Jerry Emma Laura Piano

Mina, Dalida, Barbara, Laura, Lara....美人大好き! あっ、Mihoが一番好き

源太郎、、、Rusanda Panfili に惚れ込む

2018年04月03日 | 音楽の話

源太郎も久しぶりにノックアウト

Astor Piazzollaの名曲「Vuelvo al sur」

バンドネオンがせつなく奏でる名曲

Laura Pausiniのバックコーラスで歌っているRoberta Granaが歌うこの曲はテンポよく、彼女の愛らしい歌声と瞳が最高だ

そして、大好きなFiorella Mannoiaが歌うイタリヤ語バージョン「Torno al sud」、これも廃盤になったが、なんとか手に入った音源

あの、YO YO MAの渋いVuelvo al sur

Mariana Avena、Ana Maria、Mercedes Sosa

Paloma Berganza、Lily Dahab、Maria Volonte・・・・・多くの音源があるが、ルーマニア出身のバイオリニストがこの曲を奏でている

サロンで奏でる彼女のバイオリンは、バンドネオンに匹敵する哀愁ある響

そして、美人

そりゃ、源太郎もノックアウトだ

Torno al sud come si torna sempre all'amore

torno da te con desiderio e con timore ・・・・

この曲が日本で流れないのは不思議だし、こんな美人のソリストを見逃している日本も・・・

いつか、彼女が世界を魅了するだろう

 


源太郎、、、やっとゆっくり音楽を楽しんでいる

2017年12月15日 | 音楽の話

Lauraは「瞑想」している

しかもお兄ちゃんが置いた、ベルトの輪っかの中に収まっている

「瞑想」ではないな、完全に寝ている

源太郎が、一日忙しかったから、相手しなかったので退屈だったのだろう

夕方になって、Mihoちゃんの肩に乗ってまったりしていたので「肩乗り雪だるま」状態だった

今、夕食も終わり、源太郎はイタリア歌姫のMinaさんのMusic DVDを見ている

イタリアン・ポップス界の女王といえば、やっぱりMinaさん

Milvaさんもいれば、Ivaさんも歌のうまさでは甲乙つけがたい

でも、Minaさんは別格だ(スクリーンキャプチャーした彼女を見れば理解できるだろう)

ただ、彼女は、1940年生まれだから今年77歳

年齢はどうでもよく、彼女のレコードもCDもそしてDVDも見つければ購入してきた

特に1978年のラストコンサートのLPレコードは宝物と言っていいかもしれない

彼女は18歳でデビューし、翌年のサンレモ音楽祭でデビュー

その後、いろんなことがあったが、2013年に「Oggi Sono Io」というスタジオ録音を公開した

そして、何十年ぶりかその元気な姿を見せ、いい声を聞かせててくれた

目の前の画面には、2014年に発売された彼女の往年の映像コレクションDVDが流れている

全て、白黒だが、きらびやかなドレス姿は、本当に見とれてしまう

 

 


源太郎、、、Giacomo Puccini La Bheme(1966録音)を楽しむ

2017年05月13日 | 音楽の話

 雨降りの土曜日。庭の草取りもできないし、うるさい二人も今爆睡中。だから朝食を済ませ、珈琲を入れて音楽を聞くことにした。庭の甘夏の無数の蕾は大きく膨らんだが今日は温度が下がり、冷たい雨に濡れている。そして音楽を聴く前に、Mihoちゃんに首筋から肩にかけて「トクホン」を貼ってもらい軽くなった身体で行動を始めた。

 

 今日はデジタル音のCDを聞くことをやめ、と言ってもLP盤を聴くには部屋を移動しないといけないので、今日は仕事部屋にある小型のオープンデッキ(1973年製、小型と言っても重量18kg)で、「Giacomo Puccini  La Bheme(1966録音)」を聴くことにした。

 

 まずはA-2300Sの電源を入れ、そして古いアンプの電源を入れる。この順番は絶対に守らないといけない。外から電源を入れそして中央の機械に電源を入れないと、もしサージが生じたりして古い機械は一発でお釈迦になる可能性がある。源太郎だけのルールかもしれないが、今のデジタル機器とは消費電力が違い過ぎて思わぬトラブルが発生する。のであります。

 

 ラボエームはソプラノ歌手で良し悪しが決まるだろう。「私の名はミミ」をストレスなく歌い上げる歌手はそう多くはいないと思っているが、普通だとマリア・カラスが有名で、誰しもが一番という。でも、源太郎はレナータ・デバルディが最高だと思っている。レナータは、1950年代から1960年代にかけてイタリア・オペラ界でマリア・カラスと人気を二分する人気を得たソプラノ歌手で82歳でなくなった名プリマで、数々の名舞台とともに優れた録音を残している。この歌劇ボエーム「全曲」のテープは大切な一巻。今でも柔らかい艶のある音を聞かせてくれる。

 

Si, Mi chiamano Mimi,・・・・と始まる「私の名はミミ」

 

はい、皆さんは私をミミと呼びます。

でも私の名前はルチーアですの。

私の話は簡単なの。

家や店で刺繍をするのです。

私は穏やかで、幸せ。

そして気晴らしはバラやユリを作ること。

私は素敵な魅力を持つものや愛や春を語ること、

夢や幻想を語ること詩が好きなのです。

お分かりになりますか。

 

この後、ミサにはいかない、でも神様にはたくさんの願い事をする。そして小さな白い部屋で一人で生活している。そして雪解けが来て、最初の太陽は私のもの・・・・と続きます。想像して見てください「可憐な、美しく、そして寂しがり屋」の彼女を。このイメージを歌える人はそういないのです。

 

