Jerry Emma Laura Piano

Mina, Dalida, Barbara, Laura, Lara....美人大好き! あっ、Mihoが一番好き

源太郎、、、映画を楽しんでいる  So In Love 名曲だなぁ

2016年07月20日 | 毎日の話

 ラウラは、おにいしゃんに抱かれて得意な顔をしている。大抵、自由にさせろと抵抗するが、おにいしゃんに抱かれると、これが完全に無抵抗。やっぱりラウラも若い娘だということ。

 

 病院から帰って、昼食を食べる。そしてちょっと時間があるので、TVをつけてみると地上波はワイドショウ、BS放送は古い刑事ドラマや韓流ドラマばかり。本当にテレビ局は制作費がないんだろうなぁと思う。

 

 映画も同じで、邦画はみんな「・・・製作委員会」と称し、誰もリスクを負いたくないので「赤信号みんなで渡ればこわくない」そんな仕組みになってしまった。だから、映画がみんなつまらなくなった。(誤解しないでほしいが、関西人は、”赤信号、車が来なけれゃ渡ればいい”という合理主義なのだ。関東人とは違う)

 

注)  製作委員会方式とは、アニメ・映画・テレビ番組などの映像作品や、演劇・ミュージカルなどの舞台作品を製作する際の、さまざまなリスクを回避するための方式・手法のひとつ。

 

 話題を変えて、今日ブログにコメントいただいた「マダム・グラハンさん」と本の話題で会話(コメントのやりとり)を楽しんだ。素晴らしい行動力をお持ちの方で、本をAmazonで早速購入されたようだ。そして「源太郎は、本だけはAmazonを使わない」その理由は?と聞かれたので、理由は大したことではないが、こんな理由。

 

 源太郎の若い時は、本は高価だった。専門書になるとちょっと手が出なくて、先輩が退職する時に何冊か頂いたし、コピー機械なんてなかったから、必要な箇所はノートに書き写した(時代錯誤かと言われそうだが)。退職された方から手紙を頂き、好きな本をあげるよと言われ、長野まで行った思い出がある。それほど本には思入れがあった。

 

 Mihoちゃんと結婚することになった時、何か欲しいものないと言われ、「・・・ハンドブック」が欲しいと言って、数万円する本を買ってもらった。今でもその本は大切に、そして今でも使っている。欧州に旅した時も、本屋を訪れ、美しい装丁の本を手にとってため息をついていた。安曇野にある緑山美術館にある古い本の装丁は憧れだ。

 

 Mihoちゃんから「源太郎蔵書」の判子をプレゼントされ、今もそれを愛用している。古本屋に売るとこの判子が押されていると価値が下がるが、売る気もないし、売ろうとも思わない。本当に邪魔になると図書館に寄贈すればいい。

 

 で、なぜAmazonを使わないかというと、仕事柄大きな本屋があったことも要因の一つだが、手に持って、感覚を感じて、購入したい。ただそれだけだ。メグライアンが主演した、ユーガットメールという映画があったが、あの小さな本屋さんで買いたいと思う。それが一番の理由だ。これで、答えになっているだろうか。

 確かに、Amazonは便利だよね。だんだん都内の本屋さんも書籍の数が減っている。レコード屋さんも同様だ。どんどん在庫がなくなってきている。そしてみんなお取り寄せ。そんな時はAmazonが便利。でも本当にそれで物を買う楽しみがあるのだろうか。そんな風に感じるのは、もう希少価値、いや絶命危惧種の仲間入りなのかもしれない。

 

 またまた、話は変わって映画。

仕方なく、「De Lovely」という映画を今見ている。「五線譜のラブレター」と言った方がいいのかと思う。

 

Begin the Beguine 

 

