところと伝えられています。

 

奈良の山あれこれ(42)葛城山<3>

「婿を池で洗って雨乞い」

天神山の南を深谷道の方に下ると竜王池、傍らに竜王社がありますが名前で分かる通り雨乞いの神様です。この池は「婿洗い池」という名で通っています。なぜこんな名前がついたのか?池の畔にあった御所市観光協会の説明板の画像を、お読みください。

現在のジョウモンノ谷(深谷)道はロープウエー登山口駅横を直進すると山道に入り、竜王池から流れてきた櫛羅(くじら)の滝に出会います。弘法大師が天竺のクジラの滝に似ているので名付けたという伝説があります。

さらに登ると行者の滝があります。(新しい登山道からは200mほど右手になりました)。
 ヒノキや杉の植林の中を登ると尾根道から谷の源流部になり、涸れ谷の左岸を行きます。ツツジ園に登る道を直進すると竜王池、少し先で右に分岐する道を登れば天神ノ森でロープ山頂駅が近くにあります。

ここから北斜面を約一時間で一周する自然観察路があり、春にはカタクリの大群落やイカリソウ、カワチスズシロソウなどの可愛い花々が咲き誇ります。

 

奈良の山あれこれ(43)葛城山<4>

「水争いの峠」

水越峠は葛城山と金剛山の間にあり、大阪と奈良の府県境でもあります。江戸時代に大和側の山麓の名柄の少年、上田角之進が、河内側の谷水を土嚢を積んで大和側に落とすようにして以来、近年まで文字通り水が峠を越えていたのです。元禄時代にはこの水を巡り、大和と河内で激しい水争いがあったといいます。

水越峠からは短い急坂を登り、樹林帯に入り石畳道を登ります。二度ほど急な木の階段道があり、笹原から杉林の中に入ります。

右手に河内、大和平野を見下ろす開けた所があり、雑木林を抜けるとツツジ園の下に出ます。左へ捲き道で国民宿舎前。右はツツジの中の直登で、時間的に大差なく山頂に通じています。峠から約1時間15分。

私たち夫婦が良く使う青崩(あおげ)(天狗谷)道は、水越トンネルの大阪側、青崩の集落を抜けて谷沿いの道を行きます。細くなった流れを離れ、急坂のジグザグを繰り返して、尾根上のベンチのある所にでます。

ここがほぼ中間点で、右に折れて少し登ると勾配が弱まり、雑木林の山腹を捲くほぼ水平な道になります。冬は美しい霧氷の林が迎えてくれます。

弘川寺からの林道と合して直角に右に曲がると緑に苔むした杉林の木の根道で、春はショウジョウバカマの大群落が見られます。右に砂防堤防を見て間もなく、頂上すぐ下のキャンプ場に着きます(1時間45分)。ロープウェイ山頂駅からの道と合流すると白樺食堂前に出て、右へ数分でなだらかな草原の山頂です。標高952,9mの山頂からは大和・河内平野を見下ろし、すぐ近くの金剛山から右に紀泉高原の山々、左に台高、大峰などの大展望が得られます。

 

奈良の山あれこれ(44)金剛山<1>

「床下の土にもご利益が…」



水越峠を挟んで葛城山に対する金剛山は、山頂に葛木神社が鎮座することでも分かるように古くは葛城山と一体の山と考えられていました。役小角(えんのおずぬ・役行者)も賀茂氏の一族で、この山中で松葉を食べ葛の衣を着て修行を重ねて、遂には修験道の祖となる神通力を得たと伝えられています。

金剛山の名は平安時代に金剛山寺(転法輪寺)が出来てからと考えられています。創建は665年、役行者が五眼六臂の法起菩薩を祈り出して、本尊として安置したという伝説があります。

もともと神仏習合の霊山として修験道七高山に数えられ、本堂は現在の葛木神社境内にあったのですが、明治の神仏分離・廃仏棄釈によって廃寺となりました。現在の本堂は1950年(昭和25)役行者1250年忌を契機に発願され1961年(昭和31)に落慶し再建されました。床下の土を少し持ち帰り「我が田地に入れれば稲よく実りて虫喰わずとて、参詣の人夥し」と記されています。南北朝の動乱で、楠正成は河内側山麓に千早・赤坂城を築き、この寺の僧兵の力を借りて大いに奮闘しました。

境内には行者堂があり、前の牛王の背には金剛山の名前の由来が記されています。

 