【第1幕】

時は19世紀初頭のパリ。あるアパルトマンの屋根裏部屋で、ボヘミアンと呼ばれる芸術家の卵たちの詩人ロドルフォ、画家マルチェッロ、音楽家ショナール、哲学者コルリーネが貧しいながらも陽気に共同生活をしている。クリスマス・イブの夜、ショナールがたまたま稼いできたお金で4人は街に繰り出そうと意気投合します。しかし詩人ロドルフォだけは原稿を仕上げてから行くことになり、ほかの3人は先に出ていきます。そこへ、ロウソクの火をもらいに隣人のお針子ミミがやって来ますが、ミミは戸口で鍵を落としてしまった上、風でロドルフォのロウソクも消えてしまいます。暗闇の中、手探りで鍵を探す二人の手がふれあい、二人は恋に落ちた。(偶然にしてもこの設定はべただなぁ)

 

【第2幕】

ロドルフォは、カフェ・モミュスで先に愉しんでいた仲間3人にミミを紹介します。

そこへ今度は画家マルチェッロのかつての恋人ムゼッタが現れます。始めはぎこちなかったものの、再度お互い惹かれあった二人はよりを戻します。そして、4人のボヘミアンと2人の娘は、ムゼッタのパトロンだった男に勘定を押しつけて、笑って帰宅したのでした

 

【第3幕】

冬のある日。マルチェッロとムゼッタが働く酒場に、ミミが訪れます。ミミはマルチェッロに、自分の恋人ロドルフォが最近冷たいことを相談しにきたのです。そこにロドルフォが現れたのでミミは物陰に隠れましたが、彼がマルチェッロに「ミミを愛しているが、彼女は結核を患っており、貧乏の自分には面倒が見切れない。別れる方がいい」と言うのを聞いてしまいます。ミミがいるのに気づいたロドルフォは彼女に駆け寄ります。二人は愛を確かめ合いながらも、お互いのために別れる決心をしました。一方のマルチェッロも浮気の多いムゼッタと口論になり別れてしまいます。

 

【第4幕】

元の屋根裏部屋。相変わらずボヘミアンの4人は貧しいけれど陽気に暮らしています。そこへ、ムゼッタが瀕死のミミを連れて駆け込んできます。ミミは愛するロドルフォの元で最期を迎えたいと望んだのでした。彼女のために薬を買おうと、仲間たちはお金の工面に出掛けていきます。二人きりになったロドルフォとミミは、楽しかった日々を語り合いました。そして、みんなの帰りを待っていたかのようにミミは静かに息を引き取ります。部屋にはミミの名前を叫ぶロドルフォの声がこだましたのでした。

 

美しく、悲しすぎる。恋はロウソクの炎のように消え去ります。こんなミミの切ない歌を聴くには雨降りが最高なのです。

 

ラウラ、少しはミミのような可憐さがないのかなぁ。

「おとしゃん。皆さんアタシのことをラウラというんです。なんでかしら、本当の名前はセシリアというのよ」

「馬鹿野郎、その名前はおかぁしゃんの名前だろ」

「デヘッ」


源太郎、、、IL VOLOのコンサートに感動

2017年03月20日 | 音楽の話

「LA TABERNERA DEL PUERTO NO PUEDE SER」を歌ったPiero Baroneの声、二万人を超える聴衆がみな立ち上がって拍手を送る。

コンサートは終焉に近づいている。

なんといっても「忘れな草」を歌うドミンゴの声のすばらしさに圧倒される。

歌い終わり、そして彼が、亡くなったパバロッティへの感謝の言葉をおくる。三大テノールのステージを彷彿とさせる。久しぶりに感動だ。音楽はやっぱりいい。

ピエロ・バローネはアルバムに次のメッセージを寄せている。

ある日ピアノの先生に「三大テノール」のコンサートのビデオをもらいました。

その時から、それらのアリアを歌わずにはいられなかった。

そしてピアノレッスンは、自分が感じたものを歌わなければという思いに拍車をかけた。

フィレンツェのステージで感じたことを問われれば、私はこう答える。

光を浴びる前にした深呼吸のことしか覚えていない。

Piero

このジャケットは、彼らが生まれたばかりの頃の三大テノールのコンサートLD(1994)だ。左上のない部分はJerryが小さい時にかみ切った跡だ。懐かしい。

 

 


IL VOLO with PLACIDO DOMINGO

2017年03月20日 | 音楽の話

今、久しぶりに男性歌手のCDとDVDに魅了されている源太郎です。

Mihoちゃんが大好きな三大テノールの一人「ブラシド・ドミンゴ」がなんと指揮棒を振っている。

そして、2015年のサンレモ音楽祭で優勝した「IL VOLO」の共演だ。IL DIVOではない。彼らは1993-1995年生まれの歌手だが、歌がうまい。このブログでも過去に紹介しているがこの企画は最高だといえるかもしれない。おすすめの音源だ。

ドミンゴも彼らを高く評価している。IL VOLOを直訳すれば「飛ぶ」ということになる。彼らはまさしく若きテノール歌手。

あの三大テノールを目指して今はUSAツアーの最中だが、この録音は2016年7月にイタリアのフィレンツェ、サンタ・クローチェ広場でのコンサートだ。

デビューした時はまだまだ小僧のような三人だったが、サンレモ優勝後は大人の雰囲気になった。

Gianlucaは一番年下で1995年生まれ。

Ignazioは、1994年生まれ。

そして、源太郎が一番うまいと思うのがPieroで、1993年生まれ。いずれも20代前半の若者だが、三大テノールの再来のように思える。

日本は、ポップス一点張りのような音楽業界。イタリヤの音源を入手するのはなかなか大変だ。それにしても、ドミンゴはかっこいい。Mihoちゃんが「好きだ」というのもうなづける。彼らもきっと「いい男、それもイタリア人らしい「渋い男」になるだろう。

顔の好き嫌いはあるだろうが、イニャツィオをみると「ドンキホーテ」を思い出してしまう。最高の休日最終日になりそうだ。

 