ビギンのリズムが聞こえてくると

あの夜の甘い音楽が

私の耳元に流れてくる

南国の魅惑に満ちた 素晴らしい一夜の出来事

あの夜の思い出が 鮮やかに蘇る

あなたともう一度 夜空の下で抱き合い

静かな浜辺では オーケストラが音楽を奏でる

椰子の木までも そっと揺れている

ビギンのリズムが かすかに響く

あの日に戻ることは もはや虚しい望み

あの曲が聞こえる時だけ 私の心は熱く燃える

あの夜 あなたと 永遠の愛を誓ったのに

決して離れないと 約束したはずなのに

崇高な ひととき 輝かしい歓び

不吉な雲が現れて 幸せをかき消してしまった

失われたチャンスを 人々は呪うけれど

私には その悲しみが 痛いほどわかる

だから ビギンのリズムを 奏でないで

消したはずの恋の炎に 再び火をともさないで

あの熱い想いは 眠らせたままに

思い出すのは ビギンのリズムが 聞こえる時だけ

 

そう、あの作曲家のコール・ポーターの映画。

 

不思議な気持ち でも真実の想い

君のそばにいると感じる 愛する人よ

星が空を埋め尽くす

あまりにも 君を愛している

たとえ 君がいなくても

僕の腕は 君を抱きしめる

愛する人よ わかっておくれ

それほどまでに 君を愛している

あの神秘的な夜 君に恋をした

初めて君が 僕の前に現れた夜

夢のような喜びで 恋に落ちた

嘲られても 傷つけられても

裏切られても 捨てられても

死ぬまで僕は君のもの

それほどまでに

それほどまでに

あの神秘的な夜 君に恋した

初めて君が僕の前に現れた夜

想いに応えてくれると知り

夢のような喜びで 恋に落ちた

嘲られても 傷つけられても

裏切られても 捨てられても

死ぬまで僕は君のもの

それほどまでに

それほどまでに

君を愛している いとしい人よ

君だけを

あの神秘的な夜 君に恋をした

初めて君が僕の前に現れた夜

想いに応えてくれると知り

夢のような喜びで 恋に落ちた

嘲られても 傷つけられても

裏切られても 捨てられても

死ぬまで僕は 君のものそれほどまでに

それほどまでに

君を愛している いとしい人よ

君だけを

 

大好きなLara Fabianが登場する。こんな映画は、日本ではヒットしないだろうなぁ。


Mario Frangoulis & Lara Fabian - So In Love in Mario with Friends

 

ラウラは、昼寝としゃれこんでいる。幸せな娘だなぁ。


源太郎、、、病院で抱腹絶倒 田丸公美子さんのエッセイを楽しむ

2016年07月20日 | 毎日の話

病院の待ち時間は長い。早めに受付を済ませたが、何せ人生の先輩方々の憩いの場所。どう見ても病人じゃない方々(お元気な方々と解釈いただきたい)が、楽しそうに会話している。

 

受付のお嬢様たちから「まいど」という声が聞こえそうで、バーの常連さんの如く、「今日も綺麗やねえ」とシワシワの親父が嬉しそうに声をかける、そんな待合室に源太郎が座った。

 

イヤホンをして、単行本を開いて静かな時間を過ごそうと思っている源太郎には、この連中の対角線で会話する老人たちが鬱陶しい。「・・さん今日は来ていないね」「具合でも悪いのかな」「いや、来週だろ。薬が切れるのは」「そうそう、・・さんの所はこの前嫁が出て行ったらしいよ」「何処の」「ほれ、あすこの、あの・・さんだよ」「そうかい。あのカミさんが」「違うよ。嫁だよ」・・・・・・生産性はなく、三秒で終わる話も、延々と続いている。

 

「・・・さん、診察室にお入りください」と看護婦さん(看護師と言わなければならないらしいが、看護婦でなければ意味がない。ナースキャップをかぶった野郎を想像してほしい。失礼の段おゆるしください)の声も大きい。杖をつきながら歩く老婆、それを支える老人。きっと夫婦なのだろう。確かに具合が悪そうだ。こういう病人から早く診察してやってほしい。

 

ところが「・・・さん」と次の患者の名前を呼ぶと「あぃよ」と、まってましたとばかり老人がすっと立ち上がって診察室に行こうとする。「・・・さんは、まだよ」と看護婦さんにたしなめられる。体は健康そうだが、明らかに心が病んでいる。この人も病人だった。

 