奈良の山あれこれ(45)金剛山<2>

「金剛山は大阪の山?」

金剛山は大阪と奈良の府県境に位置し、大阪の人にとって馴染みの深い山です。近くの校区の人はもちろん、堺市や大阪市南部にお住まいで、小・中・高校生時代に遠足や耐寒登山で登った想い出をお持ちの人も多いでしょう。

西山麓(大阪側)からは金剛山ロープウェイが架かっていて、山頂近くまで楽に運んでくれます。なお、このロープウェイは千早赤坂村営で日本では唯一の村営です。 

また、楠正成に関する史跡の多くが大阪側にあり、「千早本道」と名付けられたコースは千早城すぐ下の登山口から国見城址に通じています。

城址に山頂と書かれた大きな標識があり、ここが最高点と思っている人も多いようです。

しかし金剛山の最高地点は葛木岳で、葛木神社の本殿裏にあります。神域のため立ち入ることができないので、少し降りた国見城址が山頂とされているのです。

また一等三角点は湧出岳1,112mにあります。他に大日岳1,094mのピークがありますが、ここも所在は奈良県御所市。

大阪府の最高地点 (1,053m) は千早園地の一角にあります。このシリーズ「奈良の山あれこれ」では、山頂周辺や東側山麓(奈良側)からの話題を綴っていきます。


奈良の山あれこれ(36)~(40)

2015-06-06 15:50:41 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<生駒・金剛エリア>(36)屯鶴峰

「白い鶴の群れ」

 

二上山の北側、穴虫峠の東から約1kmの間、松林の緑の中に灰白色の岩山がうねるように続いています。香芝市に属し最高所でも150m、山と言うには気が引ける低山中の低山です。白い鶴が屯(たむろ)しているように見えるのでこの名が付きました。

約1500~2000万年前の第三紀末に、二上山の火山活動で噴出した火砕流や火山灰が、当時あった湖の底に積もって凝灰岩となり、隆起したあとに風化、侵食されて現在のような珍しい景観となったものです。柔らかく加工しやすいので、大和の古墳に石棺や石郭の材料として使われています。法隆寺の敷石にも使われたと言われます。また、第二次世界大戦末期に本土決戦に備えて戦闘指令所にするために陸軍が掘った、大規模な防空壕が残されています。現在、その一部は京大の地震観測所として災害予知の役割を果たしています。

ダイアモンドトレールは(正式には金剛葛城自然歩道)は屯鶴峰入口(穴虫峠近く)を起点として、二上山、金剛山、葛城山、岩湧山を経て槙尾山まで、延長45キロに及ぶ縦走路です。二上山駅より165号を西へ分岐で線路沿いの通称大坂道に入ると、穴虫峠手前に登山口があります。穴虫峠も河内、大和の交通の要衝でした。

昔、穴虫に木熊という男(女だったとも)がいて馬場の畑の大根を盗みました。見せしめに穴埋めにされた木熊は「俺が死んだら馬場の大根を喰い荒らしてやる」と言って息絶えました。それ以来、馬場の大根には「キクマ虫」が付き痛みやすいとか…。

 

(37)二上山 <1.雄岳>

「嶽の権現さん幟(のぼり)がお好き」

雄岳と雌岳から成るコニーデ式火山、二上山の方角は、河内からは「日出(いず) る山」、大和からは「日没する山」にあたります。特に大和国中(くんなか)の古代人からは、神聖な「二神山(ふたかみやま)」として崇敬されました。飛鳥の奥津城と考えられた西南麓には、古墳群と呼ばれる多くの墳墓が築かれています。

雄岳山頂すぐ手前には、政争に敗れ謀反人として葬られた大津皇子(天武天皇の皇子)の墓所があります。皇子を悼んで姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が詠んだ歌は、あまりにも有名です。

うつそみの 人なる我や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と我(あ)が見む。

山頂(517m)には葛城二上神社が鎮座しています。山麓の農民には「嶽(たけ)の権現さん」として農作物に雨をもたらす水の神様として信仰を集めました。「嶽の権現さん幟がお好き 幟持ってこい雨降らす」と俗謡に歌われたように、幟を立て提灯を提げて雨乞いに登ったそうです。また4月23日には、山麓の「嶽の水でご飯を食べる」村々の人たちが、弁当を持って山に登り一日の行楽を楽しむ行事がありました。

二上神社の横には「葛城二十八宿」の二十六番目の経塚があります。葛城二十八宿は役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚で、南北朝時代に紀州の友ヶ島を序品(起点)として槇尾山、岩湧山、金剛山を経て二上山から亀の瀬に至る28の宿(行場)を巡る山岳修行の道となりました。今も金剛山転法輪寺によってこの28里(112km)を巡拝する伝統は守られています。

