宮応かつゆきの日本改革ブログ

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”ベルリン会談の深層” 「歴史(世界史)の進路にかかわる意味をもった」=スターリン秘史(第14章)

2014年02月07日 | 綱領関連

 「安倍政権が発足して以来、過去の日本の侵略戦争と植民地支配を肯定・美化する歴史逆行の勢力が、その本性をむき出しにし、大きな国際問題となっている」(第26回大会決議「第19節」)

 改めて、第2次世界大戦の成り行きを検証することが重要になっていると思います。 その点で、「前衛」誌に連載中の「スターリン秘史 巨悪の成立と展開」は重要な歴史の解明となっているのではないでしょうか。 「第14章 ベルリン会談の深層」は、「連載の一つの山場をなす」内容になっているのではないかと感じました。

 不破氏は、この章の冒頭、「ベルリン会談の研究のあたって」のなかで、次のように述べています。

 「これからベルリン会談の経過を見てゆくことになりますが、実は、この会談についてはたいへん奇妙な状況があります。 第2次世界大戦の成り行きを決める上で、きわめて重要な、ある意味では歴史の進路にかかわる意味をもった会談であったにもかかわらず、間違った解釈が定説となって、本格的な研究がおこなわれないまま来ているように見えることです」

 「その間違った解釈というのは、”この会談で、ヒトラーはソ連に三国同盟への加盟をよびかけたが、モロトフが首を縦に振らず、しかもとげとげしい対応をしたので、ソ連にはその気がなしと判断し、ヒトラーは対ソ戦に踏み切った”というものです」

 「これは、ヒトラーがこの会談にかけた思惑も、それにたいするスターリンの対応も、どちらをも見誤ったもので、こうした解釈では、40年11月のベルリン会談から41年6月のドイツの対ソ戦開始にいたる独ソ関係の推移がまったく理解できません」

 「だいたい、ドイツ側が、ソ連の対応について、モロトフの言動によって、決定的な判断をくだすということは、それまでの独ソ関係からいえばありえなないことでした。 39年以来の繰り返しの接触の中で、ドイツ側は、どんな問題でもモロトフには決定権がなく、最終的にはスターリンがことを決定していることを、よく承知していました」 

 「ヒトラーにとっても、問題は、ベルリン会談の報告を受けて、スターリンがどういう判断を下すかにあり、いわば固唾をのんでスターリンからの回答を待っていたというのが真相だったでしょう」

 そして、不破氏は、「第14章」の最後の節、「ベルリン会談をめぐる誤った評価がなぜ広がったか」の中で、次のように述べています。

 「(モロトフがリッベントロップの提案を拒否したという)こういう説が出てくる根拠はどこにあるのか。 私は、この説の最大の震源地の一つが、独ソ開戦後にスターリンがおこなったベルリン会談についての解説にあると見ています」

 「スターリンは、イギリスの首相チャーチルが1942年8月にモスクワを訪問して、最初の英ソ首脳会談が開かれた時、その会談を、ベルリン会談についての自己弁明というか、ソ連の立場の正当化をおこなう場として選んだのです」

 そこで紹介されているのが、チャーチルの「第2次大戦回顧録」です。(地下シェルターでのエピソード=(前衛3月号、217頁参照)

 「スターリンは、この地下シェルターでのエピソードを示すことで、スターリンとソ連が、ドイツ側の提案をまともに相手にせず、冷笑的態度で臨んだことの象徴的な出来事にしようとしたのです。 チャーチルにはそれがたいへん印象深かったようで、会談の経過そのもは、『ナチ=ソビエト関係』をほば忠実に追いながら、りッペントロップの提案についてのソ連の態度について、文書記録をまったく無視し、『予期された通り、ソビエト政府はドイツ案を受諾しかなった』の1行で片付けています」

 「ベルリン会談の内容」「スターリン、侵略国家同盟への参加を決断」「ヒトラー、『バルバロッサ作戦』の準備指令を発令」(対ソ作戦指令)」等の内容については、明日以降に紹介させていただきます。