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LPレコードの紹介 (No.053,054,055) DARK DUCKS RUSSIA FOLK

2016年07月07日 | LPレコード紹介

源太郎の年代なら「ダーク・ダックス」といえば「ロシア民謡」を思い浮かべるだろう。パクさん、ゲタさんが亡くなり、今年6月にマンガさんが亡くなってしまい、ゾウさん一人になってしまったダーク・ダックス。寂しい限りだ。源太郎のレコードコレクションには三枚のダーク・ダックスのLPがある。
「さぁ、ラウラ。暑いところだけど、おばあちゃんから聞いたダーク・ダックスの紹介を頼むよ」
「はい、はい。じゃ、おばあちゃんの日記を読むよ」

「昭和35年5月30日、羽田空港はごったがえしておりました。ダーク・ダックスの初のソ連演奏ツァーの見送りです。当時の日本は、ようやく高度成の波に乗り、テレビ受信契約数200万台を突破したとはいえ、ポップス畑の音楽家の海外演奏など、思いもかけぬことだったのです」

「いいね、その調子」

「高見沢宏(トップ・テナー=通称パク)、佐々木通正(リード・テナー=マンガ)、喜早哲(バリトンエ=ゲタ)、遠山一(バス=ソウ)の日本のトップ・コーラス・グループに、ソ連文化省からの招へいが来たのは、昭和34年の秋のことでした。翌35年5月にソ連の文化使節レニングラード・バレエ団が日本にやって来る、その飛行機でダーク・タッ
クスをお招きしたいというのが、ソ連側の意向でした」

「そうだね。ソ連だよね。今日ソューズロケットの打ち上げだね」

「モスクワ、レニングラード、キエフなどの大都市で20ステージ、そのほがラジオ、テレビに随時出演する、こうしたソ連のスケジュールに備えて、ダーク・ダックスは旅立ちの日まで猛レッスンを重ねたそうだ。「会津磐梯山」「木曽節」などの日本民謡、イタリア、アメリカ、イギリスなどの世界民謡、まして本場で披露するロシア民謡にはもっとも力を入れ、それにソフトなポップス、ジャズ、シャンソンが、日本人初のソ連公演のプログラミングだったのよ」

「黒いアヒルのように黒いダーク・スーツに身をかためた四人は、花束を抱え、空港のロビーで”いまぞ別れのとき”を合唱し、タラップヘ向かいました。ソ連からヨーロッパ各地の歌の探求、長い三ヵ月の別れのダーク・ダックスを乗せたソ連のジェット機は、轟音と白煙を残して羽田空港を飛び立ちました。時刻は午後2時30分。そしてこのときから、ダーク・タックスと本格的ロシアの歌との結びつきがはじまったのです」

「こんな感じだね」
「いいね。それで」
「ここからは、レコードの説明文」

「慶応大学ワグネル・ソサイェティの創立は明治34年、かつては満州にまで演奏旅行したという名門の男声コーラス団です。複数の声がつくる絶妙の調和、美しいハーモニーが織りなす快適なアンサンブル、このような楽しさに魅せられたパク、マンガ、ゲタ、ゾウの四人の男にとって、ワグネル・ソサイェティは学業以上の生きる場所でした。楽しいけれどもシビアな生活、昭和26年12月ワグネルの年中行事クリスマス・パーティの席上、マンガとゲタの”マイ・ハピネス”のデュエットに加わったのが、すごい低音のゾウ、このトリオに翌27年パクが加わりました」

「喜早は「四人がなんとなくマージャンをしていた。それぞれハナ唄を歌う。ハモる、そのうちになんか有意義なこと、そして少しでもアルバイトになることをやろうと誰かが言いだした。歌しか能のないわれら、黒人のゴールデン・ゲート・カルテットに感動し、まず『ダーク』という名が浮かび、しょっちゅうガヤガヤおしゃべりするからダックスで行こうとなった。と、その結成を語ります」

「NHKラジオの「昼のいこい」が、慶応の制服で歌った初演でした。その間亡き小島正雄氏の特別を受け、ナンシー梅木、江利チエミらとの共演を続け、ようやくプロ・コーラスとしてのダーク・ダックスが軌道に乗りはじめたのは昭和30年、メンバー四人が卒業期を迎えるころでした(奇しくも、その前年の秋、ポリドールで旗照夫のバックなど、二、三のレコーディングも行なっています)」

「ワグネル・ソサイェティはクラシックのコーラス団です。符面をくずすことは罪悪ともいえます。ダーク・タックスが、この強い基礎から幅広いポピュラー行楽を目ざすについて、なみなみならぬ決心が必要だったことはいうまでもありません。昭和30年ごろはボーカル・グループ全盛時代、とくに米軍キャンプの仕事は、勉強にもなり率もよかった。だが酒を飲み、女をはべらせるアメリカ兵を見ていると、つくづくいや気がさした。とキャンプで歌うことは、ぶっつりやめ、あまりに仕事がたてこんでくると、前の仕事で自分たちがなにをやったか忘れてしまう。完全な痴呆状態に
なり、思考能カゼロとなる。これではだめだと週一回の休養は必ずとるようにした。こうした合議制からくる決断、ダーク・ダックスが25年も続いた理由は、その美しいハーモニーのように、四人の固い団結があったからです」

「昭和50年で19回目を迎える年一回のリサイタル、これには交通遺児、ベトナムで死んだカメラマンなど、つねに前向きのモチーフが盛りこまれています。そして、昭和35年の第1回の訪ソは「どこでもアンコール、アンコールの叫び声の連続で、夜の更けることもあった」ほどの歓迎ぶり、昭和49年2月の初の厳冬ソ連ツアーまで五回を数え、今後もまだまだ続きます。若いフォーク・グループが離合集散をぐり返す現況の中で、ベテランのダーク・ダックスは、ポリドールという新しい土壌のもとに、このロシア民謡アルバムからスタートし、数々の名盤をみなさまのもとに贈り続けることでしょう」

「暑くなってきた。今日はこれでお手伝いはおしまいだよ」
「ありがとう。ラウラ。また明日頼むよ」
「いいけどさぁ。朝ごはんもらったかなぁ。食べていないようなきがする」
「あぁ、食べてないね。じゃ朝ごはん食べよう」

ということで「おやつ」はすっかり忘れているラウラでした。
あれから太陽が昇り、ぐんぐん気温が上がってきた。富士山の姿も暑苦しい。


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