 

(38)二上山 <2.雌岳>

「太陽が通る道」

二上山の三角点(476m)は雌岳にあり、ここからは展望も良く河内平野の彼方に大阪湾が光り、大和側には大和三山、正面には金剛山が大きく見えます。周辺は自然公園「万葉の森」として整備され、中央に日時計が設置されています。

ここは北緯34度32分にあたりますが、真東にある三輪山と線で結んで伸ばすと箸墓、長谷寺、室生寺を通って元伊勢といわれる斎宮址に通じます。真西には大鳥神社を通って淡路島北淡町の「伊勢の森」があります。このように多くの寺社や遺跡がこの線上に並ぶので、「太陽の道」と呼ばれています。南側の山麓には岩屋峠と竹ノ内峠があり、古くから河内と大和を結ぶ大事な交通の要所でした。この峠を通る竹内街道は飛鳥京と難波津を結ぶ日本最古の官道で、7世紀には朝鮮の使節たちが盛んに往来しまた。

また岩屋峠を河内側に少し下ったところには岩屋があります。説明板によると『この遺蹟は、西向きに開口する大小2基の石窟で構成され、附近から出土する須恵器等から、8世紀奈良時代の築造といわれています。…(中略)当麻寺に所蔵される当麻蔓陀羅を中将姫が、この岩屋で織ったとする伝説が残されています。』

山麓には当麻寺をはじめ、石光寺、山口神社などの寺社や史跡が数多くありますが、ここでは一本足の珍しい建築・傘堂をご紹介するのにとどめます。延宝2年(1674)11月、大和郡山城主であった本多正勝の影堂として建立されたものです。

 

(39)岩橋山

「神さんを使った行者」

二上山と葛城山のほぼ中間に、やや尖った頭をもたげています。山中には巨きな石が多く、なかでも山名となった「久米の岩橋」は役行者の伝説で有名です。

江戸時代に刊行された「河内國名所會圖」によると『…岩橋の形を見るに巨巌???面に橋板の?ある事四つ。両端稍隆うして欄檻(欄干)に似たり。幅三尺余長さ八尺許(ばかり)。西南の方少し缺(か)けたり。形勢まさに南峰に?(およば)んと欲す。…傳云(でんにいわくむかし役優婆塞(えんのうばそく)葛城の峰より金御嶽へ通い給わんとて石橋をかけなんとす。ここに諸々の神に命じ??葛城一言主神容貌いと醜くければ晝(ひる)の役をはばかりて夜をまちゐしより橋???得ぬんば行者いかりて一言主神を呪縛して深谷に押籠?たまへり。…」

「日本名勝地誌」や「大和名所図会」にも同じような記述があります。日本の伝説(角川書店)13奈良の伝説には『この時、役行者が印を結ぶと自然に岩橋が南に向かって架かっていく。すると空から嵐の神が現れてそれを妨げようとする。行者は一人の天女を呼び出し、歌と舞とを奏させて嵐の神を制しようとしただが役行者の法力が弱って橋は成就しなかったともいう』という面白い話が載っています。土地の神様や天女を使うとは流石に役行者ですが「容貌いと醜く」の一言さんは、どんな顔の神様だったのでしょう。奈良側からこの山に登るには普通、竹内から兵家浄水場を目印に進み、急坂を登り岩橋峠を目指すと1時間30分程で頂上に着きます。私が登ったときの展望は木の間からチラチラと河内・大和両平野、葛城山などが見えるだけでした

岩橋の近くに鍋釜石、鉾立石という名の大石もありました。

 

(40)葛城山 <1>

「山が燃えてる」

御所市の西に大きくそびえる、古くから役行者の伝説で知られる信仰の山。同じ名の山が和泉山脈にもあるので(和泉葛城山と南葛城山)、区別するために大和葛城山と呼ばれることが多いのですが、まれに北葛城山ともいいます。

元来、葛城山(葛木山)は、二上山から葛城山、金剛山にかけての山域全体の総称で、現在の葛城山は古くは戒那(かいな)山と呼ばれていました。山麓は古代豪族・葛城氏や賀茂氏の支配地として栄えた処です。『大和名所図会』に「南遊紀行に曰く」として、「葛城の北にある大山(おおやま)をかいなが嶽といふ。河内にては此を篠峯(しのがみね)と号す。篠峯を葛城山といふはあやまりなり。葛城は金剛山の峯なり。」とあります。

