津軽の旅、遂に最終回。小泊へ行く。
339号線をひたすらひたすら北へ北へ。左手には日本海。右手には禿山。
私は冬の津軽の海をいろいろ見たが、これほどダイナミックな海は観た事無い。
天気が良かったせいかも知れぬが、冬の海独特の寂しさや絶望さが感じられなく、荒々しく、轟々たる存在は男の海といった様子であった。
その寒風に常に晒された山は、禿げるしかなく、その禿山も堂々たる存在であった。
この北限の僻地に、太宰はわざわざ育ての親を探しに来たのには、相当の覚悟をもって挑んだに違いない。何せ電車も走っていないのである。
ポツンと存在するだが、ここはここで歴史のある場所である。国防上、これ以上記述するのはよそう。
途中、たけや食堂や、雄乃屋(たけのや)温泉という、「たけ」関連の店が目に付くのだが、関連性はあってもなくてもどうでもよいし、楽しいからよいではないか。
太宰とたけは、超感動的再会を果たした場所に、記念として銅像が建立されていたことは知っていた。
だが、詳しい場所もわからなければ、目印となる建物やらもあるのかどうか。あやふやな情報で小泊まで来た。太宰がわざわざ小泊まで来て、沫や再会ならずといった状況と同じく、この銅像を発見出来ないという不穏さは確かにあった。
私は自分でいうのも何だが、運のない男であるので、ここまで来て発見出来ないことはありえる事であった。
だが、旅の恥はかき捨て。交番でもコンビニでもなんでもいいから聞きまくろうという覚悟はあった。
大体、太宰が好きな阿呆は、私と同じ旅行プランでも計画して、最後にこの銅像をゴールに決定して、写真に収めようとする輩は他にも幾人もいたに違いないので、町民は、この北の僻地にまた太宰オタクの変な奴が来たと穏やかに思っている事であろうか。
この狭い町をグルグル回っていると、「太宰再会の地」みたいな看板を発見!神のたすけ!その看板を元に探し回る。看板を辿ると、遂に物語りも終焉を迎えようとしていた。
「再会公園」という、何とも美しいネーミングの公園には、記念館と、そして太宰とたけのツーショットの銅像に会えた。
銅像は「津軽」のクライマックスで、たけに再会し、無言のまま、運動会を眺める二人の姿になっている。
たけはまだ40代だというのに、お婆ちゃんみたいに老けているのには、上野公園の西郷隆盛像が本人と似ても似使わぬ姿に西郷婦人が涙したという逸話が思い出される。
ほんの数十年前なのではあるが、40代後半といえば。それなりであろうかと思うが、何よりこの銅像は美しい。
この日は真冬だというのに、晴れ晴れとしていて、空気も澄んでいる。銅像の遥か向こうには、日本海が眺望できる。なんとも、平和である。
近くには中学校があり、恐らくこの中学校で、運動会が行われていたのであろう。中学生が校庭で、私のことを変な奴だと見ていたが、この場所では日常茶飯事なのであろう。
ちなみに、ここには記念館があるが、見事に休館していた。ここは運無し男の本領発揮。
しかし銅像を見れたことで満足。私は何か達成感を覚え、こんな場所から離れなければならないという想いに駆られ、この思い出の場所を後にしなければならなかった。
というわけで津軽の旅は終了します。
楽しかったので、おそらくまたこの地を最終目的として旅するに違いない。
「津軽」は心のふるさとを実感させてくれる重要な本である。太宰治がどんなに野蛮な作家であろうが、これは所詮、風土記という旅行記感覚で気楽に読む事が、津軽人に必須なのである。
最後に、最も感動的な一文を掲載してこのシリーズを終了する。では、失敬。
私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ての親の本質をはっきりと知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。わたしは、これらの人と友である。
終わり。
339号線をひたすらひたすら北へ北へ。左手には日本海。右手には禿山。
私は冬の津軽の海をいろいろ見たが、これほどダイナミックな海は観た事無い。
天気が良かったせいかも知れぬが、冬の海独特の寂しさや絶望さが感じられなく、荒々しく、轟々たる存在は男の海といった様子であった。
その寒風に常に晒された山は、禿げるしかなく、その禿山も堂々たる存在であった。