「源太郎さん、診察室にお入りください」、呼んでくれた看護婦さんに軽く会釈をして診察室に入ると、いつもの若い看護婦さんではなく、久々に婦長さんに出くわす。「源太郎さん。お久しぶり。元気でした?」「ええ、体調はまぁまぁですが、今日はリハビリも・・」「そう、よかった。じゃ、ゆっくりね」

 

「ゆっくり」という言葉は、「無理せずにゆっくり生活して」ということなのか「今日病院を楽しんで帰ってね」とバーのママさんの言葉なのかわからないが「ありがとう」と言葉を返して、若い医者の前に座った。若い医者は、大きな電子カルテを見ながら、決まり文句の質問を投げかけ、聴診器であちこちの音を聞いている。そして「大丈夫」ではなく「大丈夫ですね」と疑問形で聞く。

 

医者は料理人ではない、料理人なら「おいしいですか」と疑問形で聞いていい。どこぞの店紹介で「おいしいですよ」という料理人いる。斎藤晴彦さんの替え歌ではないが、「うまい、まずい」は客が決めることだ。でも、医者はそうじゃダメだろ。

 

「大丈夫かどうかは、医者が決めてくれよ。わからないから病院に来ているんだ」と言いたいが、婦長がすかさず「薬と、いつもの貼り薬もですね」と聞いてくれた。それを聞いた若い医者。タッチペンで「ピッ、ピッ」と入力する。診察が終わり、リハビリセンター室に、婦長さんが自ら案内してくれた。バーでも同じ、まっとうに付き合えばサービスがいい。

 

「今日はオートバイ?」「車ですよ。暑いですからね」「じゃ、気をつけてね」と婦長と会話を交わす。普通、オートバイなら気をつけてだが、車だからそれはないだろうと思いつつも、きっと「お体気をつけでくださいね」と言ってくれたのと解釈し「ありがとう」と答えて別れた。(源太郎はやっぱり大人の対応だ)

 

ところで、待合室には大抵単行本を一冊持って行っていくが、近頃は電子書籍なら何冊も持っていける。そして待合室も携帯電話はダメな場所もまた多いが、iPadなら問題はない。しかも、人生の先輩たちはそんなことに興味もないから、静かにしていて頂ければ、実に楽しい待ち時間をエンジョイできる。

 

病院は、あの空気の匂いが嫌いで、飛行機の搭乗と同じく注射が嫌い。せめてこんな場所なら抱腹絶倒のエッセイものに限る。そして、今日も表題の田丸公美子さん(シモネッタ)のエッセイ「シモネッタの男と女」を持参した。(田丸公美子さんは、イタリア語の同時通訳者で広島県生まれ、あのロシア語通訳者で作家の故 米原万里さんがこのニックネームをつけられた)

 

源太郎が女性のエッセイストの作品を読むのは想像しがたいだろうが、この方のエッセイは絶対お勧めする。小気味いいセンテンス。ジョーク溢れる経験談。そんじょそこらのエッセイストは太刀打ちできないだろう。

 

源太郎は彼女のファンで、本屋に行っては最新版を探す。残念なことに先日2014年に発刊された「シモネッタのどこまでいっても男と女」の本を求めようとしたが「お取り寄せ」になっていて未だ読んでいないが、その他の書籍はすべて読破した。紹介を兼ねて、購入した書籍の表紙をスキャンしてアップしよう。著作権上怒られないと思うが。

 

 

(1)「パーネ・アモーレ イタリア語通訳奮闘記」 2004年、文春文庫、ISBN 978-4167679231、残念ながら文庫本。

 

(2)「シモネッタのデカメロン イタリア的恋愛のススメ」 2008年、文春文庫、ISBN 978-4167717643、これも残念だが文庫本

 

(3)「目からハム シモネッタのイタリア人間喜劇」 2008年、朝日新聞出版、ISBN 978-4023302846

 

(4)「シモネッタの本能三昧イタリア紀行」 2009年、講談社、ISBN 978-4062153805

 

(5)「シモネッタのドラゴン姥桜」 2009年、文藝春秋、ISBN 978-4163709505

 

(6)「シモネッタの男と女」 2010年、文藝春秋、ISBN 978-4163729008

 

(7)「イタリア語通訳狂想曲 シモネッタのアマルコルド」 2011年、NHK出版、ISBN 978-4140350942