今、東山麓のロープウエー登山口駅前にある不動寺は、空海が不動尊を刻んで堂を建て戒那山安位寺と称した所で、室町後期の不動石仏で有名です。付近には戒那千坊という地名が残っています。

『大和志料』には「戒那山・葛城山ノ支峰ニシテ一ニ天神山ト称ス、山中ニ瀑布アリ」と記されています。天神山の名は、現在のロープウエー山頂駅近くに天神ノ森、天神社があることが起源と思われます。山頂部はなだらかな斜面で、芝草とススキに覆われています。

また山頂の南には花の季節に山を紅に染めるツツジの大群落があります。「一目100万本」といわれる今のツツジ園は元は笹原でしたが、1970年頃(私たちが奈良に居を定めた頃です)にササの花が咲いて枯れた後に自然に増えたものです。当初は山火事と間違えて消防署に通報した人がいたとか?例年5月中旬から下旬にかけては大勢の観光客で賑わいます。


奈良の山あれこれ(31)~(35)

2015-06-03 11:31:08 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

<生駒・金剛エリア>

(31)生駒山

「山頂三角点は遊園地の中

山上に多くの放送施設の電波塔が林立する大阪奈良府県境の生駒山。

その三角点(一等)は奈良県側の山上遊園地内にあります。SL列車の敷地内「大阪←山頂→奈良」の駅名表示板から少し離れた所で、登山者は断って中に入れます。大阪と奈良を結ぶ道はいくつかありますが、中でも重要なのは暗(くらがり)峠越えの奈良街道(奈良からは大阪街道)。

峠に残る石畳は今も往時の面影を伝えています。神功皇后が三韓征伐のとき、峠の東、西畑に陣を敷き、暁を告げる鶏の鳴き声とともに出立する手筈でした。ところがニワトリが早く鳴きすぎて、いつまでたっても夜が明けず、軍が峠に来てもまだ暗がりだったのが地名の所縁だそうです。

生駒山は大阪平野と奈良盆地を区切って南北に走る生駒金剛山地の北半、生駒山地の主峰で、古くから河内・大和の人々に朝夕、親しまれてきました。戦中の小学5年生の時から1970年代初めまで、この山系の中腹(大阪側)に住んでいた私にとっては、実に思い出の深い山です。河内音頭や演歌「河内男ぶし」で「大阪の山」のイメージが強いのですが、高校野球の実況で大阪桐蔭高校(当時の住いの近く)の校歌で「大和平野にそびえ立つ 生駒の峯の松風が…」と聞くと、府県境の山であることが改めて思われます。

山腹や山麓には山腹や山麓には伊古麻都比古神社(生駒大宮)、鳴川千光寺(元山上)、宝山寺など有名な古社寺や旧跡が多くあります。とくに宝山寺は「生駒の聖天さん」として関西商人を中心に多くの参拝客で賑います。生駒は宝山寺の門前町として栄え、生駒山には日本最初のケーブルカーが設置されました。

 

(32)大原山

「暗峠の名の由来になった山」

暗峠の500m ほど南にある高まりが、古くは「小椋山」と呼ばれていたこの山です。河内名所図会に『世に暗峠という者非ならん…(中略)…生駒の山続きて小倉山という。故尓(に)椋ケ根の名あり。一説には此山乃松杉大ひ尓繁茂し、暗かりぬればかく名付くともいふ。」と記されています。

この山は赤茶色に山肌が露出していたので「赤はげ山」とも呼ばれました。現在の山頂は気持ちのいい草地で、眼下に河内平野が一望され、その向こうに大阪湾、六甲連山、北摂の山々を見る絶好の展望地です。

北東にドライブウェイ駐車場の道標に従って100mほど下った所に、新しい514mの4等三角点があり、周辺は三角点広場と呼ばれています。(2008年に行った時には、なぜか標高522mの標識がありました)西(大阪)側一帯は「大阪府民の森」の一部で「なるかわ園地」と名付けられ、ここからの展望も素晴らしいです。

暗峠を通る奈良街道(奈良側からは大阪街道と呼びます)は、郡山藩主の行列のために敷かれた石畳が峠付近に残っています。現在でも大阪への通勤者が非常災害時に奈良への帰宅ルートとして、その訓練に使われるなど重要な道であることに変わりありません。

 

