Jerry Emma Laura Piano

Mina, Dalida, Barbara, Laura, Lara....美人大好き! あっ、Mihoが一番好き

ラウラ、、、富士山の夕焼けが凄いよ

2016年07月07日 | 毎日の話

今日は暑い。だからジェリーはヘロヘロ。足の腫れはほとんどなくなり、散歩の時の虫刺されは間違いない。食欲はまぁまぁで、ラウラの食べ残しを走って行って、こそっと食べてくる。ラウラといえば、伸びきって、床に伏している。彼女も暑い。

おかぁしゃんはJAZZセッションの練習に出かけたから、またみんなでお留守番。ところで、富士山の夕焼けが珍しい色に染まっている。「ラウラ、ジェリー。空が茜色だよ」「アタシたちには関係ないよ」

 


130年前にニュージーランドで大噴火があった

2016年07月07日 | 毎日の話

タラウエラ山(Mt. Tarawera、標高は1,111m)は、ニュージーランドの北島ロトルア湖北東に位置する火山で、2006年にこの地を訪問するまで、1886年に大噴火したことなど知らなかった。噴火120年後の訪問だった。

この火山は、1315年に大規模噴火したことがあり、ヨーロッパで起きた大飢饉はこの噴火によって引き起こされたものであると言われているが確証はない。そして、今から丁度130年前の1886年6月10日、大噴火した。

 

当時この地に行った時に買い求めた復刻版の新聞が出てきた。

 



「1886年6月10日の真夜中に、強い地震があった。午前2:30にタラウエラ山が噴火を始め、午前3:30、最大の噴火が発生した。そして、火砕サージ が、6キロ圏内のいくつかの村を破壊した。噴火の音は、800キロ以上離れた南島クライストチャーチまで聞こえた。噴火は多くのマオリ村を埋没させ、有名なピンクとホワイトテラスが失われた」

 

今では、観光地となっているが、たかだか130年前にこのような巨大な噴火がニュージーランド(1840年にイギリスの植民地となった)であったとは信じ難かった。

 1886年といえば明治19年、帝国大学令が発布された年。(ちなみに帝国大学は「東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋、京城、台北」) そして、ダイムラーがガソリン自動車を完成させた年。イギリスがビルマを植民地にした年、そして屈辱的なイギリス商船のノルマントン号事件があった年でもあった。このころのイギリスという国は本当に特権意識の国であって、腹立たしい。それが130年後、また世界経済を混乱の中に陥れる国になっているのに因縁を感じる。


翌日、源太郎はお気楽に観光としゃれこんだ(反省)。


LPレコードの紹介 (No.053,054,055) DARK DUCKS RUSSIA FOLK

2016年07月07日 | LPレコード紹介

源太郎の年代なら「ダーク・ダックス」といえば「ロシア民謡」を思い浮かべるだろう。パクさん、ゲタさんが亡くなり、今年6月にマンガさんが亡くなってしまい、ゾウさん一人になってしまったダーク・ダックス。寂しい限りだ。源太郎のレコードコレクションには三枚のダーク・ダックスのLPがある。
「さぁ、ラウラ。暑いところだけど、おばあちゃんから聞いたダーク・ダックスの紹介を頼むよ」
「はい、はい。じゃ、おばあちゃんの日記を読むよ」

「昭和35年5月30日、羽田空港はごったがえしておりました。ダーク・ダックスの初のソ連演奏ツァーの見送りです。当時の日本は、ようやく高度成の波に乗り、テレビ受信契約数200万台を突破したとはいえ、ポップス畑の音楽家の海外演奏など、思いもかけぬことだったのです」

「いいね、その調子」

「高見沢宏(トップ・テナー=通称パク)、佐々木通正(リード・テナー=マンガ)、喜早哲(バリトンエ=ゲタ)、遠山一(バス=ソウ)の日本のトップ・コーラス・グループに、ソ連文化省からの招へいが来たのは、昭和34年の秋のことでした。翌35年5月にソ連の文化使節レニングラード・バレエ団が日本にやって来る、その飛行機でダーク・タッ
クスをお招きしたいというのが、ソ連側の意向でした」