Laura Pausini - Santa Claus llegó a la ciudad

2016年11月07日 | 音楽の話

Laura、、、と言っても今日はLaura Pausiniさん。

万霊節が終わり、すでにクリスマスモードに。Pausiniさんの新しいCDが発売された。

一足早い、クリスマスを。

Laura Pausini - Santa Claus llegó a la ciudad (Official Video)

 

大好きな、Roberta Granaさんがちょっとバックコーラスで登場。アップして、アップ。

Laura Pausini - Noël Blanc (Official Video)


ラウラ、、、美人は罪深いから気をつけようね

2016年08月02日 | 音楽の話

 昨夜からの天気はなんなのだ。今朝は雷が遠くで鳴っているが晴れている。でも、すぐに雲が湧きて出てきて、お天気雨。そして雲の切れ目に積乱雲。

プッチーニ作曲のTOSCAを見る。

 登場人物の画家カヴァラドッシが歌う「E lucevan le stelle」を聞いた事があるだろう。フィギアスケートのファンなら皇帝プルシェンコの曲といった方がわかるかもしれない。第三幕で処刑される前のカヴァラドッシの歌声はなんとも言えない感動。

星はきらめき

大地は香り  庭の戸が開いて

足は軽やかに砂地を踏む

輝くばかりの彼女が入ってきて

私の腕に倒れかかる

ああ  甘い口づけ  悩ましい愛撫

私は震えながら  美しい姿を

ヴェールから解き放った

しかし  私の愛の夢は  永遠に消え

時は去り  私は絶望して死ぬ

私は絶望して死ぬ

今ほど 人生をいとおしんだことはない

人生を・・・・

 

 見ているDVDは歌劇「トスカ」だが、コンサートホールの舞台の映像ではなく、実在の建物を使用し、映画仕立てとなっている珍しい作品。1976年に作成され、2005年にDVD化されたもので、源太郎はとても好きな作品だ。しかも、Mihoちゃんの好きなプラシド・ドミンゴが主演となっていて、若き日の色男が(今でもいい男だが)目の前に現れる。

 歌劇は歌舞伎と一緒で、大衆演芸だった。だから、セビリアの理髪師や昨日見ていたドン・ジョバンニなど解りやすい内容なのだが、時代背景を多少知らないとこのトスカは解りにくい。でも、好いた腫れた、略奪、お前も悪やのう越後屋、という水戸黄門のような展開は滑稽だ。

 落語でも「長命」なんて話があるが、大抵美人の周りにはシナリオになりやすいネタが転がっている。「何よりも 傍が毒だと 医者が言い」てことだなぁ。

源太郎も気をつけよう(笑)、そしてラウラは罪作りをしちゃダメだぞ。

 

 

DVDの解説は載せておこう。

 1976年に映像化された《トスカ》の冒頭で監督ジャンフランコ・デ・ボシオは、この歴史劇の舞台となる場所を特定し、映画のような語り口で展開していく。マントに身を包んだ男が人目を避けて急ぎ足でローマの通りを横切り、怪しまれないようにゆっくり歩き、そしてまた目的地であるサンタンドレア・デッラ・ヴァツレ教会をめざして走る。

 そこで初めて音楽が始まる。教会の正面がスクリーンいっぱいに広がり、卑劣なスカルピア男爵を表す和音が大音響で鳴り響く。デ・ボシオは一瞬にして、男爵の政治的圧力を象徴するその音楽を教会の権力と結びつける。

 このオペラの原作者であるフランスの劇作家、ヴィクトリアン・サルドゥは作品に地理的な正確さはさほど求めておらず、劇的な効果を上げるため、サンタンジェロ城を何のためらいもなくサン・ピエトロ大聖堂側からテペレ川の向かい岸に移そうとして作曲者を驚かせた。

 デ・ボシオの映像では反対に、視聴者をこのオペラに出てくるほとんどすべての場所に直接連れていく。そして息もつかせぬストーリーの展開に合った編集によってのみならず、プッチーニの音楽の糸目(数え切れないモティーフが脚本の中のさまざまな要素に結びついている)を視覚的なものと関連づけることによって、この推理劇に元々あった映画的な側面を強調している。

 映画としての技法もしばしば歌劇場では不可能と思われる方法で演技の中に持ち込まれる。たとえばスカルピアが入ってくる時カメラは興奮した聖歌隊員たちの頭上に置かれ、トスカがスカルピアを刺す時には突然手持ちカメラに替わる(我々は彼の動揺した視点から見る)。

 いくつかのディテールではそれ自体がストーリーを語っている。たとえばカヴァラドッシはファルネーゼ宮殿の拷問部屋に連れて行かれる時、トレント公会議を召集したファルネーゼ教皇の名前の書かれた扉から出ていく。プッチーニはトスカの飛び降りに代わる結末を考えるようにサルドウを熱心に説得した。危うくこのオペラはその決定的に劇的な見どころを失うところだったが、幸いこの脚本家が意見を変えることはなかった。そのクライマックスでデ・ボシオはカメラ数台をサンタンジェロ城の胸壁に設置し、それらをほとんど床の高さに保ち、トスカが死に向かい飛び降りていく直前、ローマの巨大な空に向かって立っている様子を映し出す。

 主な登場人物を演じる3人の歌手が選ばれたのはそれぞれの持つ能力の高さに加えて、映像にとって決定的なことに彼らが役にぴったりの年齢であったからだ(プッチーニは後のオペラでは配役表に役柄の年齢まで明記した)。ブルガリアのソプラノ、ライナ・カバイヴァンスカはプッチーニ作品で舞台デビューし(《外套》のジョルジェッタ役)、ヴェリズモ・オペラのヒロインが主なレパートリーとなったが、400回以上歌ったトスカを超えるものはない。プラシド・ドミンゴが最初にカヴァラドッシを歌ったのは1961年のメキシコで、ハンブルクとロンドンにデビューした時もこの役であった。彼は1995年にはこのオペラに歌手として出演したが、その後は指揮者として演奏者リストに名を連ねている。