(33)高安山

「昔は山城、今は台風の見張所」

生駒から南に走る信貴生駒スカイラインは、暗峠、十三峠を経てこの山の東側を通ります(信貴山山頂付近は通りません)。

信貴山からハイキングコースとなっている山道を行くと、途中で右に折れる分岐があり高安城倉庫跡に出ます。林の中に礎石が残る広場で、三号倉庫跡からは北東側が切り開かれて矢田丘陵や平群の町が望めます。

元の道に帰り、直進してスカイラインを越えて少し登ると、落ち葉に埋もれた小広場があり二等三角点(点名・峰山487.4m)が埋まっています。

前方に見える白いドームは高安山レーダー観測所で現在は無人、大阪管区気象台からリモートコントロールされています。

その北側に「高安城跡」の石碑があります。

663年、白村江の戦で唐・新羅の連合艦隊に敗れた大和朝廷が、防衛のために「烽火」を置いたと日本書紀にあります。これまで見張り所くらいの規模と考えられていましたが、1999年に城壁と思われる長大な石垣や櫓址も発見されて、強固な防御陣地の山城があったことが実証されました。

高安山の最高所(485.9m)はこの背後の台地上にありました。

 

(34)信貴山

生駒山脈の南端、高安山から東に派生した尾根上にある双耳形の小火山。(写真は明神山より、右は生駒山)

中腹にある朝護孫子寺は聖徳太子が物部守屋との戦いに敗れてこの山に逃げ込み、毘沙門天に祈願して勝利を得たので創建したと伝えられ、庶民信仰のお寺で毘沙門天が出現した「寅年寅月寅の日」は特に賑わいます。

信貴山はこの寺の山号で、太子が「信ずべき山、貴ぶべき山」と讃嘆したことが由来です。中興の祖・命蓮上人の奇瑞を描いた国宝・信貴山絵巻は鳥羽僧正筆と伝えられ、日本四大絵巻の一として有名です。

しかし、私たちトラ党にとっては境内至るところに様々なトラが鎮座して、阪神タイガースの選手たちも優勝祈願に訪れるこの寺は甲子園に次ぐ聖地といえるでしょう。

ここは河内と大和を結ぶ政治的・戦略的要地で、古代から何度も山城が造られました。戦国時代、松永秀久が大和攻略の拠点として、近世城郭の先駆的形態を備えた居城を構えました(永禄2年・1559)が、天正5年(1577)織田信長により落城しました。

三重塔の横から朱色の木の鳥居、石の鳥居が並ぶつづら折れの急坂を登って山頂に着きますが、三角点(437m)は空鉢堂の敷地内にあるようで未確認です。

空鉢堂前の舞台からは、南に二上、葛城、金剛、岩湧、和泉葛城に続く山並み、その左に吉野から大峰への連山。南東には大和平野に浮かぶ大和三山、その上に竜門山群。三輪山の右奥には高見山が青く霞みます。東には竜王山、国見、貝ヶ平山など素晴らしい展望が楽しめます。

(35)明神山
「米相場の旗振り山」

生駒山脈と金剛山脈の間のくびれた所を大和川が流れています。亀ノ瀬の辺りは古代から交通や戦略上の要衝となってきた所で、現在も国道25号線、JR大和路線が大和川に平行して走っています。その南側、つまり金剛山脈の最北端にあるのが、この明神山です。晴れれば明石大橋も見えるという見通しのよい所で、昔は大阪堂島の米相場を知らせる旗振り山でした。旗振山は須磨アルプスにある山が有名ですが、他にもたくさんあり、特に大和は源助という男がこのシステムを作り出したと言われる発祥の地でもあります。

王寺町明神7丁目の公園横「明神山参道・是より西壱八七〇米」の標識がある赤い大鳥居を潜り、住宅地の中の坂道を登ります。ハイキングというより散歩道といった感じです。笹原へ下る分岐があり、「頂上へ460m」の道標と「右大坂、さかい」の石標があります。すぐ下の国道を走る車の音が聞こえてくると、僅かの距離で広い山頂部に着きました。

水神社(明神山太神宮)は往時、伊勢参りに行く人が通過したので阿波からの参詣人も多かったそうです。山には二匹の白狐が棲んでいましたが、関谷の甚九郎という人が一匹を退治し、一匹は天理の山に逃れたとか、馬で通りかかった郡山藩主が「偽の皇大神宮」と言って破却させたという伝説が残っています。

神社の回り三箇所に大きな展望台があります。王寺町の人の憩いの場になっているらしく、顔馴染みの皆さんが談笑しています。

標高274.9m(三等三角点、点名・西山)の超低山ですが、頂上からの展望は意外にも大きく信貴、生駒、二上、金剛、葛城の山々、大阪側は大阪南港やあべのハルカスも見ることができます。