「そうだね。ソ連だよね。今日ソューズロケットの打ち上げだね」

「モスクワ、レニングラード、キエフなどの大都市で20ステージ、そのほがラジオ、テレビに随時出演する、こうしたソ連のスケジュールに備えて、ダーク・ダックスは旅立ちの日まで猛レッスンを重ねたそうだ。「会津磐梯山」「木曽節」などの日本民謡、イタリア、アメリカ、イギリスなどの世界民謡、まして本場で披露するロシア民謡にはもっとも力を入れ、それにソフトなポップス、ジャズ、シャンソンが、日本人初のソ連公演のプログラミングだったのよ」

「黒いアヒルのように黒いダーク・スーツに身をかためた四人は、花束を抱え、空港のロビーで”いまぞ別れのとき”を合唱し、タラップヘ向かいました。ソ連からヨーロッパ各地の歌の探求、長い三ヵ月の別れのダーク・ダックスを乗せたソ連のジェット機は、轟音と白煙を残して羽田空港を飛び立ちました。時刻は午後2時30分。そしてこのときから、ダーク・タックスと本格的ロシアの歌との結びつきがはじまったのです」

「こんな感じだね」
「いいね。それで」
「ここからは、レコードの説明文」

「慶応大学ワグネル・ソサイェティの創立は明治34年、かつては満州にまで演奏旅行したという名門の男声コーラス団です。複数の声がつくる絶妙の調和、美しいハーモニーが織りなす快適なアンサンブル、このような楽しさに魅せられたパク、マンガ、ゲタ、ゾウの四人の男にとって、ワグネル・ソサイェティは学業以上の生きる場所でした。楽しいけれどもシビアな生活、昭和26年12月ワグネルの年中行事クリスマス・パーティの席上、マンガとゲタの”マイ・ハピネス”のデュエットに加わったのが、すごい低音のゾウ、このトリオに翌27年パクが加わりました」

「喜早は「四人がなんとなくマージャンをしていた。それぞれハナ唄を歌う。ハモる、そのうちになんか有意義なこと、そして少しでもアルバイトになることをやろうと誰かが言いだした。歌しか能のないわれら、黒人のゴールデン・ゲート・カルテットに感動し、まず『ダーク』という名が浮かび、しょっちゅうガヤガヤおしゃべりするからダックスで行こうとなった。と、その結成を語ります」

「NHKラジオの「昼のいこい」が、慶応の制服で歌った初演でした。その間亡き小島正雄氏の特別を受け、ナンシー梅木、江利チエミらとの共演を続け、ようやくプロ・コーラスとしてのダーク・ダックスが軌道に乗りはじめたのは昭和30年、メンバー四人が卒業期を迎えるころでした(奇しくも、その前年の秋、ポリドールで旗照夫のバックなど、二、三のレコーディングも行なっています)」

「ワグネル・ソサイェティはクラシックのコーラス団です。符面をくずすことは罪悪ともいえます。ダーク・タックスが、この強い基礎から幅広いポピュラー行楽を目ざすについて、なみなみならぬ決心が必要だったことはいうまでもありません。昭和30年ごろはボーカル・グループ全盛時代、とくに米軍キャンプの仕事は、勉強にもなり率もよかった。だが酒を飲み、女をはべらせるアメリカ兵を見ていると、つくづくいや気がさした。とキャンプで歌うことは、ぶっつりやめ、あまりに仕事がたてこんでくると、前の仕事で自分たちがなにをやったか忘れてしまう。完全な痴呆状態に
なり、思考能カゼロとなる。これではだめだと週一回の休養は必ずとるようにした。こうした合議制からくる決断、ダーク・ダックスが25年も続いた理由は、その美しいハーモニーのように、四人の固い団結があったからです」