 2000年にローマで行われた《トスカ》初演100周年公演の時も指揮を行った。このDVDでは、カメラはこの役に長年慣れ親しんだことから生まれた数々のアイデアを捕らえている。その中には、たとえばカヴァラドッシは処刑のための銃弾が空にはなっていないことを自らの直感から知っていて、トスカだけが真似事だと信じているというものがある。舞台でもCDでも、ドミンゴのなじみのパートナー、あるいはそれ以上に敵として共演するシェリル・ミルンズが、舞台のレパートリーに加えた保安官ジャック・ランス役とともにプッチーニの2大悪役をなすスカルピアを歌っている。そしてドミンゴの息子、プラシド・ジュニアは若い羊飼い役として登場する。その羊飼いの歌う悲しげな歌が夜明け前のローマに聞こえてきて、スカルピアがあの世から最後の裏切りのカードを切る。

 

あらすじ

 フランス革命の影響を受けて、イタリアには自由主義的、共和主義的な思潮が起こった。しかし、ナポリ王国のフェルディナント4世と王妃マリア・カロリーナがフランスに宣戦布告したことで、このような動きは反逆行為と見られるようになった。ローマはフランスに占領されて「ローマ共和国」となり、アンジェロッティはその領事であった。フランス軍はさらに南に進攻し、ナポリを占拠してそこに同盟共和国を樹立。夫とともにシチリアに逃げていた王妃マリア・カロリーナは、ナポリからフランス軍を追い払うため、イギリス、ロシア、オーストリアとともに兵力を組織した。王妃の軍隊はローマに進軍してこの地を奪回し、王妃はフェルディナントをシチリアに残しローマに移った。そして密偵や密告者に支えられた、ヴィテッリオ・スカルピア男爵が率いる秘密警察部隊が出現した。このオペラはこのような状況を背景として、1800年6月に起こる話である。共和国が崩壊し、反逆罪で投獄されていたアンジェロッティがサンタンジェロ城から逃げてくるところで幕が開く。

 

第1幕

 サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会。昼頃、教会には人気がない。

 アンジェロッティ(脱獄政治犯)が逃げてきて、妹が彼のために隠しておいてくれた鍵で礼拝堂の中に入る。そこには変装用の女衣装が置いてある。

 画家カヴァラドッシ(プラシド・ドミンゴ)がマグダラのマリアの絵を描くために戻ってくる。聖堂の堂守(味がある脇役)はもともとこの自由主義者の画家のことを快く思っていなかったが、最近ひとりで教会にやってきて祈っていた女性(実はアンジェロッティの妹)が知らぬ間にその絵のモデルとなっていることに気づき、驚く。

 堂守が行ってしまうと、アンジェロッティは礼拝堂から出てくる。アンジェロッティとカヴァラドッシはお互いに相手に気づくが、歌手でカヴァラドッシの恋人であるフローリア・トスカ(歌姫)がやって来て邪魔される。アンジェロッティは再び身を隠す。

 嫉妬深いトスカは恋人が他の女性と会っていたのではないかと問い詰める。しかしカヴァラドッシは彼女の気持ちを鎮め、ふたりはその日の夜、カヴァラドッシの別荘で会うことを約束する。マグダラのマリアの絵もトスカに嫉妬心を起こさせるが、カヴァラドッシは急いで彼女を外に送り出す。

 そこでカヴァラドッシはアンジェロッティに自分の別荘を使うように勧め、庭の井戸に降りる途中にある隠れ場所について説明する。逃亡者が出たことを知らせる大砲の発射音を聞いて、カヴァラドッシは急濾アンジェロッティを自分で別荘に連れていくことにする。

 堂守が戻ってきてナポレオンのマレンゴの敗北を告げる。聖歌隊が到着する間、彼はファルネーゼ宮殿で行われる祝宴でフローリア・トスカがカンタータを歌い、教会ではテ・デウム(われら神であるあなたを讃えん)が歌われるだろうと説明する。

 アンジェロッティの逃亡を知ったスカルピア(警視総監)が教会に入ってくる。堂守に尋問しながら、スカルピアはアンジェロッティが、画家とアンジェロッティの妹が描かれた絵と何かつながりがあるのではないかと思う。

 開いていた礼拝堂でスカルピアは、変装用の女性の衣装から落ちた扇を見つける。トスカがカヴァラドッシに祝宴でカンタータを歌わなくてはならないので会えなくなってしまったことを伝えに戻ってくる。彼がもう行ってしまったことを知って、トスカは再び疑念を持つ。スカルピアはその落ちていた扇で彼女の嫉妬心をあおる。

 トスカがカヴァラドッシと、愛人と思いこんでいる女性に会うために立ち去ると、スカルピアは3人の部下に彼女を尾行させる。《テ・デウム》の歌唱が始まると、スカルピアはトスカを手に入れ、彼女の恋人を処刑しようと考える。

 

第2幕

 その夜遅く。ファルネーゼ宮殿の上階にあるスカルピアの部屋。

 夕食をひとりで食べながら、スカルピアはまだトスカとカヴァラドッシに関する計画のことで頭がいっぱいである。彼は部下のひとりに、彼女がカンタータを歌うために到着したら渡すようにと手紙を託す。

 もうひとりの部下スポレッタ(密偵)はカヴァラドッシの別荘から戻ってきたが、アンジェロッティの手がかりは見つけられなかった。しかしカヴァラドッシを捕まえてきたとスカルピアに報告する。

 スカルピアがカヴァラドッシを呼んだのは彼に尋問するためだったが、この画家はアンジェロッティの逃亡の件もその行方についても知らないと言う。カンタータを歌い終え、トスカが入ってくる。スカルピアはカヴァラドッシを別の部屋に移し、さらに尋問を続ける。