大鳥居の登山口から山頂まで、ちょうど30分でした。ここから大阪側に降りるコースも一度行って見たいと思っています。


奈良の山あれこれ(26)~ (30)

2015-05-31 16:35:39 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(26)御破裂山(ごはれつざん)

国に大難あるときは神山鳴動す」 

藤原鎌足を祀る多武峰談山神社(とうのみねたんざんじんじゃ)の背後にある、名前に似合わぬ緑濃い静かなたたずまいの山です。



談山神社の境内から石段を登っていくとT字路になり、右は談山の名の起こりとなった、中大兄皇子と鎌足が大化改新の策を相談した「かたらいやま」(566m)で、「御相談所」の石碑があります。
 

左へ行くと御破裂山(618m)ですが、三角点は鎌足の墓所の中で入れません。国家に大事があるときはこの山が鳴り響いて動き、神社の神殿にある鎌足像の首の部分が破裂するという社伝が、山名の由来です。元は御廟山といい、神社も当初、鎌足の子・定恵が十三重塔を立てて文殊菩薩を祀った妙楽寺というお寺でした。

(27) 音羽三山<1.音羽山>

「観音さんからクマの山へ」 

奈良盆地の南東、桜井市と宇陀市大宇陀区の境を、談山神社から見ると谷を隔てて南北に走る850~900m級の三つの山です。

音羽山中腹にある音羽山観音寺(善法寺、音羽観音)は新西国17番札所。ご本尊は木造千手千眼十一面観音菩薩立像。天平寛宝元年(749)心融法師、清水寺の開祖・延鎮僧都(以上・観音寺HP)、定慧が妙楽寺建立の際、同寺の鬼門よけとして建てた(桜井市HP)など創建については諸説ありますが、奈良時代には音羽百坊と言われるほどに栄えたと言われます。南音羽からの約1キロの参道は舗装ながらつづら折りの急坂で寺に着きます。

本堂横の天然記念物オハツキイチョウ(お葉付き銀杏)の前から山に向かうと、本来の道が左に別れ、桜など植樹中の直登の道で万葉展望台に出ます。

正面に金剛・葛城から二上山を見晴らし「大阪まで眺望できる」として奈良県景観資産に指定されています。ここでも道が左に分かれますが、直登はかなりの急登で稜線に出て、先ほどの道に合流します。

急に良くなった植林帯の道を右(南)へ登っていくと音羽山(851.7m)山頂ですが、山頂は樹林の中で全く無展望です。

(28)音羽三山<2.経ヶ塚山>

「倉橋の 山を高みか 夜ごもりに 出でくる月の 光乏(とも)しき」

音羽山は万葉集で倉橋の山と呼ばれていますが、更に広く南に続く経ヶ塚山を含めた山塊を指すとも考えられます。音羽山山頂からは急坂を下ります。いったん東に向かった道が鞍部から折り返して南へ明るい植林帯を登っていく尾根筋は、荒井清氏の「万葉の山を行く」で昭和54年4月6日のこととして素晴らしい展望を眺めながらの山行記が残されていますが、36年後の今(2015年)は、ごくまれに樹林の間から下の景色が覗われるだけに過ぎません。

やがてクマザサと疎林に囲まれた経ヶ塚山889mの頂上です。古事記には神武天皇がヤソタケル軍を破った国見岳として出てくる山です。名前の通り、昔は展望の良いことで知られ「大和青垣の山々」でも『奈良盆地一帯の眺めはいうに及ばず、東方を振り返ると高見山を中心として台高山脈、奥宇陀の倶留尊、古光の火山群がみごとにながめられた』と記されています。残念ながら現在はここも無展望です。いまの山名の由来になった、笠石を乗せた経塚も破損が進んでいるようでした。ここは多武峰の鬼門に当たる方角なので、経文を埋めたという謂れが残されています。

(29)音羽三山<3.熊ヶ岳>

経ヶ岳からの下りは、ところどころ岩が露出した急坂です。途中で正面に見上げる熊ヶ岳は美しい鋭三角形で、登り返しの厳しさが思いやられます。大きな岩の横や、滑りやすい急な道、笹原の間の道と次第に高度を上げて、三山では一番高い熊ヶ岳904mに来ます。

ここも林に囲まれて無展望です。この山の名はクマが多いわけではなくて、「隅」の字を当てたもので、恐らく奈良盆地から見て東の果て、太陽が登る山とう意味だと考えられます。ここから稜線の道は緩やかになり、小さなピークを越えて行きます。近鉄の電波反射板の横を過ぎると、右に折れてさらに急坂で大峠に降り立ちます。ここから稜線は三津峠を経て竜門ヶ岳に続きます。

大峠は神武東征の時、女軍を配備してヤソタケルと戦ったと、日本書記に記された「女坂」伝承地で、その石碑が立っています.