この北限の僻地に、太宰はわざわざ育ての親を探しに来たのには、相当の覚悟をもって挑んだに違いない。何せ電車も走っていないのである。
ポツンと存在するだが、ここはここで歴史のある場所である。国防上、これ以上記述するのはよそう。
途中、たけや食堂や、雄乃屋(たけのや)温泉という、「たけ」関連の店が目に付くのだが、関連性はあってもなくてもどうでもよいし、楽しいからよいではないか。
太宰とたけは、超感動的再会を果たした場所に、記念として銅像が建立されていたことは知っていた。
だが、詳しい場所もわからなければ、目印となる建物やらもあるのかどうか。あやふやな情報で小泊まで来た。太宰がわざわざ小泊まで来て、沫や再会ならずといった状況と同じく、この銅像を発見出来ないという不穏さは確かにあった。
私は自分でいうのも何だが、運のない男であるので、ここまで来て発見出来ないことはありえる事であった。
だが、旅の恥はかき捨て。交番でもコンビニでもなんでもいいから聞きまくろうという覚悟はあった。
大体、太宰が好きな阿呆は、私と同じ旅行プランでも計画して、最後にこの銅像をゴールに決定して、写真に収めようとする輩は他にも幾人もいたに違いないので、町民は、この北の僻地にまた太宰オタクの変な奴が来たと穏やかに思っている事であろうか。
この狭い町をグルグル回っていると、「太宰再会の地」みたいな看板を発見!神のたすけ!その看板を元に探し回る。看板を辿ると、遂に物語りも終焉を迎えようとしていた。
「再会公園」という、何とも美しいネーミングの公園には、記念館と、そして太宰とたけのツーショットの銅像に会えた。
銅像は「津軽」のクライマックスで、たけに再会し、無言のまま、運動会を眺める二人の姿になっている。
たけはまだ40代だというのに、お婆ちゃんみたいに老けているのには、上野公園の西郷隆盛像が本人と似ても似使わぬ姿に西郷婦人が涙したという逸話が思い出される。
ほんの数十年前なのではあるが、40代後半といえば。それなりであろうかと思うが、何よりこの銅像は美しい。
この日は真冬だというのに、晴れ晴れとしていて、空気も澄んでいる。銅像の遥か向こうには、日本海が眺望できる。なんとも、平和である。
近くには中学校があり、恐らくこの中学校で、運動会が行われていたのであろう。中学生が校庭で、私のことを変な奴だと見ていたが、この場所では日常茶飯事なのであろう。
ちなみに、ここには記念館があるが、見事に休館していた。ここは運無し男の本領発揮。
しかし銅像を見れたことで満足。私は何か達成感を覚え、こんな場所から離れなければならないという想いに駆られ、この思い出の場所を後にしなければならなかった。
というわけで津軽の旅は終了します。
楽しかったので、おそらくまたこの地を最終目的として旅するに違いない。
「津軽」は心のふるさとを実感させてくれる重要な本である。太宰治がどんなに野蛮な作家であろうが、これは所詮、風土記という旅行記感覚で気楽に読む事が、津軽人に必須なのである。
最後に、最も感動的な一文を掲載してこのシリーズを終了する。では、失敬。
私はたけの、そのように強くて不遠慮な愛情のあらわし方に接して、ああ、私は、たけに似ているのだと思った。きょうだい中で、私ひとり、粗野で、がらっぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だったという事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ての親の本質をはっきりと知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。どうりで、金持ちの子供らしくないところがあった。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、そうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕えているが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にいた事がある人だ。わたしは、これらの人と友である。
終わり。