 トスカも何も知らないと言うが、スカルピアは恋人が拷問にかけられていることを打ち明ける。この脅しに耐えきれず、トスカはアンジェロッティの隠れ場所をスカルピアに話してしまう。

 カヴァラドッシは解放され、拷問部屋から連れ出される。

 トスカが密告するのを聞いたカヴァラドッシは彼女を拒むが、突然スカルピアの部下のひとりが入ってきて、マレンゴからの前の報告は早まったもので、戦いに勝利したのはフランス軍であったことを伝える。

 カヴァラドッシがこの知らせに歓喜したことで、結果としてスカルピアに死刑を宣告されることとなり、カヴァラドッシは無理やり連れて行かれる。

 スカルピアはトスカにカヴァラドッシを救う唯一の方法は、彼女が自分に身を任せることだと言う。

 スポレッタが戻ってきて、アンジェロッティが発見された時に自殺したことを報告する。そしてカヴァラドッシをどうするのかとその指示を待っている。スカルピアはトスカに決断を委ねる。彼女はスカルピアの提案に同意するが、恋人をすぐに解放するよう望む。カヴァラドッシが死んだと思われるように、スカルピアは見せかけだけの処刑をすることにし、以前の事件と同じように行うことを強調して、スポレッタに事を運ぶよう指示する。

 トスカは自分とカヴァラドッシがローマを離れるための出国許可書を要求する。スカルピアがそれを書いている間トスカは食卓テーブルの上にナイフを見つけ、スカルピアがトスカを抱こうと立ち上がった時に彼の胸にそれを突き刺す。スカルピアは許可書を握ったまま息絶え、トスカはその手から許可書を奪い取る。そしてスカルピアの頭の左右に燭台を置き、壁からはずした十字架を胸の上に置いてそっと部屋を出ていく。

 

第3幕

 サンタンジェロ城の屋上はまだ暗く、そこでカヴァラドッシは射殺されることになっている。

 夜が明け始めると、遠くから羊飼いの少年の歌が聞こえる。近くの教会の鐘が朝の

祈りの時間を告げる。

 カヴァラドッシは連行され、トスカヘの手紙を託すために牢番を買収する。

 突然トスカが出国許可書を持って現れ、ふたりはそれをうっとりと読み上げる。

 トスカはカヴァラドッシにスカルピアを殺したことを話し、見せかけの処刑について説明する。

 兵士の一隊が到着し、カヴァラドッシの処刑を行う。

 兵士たちが立ち去ると、トスカはカヴァラドッシを起こしに行くが、死んでいることがわかる。スカルピアの死体が発見される。部下たちと兵士たちがトスカを捕まえようと大急ぎでやってくるが、彼女は彼らから逃れ、胸壁に駆けより、身を投げる。

 

ジェリーは「俺には関係ないことさ」とトスカを聞きながら爆睡している。

 


1973年LP盤紹介、、、" Dalida D'un Nouveau Monde"

2016年06月05日 | 音楽の話

LP盤は「復活」と称して、大手家電メーカーのオーディオコーナーには、ターンテーブルやパワーアンプ、プリアンプ・・・・手が出ない高価な製品が並んでいる。方や高音質のデルタル配信が始まったり、メーカーが誰をターゲットに商売しようとしているかは一目瞭然だ。

前にこのブログでDACについて「惑わされるな」と書いたことがあるが、この製品展開は前者は「団塊世代」、後者は「若手」をターゲットにし、結局、団塊世代の横並び性質を捉えて「音楽を楽しもう」ではなく、「LPを再生することがファッション」だとして、流行のように流布しているのがメーカー戦略だと思うわけだ。だからいつか廃れる。メーカーも学習能力がないのかなぁ。4Kや8Kなんて高級なTVがどれだけ売れただろう。テレビ離れなのに。

実際に、新しいLP盤も発売されているが、その数は少なく、またこれも高価だ。源太郎のように、もう広音域を拾えない年代は、デジタル音源より、アナログ音源がいいのだが、所詮は新しいLPはデジタル録音の焼き付け。だから、どうしても機械的に感じ好きにはなれない(聞き分けられないから、源太郎の思い込みだ)

古いレコードもオークションなどで流通しているが、誰かがプレミアをつけ、価格がつりあがっていくのを見ると、何か株取引のようで、堅実派の源太郎はその世界に足を踏み入れない。

どこぞのタイヤメーカーの「星いくつ」と同じで、美味しいは他人が決めるものではなく、「美味いまずい」を決めるのは食べた人(味覚はみんな違う)だ。音楽も同じで、他人がいいと言っても、それはそれ。自分が好きな音楽を聴くことが一番だ。

ただ、解説の手は借りたい。それも情報をちゃんと集めている人の解説が欲しい。源太郎が最も信頼している解説者は「永田文夫」さんだ。この方の解説は、事実を求め、曲を無理やり勧めない。「決めるのはあなた」という姿勢も素晴らしく、そして「言葉遣い」が丁寧で素晴らしい。

アルバムの解説を読みながら、たまに「チリ」とノイズが入るレコードを聴くことは贅沢だと思う。会話を楽しむように。これからLPを聞きたい人もいるだろう。その時は、復刻版のCDやネット配信音源を聞き、そして本当に好きになった曲を買いましょうよ。私の大好きなアルバムはダリダです。

このレコードの永田文夫さんの解説を原文通り転載しよう(怒られないかなぁ)

 ダリダといえばフランスはもとより、世界のポピュラー音楽業界にかくれもない、大ベテランの女性歌手。「バンビーノ」の大ヒットで、一躍スターダムにのし上ったのは、1957年のことでしたから、既に15年以上のキャリアーの持ち主です。以降彼女は、おなじみの「ラスト・ダンスは私と」「ゴンドリエ」「恋のジプシー」「哀愁のコルドバ」など、かずかずのヒットを放ち、輝やかしい名声を保って今日に及びました。 1973年には、またまた「あまい囁き」を、フランスおよび日本のヒット・パレ一ドに送りこみ、大いに話題を賑わしたことは、ご存じの通りです。ほかにも、彼女がうたって大流行させた曲は、権挙にいとまがありません。 2,000万枚以にに達するという、レコード・セールスの記録が、そのめざましい活躍ぶりと、すばらしい人気のほどを物語っています。

