〇元木泰雄『源頼朝:武家政治の創始者』(中公新書) 中央公論新社 2019.1
私は長年の平家びいきで、源氏にはあまり興味がない。だが、最近、坂井孝一氏の『承久の乱』を読んで、鎌倉幕府の歴史に興味を感じたことと、著者の『河内源氏』(中公新書、2011)がとても面白かった記憶があるので、本書を読み始めた。
冒頭の「はじめに」は、建久元年(1190)11月7日、千騎の随兵を率いた頼朝が、30年ぶりに京に凱旋した場面から始まる。後白河院も牛車の中から密かにこの行列を見物していたという。わあ、なんだか大河ドラマの始まりみたいだ。しかし本書は堅実な歴史書で、小説ではないので、頼朝がどんな感慨を抱いていたかというような文学的想像を逞しくはしない。基本的に史料に従って、分かることだけを叙述するオーソドックスなスタイルで、古い人間には読みやすかった。
本文は時代をさかのぼって河内源氏の盛衰を短く語り、父・義朝の登場、保元の乱、ついで平治の乱で頼朝が伊豆へ配流になる顛末を述べる。治承4年の挙兵。このへんまでは、平家好きの私にはなじみ深い物語。その後の、反転攻勢をかける平氏、後白河を筆頭とする京の貴族たち、源氏内部の骨肉の争い(頼朝、義仲、義経)、奥州藤原氏の無視できない存在感、という複雑に入り組んだ覇権争いは、あらためて面白かった。
通俗的な見方の修正を迫られた点はいろいろあった。ひとつは頼朝と義経の対立の発端は、元暦元年、義経が後白河院より左衛門少尉に任ぜられ、検非違使を宣下され、辞退しなかったことにあるという説。実際には、その後も義経は頼朝と後白河との取次ぎ等、重要な役割を果たしている。「腰越状」も偽作の可能性が高いという。問題は、平家滅亡以後の文治元年、義経が伊予守に補任されたときに起きた。受領は遥任が一般的なので、義経は鎌倉へ帰らなければならない。ところが、義経を京にとどめておきたい後白河が前例をやぶって検非違使に留任させた。
九条兼実はこれを「未曽有」と驚いている。本書は、著者が歴史上の人物の心境を憶測で語ることはしないが、その分を補って、一喜一憂の人間的な彩りを添えているのが兼実の『玉葉』からの引用である。このひとは、歴史の記録者としての面しか知らなかったけれど、乱世をしぶとく生き延びて権勢の座に君臨するが、晩年は失脚して寂しく没する。頼朝とは盟友関係にあったというが、どちらも食えないところがあって、あまり情の通った関係には見えない。
頼朝が義経追討を決意すると、京へ派遣されたのは北条時政である。義経は畿内周辺で寺社の保護を受けて潜伏していたが、鎌倉方は延暦寺や興福寺へも追手を差し向ける。最終的に、朝廷の意志に背いても奥州へ義経討伐軍を向けるに当たって、大庭景能に「兵法」(武士の規範)を尋ね、軍中では将軍の命令を聞き、天下の詔を聞かないものだという回答を得て、出発を決意する。これは何気にすごい規範意識ではないか。日本が天皇統治の国だったなどという戯言を吹っ飛ばすような。この大庭景能が、義朝のもとで保元の乱に参戦した老武者であるというのも感慨深い。
しかし頼朝の望みが、後白河の王権を支える/庇護する唯一の官軍「朝(ちょう)の大将軍」だったことも見逃せない。そのために頼朝は平氏、義仲、義経というライバルを次々に屠ってきたのである。なお、頼朝は「征夷大将軍」任官を望んでいたが、後白河没後までその官職を得ることができなかったという俗説がある。本書によれば、頼朝は特に「征夷大将軍」を指定して望んではおらず、天皇大権の委譲をもくろんだという見方は全く当たらないという。
また征夷大将軍就任をもって鎌倉幕府の成立と評価することもできないと言われているが、このあと政所下文(まんどころくだしぶみ)の発給が本格的に始まり、頼朝は鎌倉殿を王権権威(官位)で荘厳し、将軍と御家人の主従関係は戦時から平時に移行した。ここまでで本書は9割(9割5分?)以上の頁数が尽きる。
最終章に突如放り込まれる「曽我事件」。私は『曽我物語』を読んでいないので不案内なのだが、「諸説錯綜してその真相に迫ることは難しい」事件であるらしい。また範頼の失脚と何らかの関係があるという説もあるそうだ。続いて、落馬による頼朝死去があっけなく語られ、わずか数頁の「むすび」で頼朝死後の幕府について慌ただしく本書は終わる。次は、ここから始まる北条氏の物語を読みたい。