「昭和50年で19回目を迎える年一回のリサイタル、これには交通遺児、ベトナムで死んだカメラマンなど、つねに前向きのモチーフが盛りこまれています。そして、昭和35年の第1回の訪ソは「どこでもアンコール、アンコールの叫び声の連続で、夜の更けることもあった」ほどの歓迎ぶり、昭和49年2月の初の厳冬ソ連ツアーまで五回を数え、今後もまだまだ続きます。若いフォーク・グループが離合集散をぐり返す現況の中で、ベテランのダーク・ダックスは、ポリドールという新しい土壌のもとに、このロシア民謡アルバムからスタートし、数々の名盤をみなさまのもとに贈り続けることでしょう」

「暑くなってきた。今日はこれでお手伝いはおしまいだよ」
「ありがとう。ラウラ。また明日頼むよ」
「いいけどさぁ。朝ごはんもらったかなぁ。食べていないようなきがする」
「あぁ、食べてないね。じゃ朝ごはん食べよう」

ということで「おやつ」はすっかり忘れているラウラでした。
あれから太陽が昇り、ぐんぐん気温が上がってきた。富士山の姿も暑苦しい。


富士山、、、暑くなる七夕ですね

2016年07月07日 | 毎日の話

毎日の温度差に、参っている源太郎です。

「七夕」は「棚機」とも書くらしいですね。「旧暦の7月7日の夜に天の川の両岸にある牽牛星と織女星が年に一度相会する」という伝説に基づいて祭る行事。日本では「機を織る」という言葉からこの名がついたとも言われている。「書道や裁縫」が上達を願ったらしいので、世間で短冊に書かれている「結婚」や「恋愛」の願い事は後回しになることを覚悟しておいたほうがいい。

これとは反対に災害もこの時期に発生するから気をつけたほうがいい。1974年7月7日、静岡で24時間連続雨量が508mmという豪雨があったが、静岡では「七夕豪雨」といわれ大災害だった。これは台風8号と梅雨前線によって広域で災害を起こし、香川、岡山、兵庫、和歌山、三重、愛知、神奈川でも大災害となった。大型の台風1号が発生しているが、是非被害のないことを祈る。

夏山の富士山を楽しんでいる登山者がいるであろう、富士山が今朝は顔を出した。雲が高層を流れている。山の天気は変わりやすい。こちらも気をつけて。今日は暑くなりそうですが、頑張っていきましょう。

 


LPレコードの紹介 (No.052) La Lecon Particuliere(サントラ盤)

2016年07月07日 | LPレコード紹介

昨日の昼ごろ、ジェリーの後ろ右足に腫れを見つけた。虫刺されだと思い、「ムヒ」を塗ってやったら、病院に行く前にだいぶ腫れは治った。脚が3本しかないのでちょっと心配なので、Mihoちゃんと、そしてラウラも一緒に病院に行ってきた。「経過を見ましょう」ということで土曜日の午前中にもう一度。ラウラとジェリーは病院で愛嬌を振りまいていた。

帰ってきて、ラウラは、ジェリーをおちょくりしてばかり。結局、ジェリーは一晩源太郎の部屋で眠ることになる。全くいたずら娘には手が焼ける。「おやつはありませんよ」座り込みするラウラに向かって言ったが、知らん顔。

さて映画のサントラ盤。この映画ストーリーは鮮明に覚えている(新しいことはもう覚えられないが、古いことは鮮明に記憶している。これはもう老人)
 男子高校の建物(クロス配置で中央に鐘楼がある)の全景と静かな鐘の音で映画は始まる。教授が「今度の論文のテーマはモラル」だといい、「人間は幸福を求める 自殺する者さえも パスカル」と課題を説明。「諸君は興味がないらしいな」とも言い放つ、するとオリビエ(ルノー・ベルレー 1945年生まれ)が「納得できません」と反論する。「なぜだね」、すると他の生徒も「自殺する者は幸福なんか求めません」・・・オリビエが「パスカルもデカルトも信じられない」と発言。教授が「君にとって幸福とは」と聞き返す、悩んだ挙句「説明できません・・」という時、終業のベルが鳴り響く。これが映画の始まり。(フランスらしい)