 これは、彼女による、1973年の最新アルバム。 ヨーロッパにおける同年度ヒット・メンバーを中心にした1枚ですが、選曲もすぐれ、演唱もまた一段と進境を示しました。声の魅力やテクニックのすばらしさもさることながら、情感のこもった名唱は、私たちの心を打たずにおきません。

 ダリダは、本名をヨランダ・ジリオッティといい、一九三三年一月十七日、エジプトのカイロで生まれました。両親ともイタリア人で、父はカイロのオペラ劇場の第一ヴァイオリン奏者でした。そんな関係から、彼女も幼いころからオペラがすきで、せっせと聞きに出かけたそうです。芸名の「ダリダ」というのも、オペラの「サムソンとデリラ」のデリラをデフォルメしたものなのです。

 学校を卒業すると、1951年から、54年まで彼女はある会社の秘書となって働きました。1954年、思わぬチャンスが訪れました。「ミス・オンディーヌ」(「水の精」のこと)という美人コンテストの広告を見て、友だちといっしょに応募したところ、みごとに優勝の栄冠をかちとったのです。その賞として、映画に出演することになり、彼女は監督につれられてパリヘやって来ました。同年のクリスマスの夜のことでした。こうして、1955年、映画が製作されましたが、これは完全な失敗作で、ほとんど話題にものぼりませんでした。

 パリが気に入った彼女は、そのままこの町にとどまり、歌で身を立てようと決心して、ロラン・ベルジェという先生のレッスンを受けたのち、「ヴィラ・デスト」というキャバレーで、歌手としての第一歩をふみ出しました。ついで「ドラプ・ドール」と契約されました。

 1956年4月、彼女は運をためそうと、オランピア劇場の新人オーディションを受けました。その日、劇場の隣りのビストロで、偶然ふたりの男の人と会いました。それが、バークレー・レコードの社長エディ・バークレーと、ウーロップ・ヌメロ・アン放送局の音楽ディレクター、リュシアン・モリスでした。彼らも、オーディションの審査員だったのです。

 421番という番号で受けたダリダは、お歴々を前にして、すっかり上ってしまい、余りよい出来ではありませんでした。しかし、モリスは彼女には注目し、バークレーにすすめて、一年間の契約をさせました。こうして、猛烈な特訓を経て、同年、デビュー盤「バンビーノ」が吹込まれ、その大ヒットによって、ダリダはアッという間に人気スターの仲間入りをしたのです。この曲の編曲と伴奏を担当して名を挙げたのは、当時はまだ無名のレーモン・ルフェーヴルでした。

 それからの彼女については、よくご存じの通りです。”56年ボビノ座のステージをふんだダリダは、”57年にはオランピア劇場に初出演して大成功を収め、”59年の芸能雑誌の人気投票で第一位を占めました。そして、名実ともにトップ・スターのひとりとして、ポピュラー音楽界のリーダーシップをとるに至ったのです。

 今はなきエディット・ピアフと、アマリア・ロドリゲスが大好き………というダリダは、その歌も、たしかにこれらの大先輩から、多くのものを学びとったふしが感ぜられますが、私生活でもピアフ同様、ゆたかな恋愛経験の持ち主です。まず育ての親ともいうべきリュシアン・モリスと、1961年に結婚しました。しかし、恋愛期間が長すぎたせいか、すぐに破局がおとずれ、ついである画家や、ジュリフット・グレコの愛人だったクリスチャン・ド・ラ・マジェールとのロマンスを騒がれました。 1966年、カンツォーネ界のカンタウトリ(作曲家兼歌手) ルイジ・テンコと知り合って愛し合い、”67年のサン・レモ音楽祭で、彼をパートナーに、その作品「チャオ・アモーレ・チャオ」をうたいますが、初日の夜、テンコはピストル自殺してしまい、1ヵ月後、ダリダも自殺をはかるという事件が起ります。さらに、モリスの自殺も重なって、彼女は大へんなショックを受けたわけです。にもかかわらず、不屈の精神力を発揮して、みごとにカム・バック、このアルバムでも、そういった体験に裏づけられた、奥深い歌声を聞かせてぐれているのです。

 

(第1面)

1. ジュリアン(エリーザ・エリーザ)  JULIEN (4:08)

2. さまよう塊 SEIGNEUR  DIEU (4:04)

3. 灰色の途 JE SUIS  MALADE (4:14)

4. 去り行くあなた VADO VIA(JE M’EN VAIS)(3:55)

5. あまい囁き PAROLES PAROLES(4:05)

6. レイン・レイン LEI,LEI  (3:26)

(第2面)

1. わたしむき NON CE N'EST PAS POUR MOI(3:00)

2. 18才の夏 IL VENAIT  D'AVOIR  DIX-HUIT ANS(2:55)

3. 新しい世界の太陽 SOLEIL D'UN NOUVEAU MONDE(3:29)

4. 知つてるの(ジュ・セイ) MAIS IL Y A L'ACCORDEON (3:22)

5. お父さんのいた頃 LE TEMPS DE MON PERE (3:15)

6. あきらめ RIEN QU'N HOMME DE PLUS (3:09)


Charles Aznavour chante Mourir d'aimer

2016年05月28日 | 音楽の話

Mihoちゃんは、夕方からJazz sessionの練習に出かけ、娘は先ほどイエローモンキーのコンサートに行っているとLINEがあった。JerryもLauraも留守番疲れか、源太郎の顔を見て、今二人とも爆睡している。だから、スピーカーのボリュームを上げても怒られず、好きな音楽を楽しんている。