 (30) 竜門が岳

「一つとや 竜門騒動は大騒動二十まで作りた手まり唄歌おうかいな」

文政元年(1818)、旱魃に苦しんだ竜門郷14ヶ村の百姓が年貢減免強訴のため龍門騒動と言われる一揆を起こしました。「二つとや 札のいかがを無理として お江戸へ捕られた又兵衛さん愛おしわいな」から「六つとや 無理な取り立てなさるから このよになるのももっともや」と二十番までの手毬歌に歌われた土地に、1951年、灌漑用のダム・津風呂湖が作られて観光資源ともなっています。

山頂には嶽神社があり、南山麓の旧竜門荘集落には旧暦3月に当番の家は餅をついて登る「タケノボリ」の風習が今も残っています。

天然記念物のマンリョウ自生地がある吉野山口神社から登っていくと、平安から室町にかけて栄え、宇多上皇や藤原道長も参詣した竜門寺のあとがあり、

近くの竜門ヶ滝には元禄元年(1688)、芭蕉が「竜門の 花や上戸の 土産(つと)にせん」の句を残しています。 


奈良の山あれこれ (21)~(25)

2015-05-26 21:07:26 | 四方山話

*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*

(21)大和三山 「三山のどれが男神?、女神?」

橿原市にある藤原宮跡を囲む畝傍、耳梨、香久山の三山は、古くから大和の人々に親しまれ、数々の歌にも詠まれてきました。中大兄皇子の万葉歌(『万葉集』巻一)『香具山は畝火を愛(お)しと 耳梨と相争ひき 神代よりかくにあるらし いにしえも然にあれこそ うつそみも つまをあらそふらしき』は、外鎌山でも紹介しました額田王を巡っての弟・大海人との恋争いを、「三山も男女の三角関係」と見なして作ったものとされています。しかし原文の「雲根火雄男志等」で「畝火雄々し(おおし)」と読むと、香具山と耳梨山は女神、畝傍は男神の山となります。確かに畝傍山を頂点にした配置は、天香久山と耳成山を底辺とする見事な二等辺三角形になります。また耳梨、畝傍は火山ですが、香久山は単独峰ではなく、多武峰から続く竜門山地の山裾が周囲からの浸食に残った丘の一部とされています。そんなことから「大和三山ピラミッド説」まで出現し…いやはや謎の多い三山であります。ほぼ3㎞ずつの間隔で位置する大和三山の三角形の中に、持統8年(694)から平城京へ遷都する和銅3年(710)年までの間、藤原京が営まれました。華やかな白鳳文化が花開いた地に、今は大極殿の土壇が残り、周辺は史跡公園になっています。

(22)耳成山  「どこから見ても耳がない山」

 大和三山の一。火山の残丘と考えられる標高140mの低い山ですが、平坦地に孤立しているので、意外に高く美しい円錐状の山容を見せています。耳梨とも書きますが、橿原市のHPによると、この一風変わった名前は「どこから見ても耳…余分なところが一切ない美しい円錐形の形の山容」から来ています。

 
耳成池畔万葉碑

 『みみなしの山のくちなし得てし哉おもひの色のしたぞめにせむ』 という歌が『古今集』にあり、かつては梔(くちなし) の木が多かったので「梔子(くちなし)山」とも呼ばれたという記述が、『大和名所図会』にあります。『万葉集』で青菅山というのもこの山で、頂上近くに耳成山口神社があるので俗に天神山といわれています。この社は明治まで天神社と呼ばれ、雨乞いの神事が行われたことが記録されています。

現在、山裾まで住宅地が迫っていますが、一歩、山へ入ると古代そのままの神さびた静けさが漂います。三角点のある山頂は樹木が生い茂って、北方の一部を除いて展望は得られません。耳成山公園周辺から山腹を捲いて緩く登る道がいくつかありますが、どれをとっても20分ほどで山頂に立つことが出来ます。