 バイク通学(足こぎエンジン付き)のオリビエは交通渋帯の中を家へ帰る途中、途中ルマン・レーサーのフォンタナと会話を交す、この場面がこの映画の伏線になっている。車の渋帯の間をぬって、オリビエのバイクが走り情景に、「La Lecon Particuliere(個人教授)」のタイトルが映し出される。
18才の高校生オリビエは、恵まれた家庭で育ち、住み込みの若いクリスチナとはお手伝い以上の関係で、オクテのシャン(友人)に彼女を紹介したりする自由奔放な青年。学校から帰り、夕食の準備をしているお手伝いさんの腰に手を回し「Salut!」という。この言葉は源太郎が覚えたフランス語の最初の言葉だ。
 オリビエが愛すようになる女性フレデリク(ナタリードロン、1941年生まれ)は、レーサーのフォンタナの愛人だ。ある日、街の通りでスポーツカー(深いオレンジ色のランボルギーニ・ミウラ)がエンストで動けなくなっているのをオリビエが発見する。インディヘ出るフォンタナを空港へ送って行った帰りのフレデリクが運転未熟のために起こし渋滞していた。オリビエは気安くそれを運転(無免許)し、途中白バイに捕まりそうになる。

 正妻の座を得られないフレデリクは、何となくもやもやした毎日を過ごしていたが、そこへ突如現れたオリビエという可愛い青年、彼女の生活にちょっとアクセントがつくものの、ただそれだけの感情。
 しかし、オリビエは初めて出会った女性としてのフレデリクにすっかりのめり込む。やがてスキー・シーズン。ホテルに泊るフレデリク、別荘のオリビエ、たまたま同じスキー場に来たことが2人の仲を決定的なものにしてしまう(この時、源太郎はロシニョールというスキー板を知った。いつかはロシニョールと思ったが、オガサカやK2、ハートの板を履いて、結局ロシニョールは履いたことはなかった)。スキー場で横転して助けあう2人、白熊の縫いぐるみを着てふざけるオリビエ、やがて高まる愛。このスキー場のダンスホールに流れる「Nicole Croisille」の歌声が実にいい。
 再びパリヘ帰ってきた2人。年下の若者の心をもて遊んでいるのではないかと悩むフレデリクは極力彼をさけるが、オリビエの情熱に負けるフレデリク(チェックのミニスカートが可愛い)。こうしたことが両親に判らないはずはなく、父親と激しくやりあったオリビエは家を飛び出し、仕事をみつける。独立してフレデリクと暮そうと思う。その報告にフレデリクの部屋へ行ったオリビエは、フォンタナが帰っていることを知る。
 フォンタナとオリビエの男どうしの話し合いで、フォンタナが彼女を必要としていることをオリビエは知る。家出をし、オリビエとの思い出のホテルにいたフレデリクのもとに行くオリビエは、これを最後にもう再び彼女に逢うまい、と思う。そんな気持を知らないフレデリクはホテルの窓からオリビエを見送る。小雨が降るホテルの外。バイクにまたがったオリビエが2階の窓を見上げ、何も知らないフレデリクがガラスの向うで何か手真似で合図を送る。オリビエはうなずいて頭からコートをかぶり、走り出し、バイクで走るオリビエと小雨に煙る街、濡れたオリビエの顔は何かを乗り越えたような清々しい美しさにあふれている。


という、1968年のフランス映画ですね。

 年上の女性を愛するというシナリオによって見事に描かれた映画だったのですが、その後に作られた「おもいでの夏」が「個人教授」そっくりの内容でびっくりした人もいるでしょうね。「個人教授」はいつまでも記憶に残る青春映画の傑作だと思います。そんな映画のサントラ盤は懐かしく、タイムトリップさせてくれるレコードです。