今日最後のお勧めは「Charles Aznavour」ですね。このベスト盤は彼の曲を手短に聞くにはちょうどいいCDです。


この中に収まっている「Mourir d’aimer 愛のために死す」この曲を一度は聞いたことがあるでしょう。実話の悲劇を歌った曲は世界中にありますが、五本の指に入る名曲だと源太郎は思います。大好きなイタリア曲で「La Canzone di Marinella」という曲もあります。これも悲劇を歌っていますが、悲しみの度合いとしては「愛のために死す」が一枚上かもしれません。映画は少し誇張されていますが、同じ名前で封切られています。

 

この「愛のために死す」という曲は、1971年にアズナヴールが作詞・作曲した名曲ですが、フランスの五月革命という1968年の出来事の中で、起きた悲恋を題材にしています。どんなことが起きたか、それは今の自由なフランスでは考えられない出来事だったのです。

 

「1968年、激動の五月革命の時期を迎えた頃。マルセーユのリセの英語の教員であったガブリエ ル・リュシエが、教え子である高校生を愛するようになるが、相手の両親から訴えられて、未成年誘拐罪のかどで投獄され、ついに心神の耗弱をきたして自殺に追い 込まれた。これが「ガブリエル・リュシエ事件」として多くの人々が涙した事件」

 

CDに記載されている梅原英正さんの対訳をここに記します。ぜひ、この曲を聞いてみてください。 

「愛のために死す」

僕の人生の壁面はツルツルで

しがみついても滑ってしまう

ゆっくりと運命の方へ

愛のために死す

世間は僕を非難する

僕の逃げ場はただ一つ

出口は全て塞がれてしまった

愛のために死す

愛のために死す

自ら進んで闇に沈み

命にかえて愛を捧げる

罪を犯すのは肉体で 精神ではない

世間のゴタゴタや

憎悪に満ちた浅はか者は

ほって置くさ

愛のために死す

 

どうせ叶わぬ僕らの愛

燃やしてしまうより

終わりにする方がましだ

愛のために死す

再び前を向いて進もう

この世の常識を覆し

愛のために死す

愛のために死す

 

人が何かのためにそうするように

全てを捨て去り

持って行くのは僕と君の思い出

 

君は春で 僕は秋

君の心は摘み取られ 僕の心は捧げるもの

僕の行く道はもう決まっているのさ

愛のために死す

愛のために死す

愛のために

 

 


雨が上がった。今日は金子由香利さんのLPを楽しむ

2016年05月27日 | 音楽の話

そう、金子由香利さんといえば「シャンソン歌手」復刻版でCDもでているが、好きで集めたLPは、まだまだ現役でいい音を聞かせてくれる。このLPは1981年PHILIPSから発売された「28PL-9」。

白黒のジャケットに白抜きの文字で「夜よさようなら 金子由香利」と書いてあるだけだ。ジャケットの裏も曲名だけがこれまた白抜きの文字で全12曲が書かれていいる。

 

「夜よさようなら ADIEU A LA NUIT」

あゝ、この世の果ての はるかな 旅路を

一人 暗い過去を抱き 歩くあなたは

  夜の影におびえ のぞみの影もなく

  一人 生きてゆくのか この夜の闇に

あゝ 私の道も 冬の荒野に

舞う 枯葉のように 一人だった

 

金子由香利さんは、もうだいぶお歳を召されたと思うが、どうされているのだろうか。

青春時代によく聞いたLPが今は懐かしい。

 

 


今日はCarmen Consoliを聞いている

2016年05月16日 | 音楽の話

日本ではほとんど知られいてない彼女。1974年生まれの彼女はイタリアのシチリア島出身のcantautore(米国的に言えばシンガーソングライター)。ギタリストでビブラートのあるハスキーな声は独特。そして美人となれば、源太郎の専売特許。まずは彼女のジャケットから一枚。

彼女は、Laura Pausiniが主宰したAmiche per L'Abruzzoの女性歌手だけの地震チャリティーコンサートの一部のトリをつとめ、第二部の冒頭、Fiorella、Laura、GiorgiaそしてElisaとコンサートを盛り上げている。

一番左側が彼女である。そして一部のトリではベース演奏を見事にこなしている。そして足元のブーツは外側が白、内側が黒。とてもオシャレでいい。

彼女の新曲はいくつも出ているが、やっぱり名曲はこれ。

この曲のMVはYouTubeでアップされている。鉄道ファンも乗ってみたいだろう列車が印象的だ。それを録音してあるテープを聴いている。今日は2トラ38のRT-1050の2号機(1号機は4トラ38にヘッドを交換してある)にカンバってもらおう。この写真は先ほどまでMilvaのLP盤を録音ていた写真。



源太郎。R&Bも聴くんです。

2016年05月08日 | 音楽の話

 Zuccheroさんについて、過去に娘の行きつけの店の店主が好きだという記事を書いたことがある。しかし、肝心な彼の集大成のようなコンサートのCD+DVDを紹介していなかった。源太郎は美人歌手だけを聴く訳ではない。同世代のZuccheroさんは好きな歌手だ。ついつい美人に目がいってしまうが、是非彼のコンサートの素晴らしさを味わっていただきたいと思い、ここに真面目に紹介してみたい。

 

1955年生まれの彼は、2012年5月20日にボローニャ近くで大地震があったFinale Emilia近くのReggio Emiliaで生まれた(この地震の復興コンサートは空港の滑走路が会場となり史上最大の15万人のコンサートが開かれた。その発起人でもある。もちろんLaura Pausiniも発起人の一人だったが、妊娠していたので大事をとって参加は見送った)。

 

1970年代半ばに、彼は最初のバンドを結成して、トスカーナ地方のForte dei Marmiに移住した。前にも書いたが「Zucchero(砂糖)」というニックネームは小学校で先生から付けられたものだったそうだ。(顔を見ると渋茶のような男だが、子供の頃は可愛かったのだろう)