(23)畝傍山(うねびやま) 「和三山最高峰」

『万葉集』では、他に畝火・雲根火・雲飛とも表記されています。大和三山の中で最も高いといっても僅か199mで、神武天皇橿原宮跡と想定された橿原神宮の北西にあります。中腹までがなだらかで、上部が急な形のトロイデ式火山で、下部は花崗岩、中腹から上は斜長流紋岩(火山岩)で形成されています。

明治以降、御料地(現在は国有林)として保護され、樹木の伐採が禁止されてきました。山腹はアラカシ、シロカシ、サカキなどの緑に覆われ、林床の草本類の種類も豊富です。



頂上小広場には畝火山口神社社殿跡と三角点があり、ここに立つと眼下に広がる街並の中に耳成山と香久山が浮かんで見えます。周辺には古墳が多く、曽我、忌部などの地名が残っていることから古代豪族の居住地であったことがうかがわれます。



2014年1月、橿原神宮参拝後、久しぶりに登りました。北神門を出て畝傍山登山口への道標を折れると東大谷日女命神社の前に出ます。祭神はヒメタタライスズヒメノミコト、神武天皇のお后です。



その先から登山道になり、緩やかな登りは西側の畝火山口神社からの道を合わせて、大きく山腹を捲くように登っていきます。20分で山頂に着きました。ゆっくり展望を楽しんで、帰りは山頂すぐ下の分岐を左(北)へ下りました。



登りの単調な道とは違ってやや急で、途中には岩の露出しているところもあって楽しく歩けました。大きな錨など置かれた慰霊公園を通り抜けたところに「イトクの森古墳」があり、すぐ前が神武天皇稜、下街道(国道24号)に続く県道です。下りは15分で短い行程でしたが、清々しい気持ちで歩けました。


(24)天香久山 「赤い土と白い土」

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり あめのかぐ山 (万葉集・持統天皇) 

藤原京址の東に位置する小丘陵で、大和三山他の二山が火山であるのと違って、花崗岩と斑糲岩などから出来た丘陵の一部が風化浸食から残ったものです。『伊予国風土記逸文』に「天山(あまやま)と名づくる由(ゆえ)は、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降(あまくだ)り、 片端はこの土(くに・伊予国伊予郡)に天降りき。…」とあるように、天から降った山といわれ、記紀や万葉に数多く登場します。

この山の土には霊力があるとされ、神武東征伝説には埴土(はにつち)で巌甕(いっぺ )を作り戦勝を祈願したことが残っています。かつて土地の老人から「白埴山の土で作った土器は白く、赤埴山の物は赤い」という話を聞きましたが、天香山神社の前に赤埴聖地址の碑が立っています。 この神社は『日本書紀』の「香具山の牡鹿の肩骨を朱桜(ははか)の木の皮で焼き、吉凶を占った」故地とされています。 300mほど南、万葉碑横には白埴聖地の碑があります。頂上には国常立(くにとこたち)神社が建っています。

ここは樹林に囲まれ展望はありませんが、西側中腹の「天皇登香具山望国之時御製歌」碑(前述万葉碑)からは、耳成、畝傍、藤原京址、さらに二上山から金剛・葛城が遠望され、まさに国見の壮大さを味わうことができました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ 海原は かまめ立ち立つうまし国そ あきづ島 大和の国は (舒明天皇) 

北側山麓に前述の天香山神社、南の山裾に天岩戸神社があります。 

(25) 高取山 「妻は夫をいたわりつ夫は妻に慕いつつ…」

お里沢市が主人公の浪曲・壺阪霊験記で知られる壺阪寺の東にあります。この山には南北朝時代に土地の豪族・越智氏が山頂部の砦に依り、天正年間に豊臣秀長が現在の山城の形を整えました。豊臣家没落後は徳川家の支配となり、寛永年間に植村家政が城主となって、明治維新の廃藩置県まで高取藩二万五千石の居城でした。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が立並ぶ姿は、城下から仰ぐ人々に「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と謡われました。

今も残る植村氏屋敷跡から大手道が城址に向かっています。七曲りの急坂を登っていくと、一升坂という場所があります。城の石垣にする石を運んできた人夫たちがあまりの急坂に音を上げたとき、普請奉行が「米一升ずつ増やすぞ」と励ましたところだそうです。

さらに登ると飛鳥から運ばれたという「猿石」があり、やがて日本三大山城に数えられる城址に入り、春は桜が、秋は紅葉が迎えてくれ、大きく展望が拡がります。

584m三角点はもとの天守台にあります。なお壺阪門からは五百羅漢石仏群を経て壺阪寺に下る道が通じています。