それから、苦節10年、カストロカーロ新人コンテストに参加して「Canto te」という曲で優勝し、1982年にサンレモ音楽祭に初出場、「Una notte che vola via」で入賞、翌1983年にも「Nuvola」でサンレモに参加している。そして、1986年再びサンレモに出て「Canzone triste」で入賞。傑作とされるアルバム「Rispetto」を発表し、R&Bのスターとなった。それからは、ヨーロッパを代表する歌手として多くの外国人アーティストと共演、ルチァーノ・パヴァロッティの国際慈善コンサート「Pavarotti & Friends」にも常連として参加した。

 

源太郎が彼を知ったのは1992年のPavarotti & friendsのCharity Gala Concertだから、過去のサンレモの活躍は後で知ったことになる。だからLaura Pausiniのようにデビュー当時からのファンではないが、後で惚れ込んだ歌手になったわけだ。この時のコンサートでは、Sting、Lucio Dalla、Patricia Kassが共演している。

 

YouTubeでも多くの楽曲がアップされている。是非ご覧あれ。ここでは2007年と2008年のコンサートを収録したCD+DVDのジャケットを紹介しようと思う。残念ながら映像は輸入盤(PAL)なので、専用再生装置かパソコンで見るしかない。



源太郎もフォークソングを聴くんですよ

2016年04月30日 | 音楽の話

ついつい洋楽のそれも美人の歌手ばかり。家族に呆れられてしまう前に(すでに放置状態だが)、古いLP盤を引っ張り出して、僕もちゃんと「フォーク世代」と証明したい。岡林信康さんや小室等さんは格調が高くて。次の世代の「吉田拓郎」さん。でも録音技術・音の良さは「井上陽水」さんの方がグレードが高かった。今聞きくらべてもはっきりわかる。

Mihoちゃんと最初に買ったレコードは?なんて話をつい前日していた。私は「面影橋から」なのよと言って鼻歌を歌っていた。結構「おばさんじゃん」

今は、吉田拓郎さんの「TAKURO SELECTION」を聞きながら、そして昨日娘と飲んだ飲み残しのワインを飲みながらこのブログ記事を書いている。「なんで、一つの音にこんなに詩を詰め込むんだろう」しかも同じ音の連続じゃん。と言っても大スター何にも考えない時に聞くには程よい曲かもしれない。大型のスキャナーを起動するのはめんどくさいので、ジャケットの一部をスキャンして掲載します。

吉田拓郎さんのLPはあんまり聞かなかったのだろう。傷一つない。でもジャケットは色褪せている。

録音技術が素晴らしいと思ったのは、1973年4月に厚生年金会館での井上陽水さんの「実況録音」。相撲中継じゃないのに、レコードのジャケットには「実況録音」と記載されている。味があるじゃないか。そして、リリースじゃなくて「発売」いいね。いいね。

でも、源太郎にとって女性歌手を外すわけにはいかない。森山良子さんや赤い鳥の平山泰代さんも好きだったけど、やっぱり「暗い」、山崎ハコさんが好きだった。

ということで、源太郎はちゃんとフォークを聞いていたんですよ。あしからず。

 


交響詩「わが祖国」全曲

2016年04月29日 | 音楽の話

昼食は、帰ってきた娘と息子と久しぶりに全員が揃って食卓を囲んだ。Jerryは眠たいらしく、顎だけあげて姉ちゃんにお帰りと言っている。Lauraはそれより「煮干し」と言って、源太郎を呼びに来て、冷蔵庫の前に座って見つめている。

食事も終わり、次のレコードを聴く。スメタナの「わが祖国」。全6曲だが大抵「モルダウ」しか聴くことはない。でも「ヴィシェフラド」から最後の「ブラニーク」まで聴くと、うとうとと眠くなるから、まず真面目に聴くことはない。チェコに訪れたことがある方ならわかると思うが、ボヘミアの風景が思い出されるだろう。

モルダウ川と言うより「ヴルタヴァ川」と言った方がしっくる。録音は1975年。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏の2枚組のLP盤。

先ほどまで雨が降っていたかと思うと、今は青空に夏雲のような真っ白な雲が湧き上がっている。観光地は混んでいるだろうな。


連休初日、EDITH PIAFを聴く

2016年04月29日 | 音楽の話

天気はスッキリしない。朝早くからオープンテープレコーダーのTEAC 22-4の清掃をして、配置換え。そして朝食後、ピックアップのカートリッジを変更して、エディット・ピアフ没後20周年企画盤のLP(EOS-90113)をかけている。

少しピックアップの針圧をあげて再生し、清掃したばかりの22-4で録音をしながらだ。オリジナルの音源はモノラルだが「最新の技術によりモノラル録音をステレオ化したものです」と注意書きがある。そして「賃貸業」という言葉が初めて登場した頃のレコードだ。

1970年代のレコードには「レコードから無断でテープその他に録音することは法律で禁じられています」とあるが、このレコードは1983年盤、だから「このレコードを賃貸業に使用することを禁じます。また、テープその他に録音することは法律で禁じられています」となっている。

レコードが再びマニアのために近年発売されているが、今はどのように書いているのだろうか。最近発売されたレコードは購入したことがないのでわからない。「デドタル化したりインターネット配信したらダメ」と書いてあるのだろうか。

エディット・ピアフは1963年に亡くなった。レコードの曲順は年代順になっており、1946年のLA VIE EN ROSEから始まり、1963年のL'HOMME DE BERLINとなっている。

最後の曲は、1963年4月7日、彼女の自宅て録音された最後の音源だ。そして新進気鋭のフランシス・レイがバックてアコーディオンを弾いている。フランシス・レイは前回紹介したように、多くの歌手の力を借りて、メジャーになっていったんだなぁ。

曲名はLP盤のジャケットの一部をスキャンしたもの。さて、音楽漬けの連休にしよう。