私は長年の平家びいきで、源氏にはあまり興味がない。だが、最近、坂井孝一氏の『承久の乱』を読んで、鎌倉幕府の歴史に興味を感じたことと、著者の『河内源氏』(中公新書、2011)がとても面白かった記憶があるので、本書を読み始めた。
冒頭の「はじめに」は、建久元年(1190)11月7日、千騎の随兵を率いた頼朝が、30年ぶりに京に凱旋した場面から始まる。後白河院も牛車の中から密かにこの行列を見物していたという。わあ、なんだか大河ドラマの始まりみたいだ。しかし本書は堅実な歴史書で、小説ではないので、頼朝がどんな感慨を抱いていたかというような文学的想像を逞しくはしない。基本的に史料に従って、分かることだけを叙述するオーソドックスなスタイルで、古い人間には読みやすかった。
本文は時代をさかのぼって河内源氏の盛衰を短く語り、父・義朝の登場、保元の乱、ついで平治の乱で頼朝が伊豆へ配流になる顛末を述べる。治承4年の挙兵。このへんまでは、平家好きの私にはなじみ深い物語。その後の、反転攻勢をかける平氏、後白河を筆頭とする京の貴族たち、源氏内部の骨肉の争い(頼朝、義仲、義経)、奥州藤原氏の無視できない存在感、という複雑に入り組んだ覇権争いは、あらためて面白かった。
通俗的な見方の修正を迫られた点はいろいろあった。ひとつは頼朝と義経の対立の発端は、元暦元年、義経が後白河院より左衛門少尉に任ぜられ、検非違使を宣下され、辞退しなかったことにあるという説。実際には、その後も義経は頼朝と後白河との取次ぎ等、重要な役割を果たしている。「腰越状」も偽作の可能性が高いという。問題は、平家滅亡以後の文治元年、義経が伊予守に補任されたときに起きた。受領は遥任が一般的なので、義経は鎌倉へ帰らなければならない。ところが、義経を京にとどめておきたい後白河が前例をやぶって検非違使に留任させた。
九条兼実はこれを「未曽有」と驚いている。本書は、著者が歴史上の人物の心境を憶測で語ることはしないが、その分を補って、一喜一憂の人間的な彩りを添えているのが兼実の『玉葉』からの引用である。このひとは、歴史の記録者としての面しか知らなかったけれど、乱世をしぶとく生き延びて権勢の座に君臨するが、晩年は失脚して寂しく没する。頼朝とは盟友関係にあったというが、どちらも食えないところがあって、あまり情の通った関係には見えない。
頼朝が義経追討を決意すると、京へ派遣されたのは北条時政である。義経は畿内周辺で寺社の保護を受けて潜伏していたが、鎌倉方は延暦寺や興福寺へも追手を差し向ける。最終的に、朝廷の意志に背いても奥州へ義経討伐軍を向けるに当たって、大庭景能に「兵法」(武士の規範)を尋ね、軍中では将軍の命令を聞き、天下の詔を聞かないものだという回答を得て、出発を決意する。これは何気にすごい規範意識ではないか。日本が天皇統治の国だったなどという戯言を吹っ飛ばすような。この大庭景能が、義朝のもとで保元の乱に参戦した老武者であるというのも感慨深い。
しかし頼朝の望みが、後白河の王権を支える/庇護する唯一の官軍「朝(ちょう)の大将軍」だったことも見逃せない。そのために頼朝は平氏、義仲、義経というライバルを次々に屠ってきたのである。なお、頼朝は「征夷大将軍」任官を望んでいたが、後白河没後までその官職を得ることができなかったという俗説がある。本書によれば、頼朝は特に「征夷大将軍」を指定して望んではおらず、天皇大権の委譲をもくろんだという見方は全く当たらないという。
また征夷大将軍就任をもって鎌倉幕府の成立と評価することもできないと言われているが、このあと政所下文(まんどころくだしぶみ)の発給が本格的に始まり、頼朝は鎌倉殿を王権権威(官位)で荘厳し、将軍と御家人の主従関係は戦時から平時に移行した。ここまでで本書は9割(9割5分?)以上の頁数が尽きる。
最終章に突如放り込まれる「曽我事件」。私は『曽我物語』を読んでいないので不案内なのだが、「諸説錯綜してその真相に迫ることは難しい」事件であるらしい。また範頼の失脚と何らかの関係があるという説もあるそうだ。続いて、落馬による頼朝死去があっけなく語られ、わずか数頁の「むすび」で頼朝死後の幕府について慌ただしく本書は終わる。次は、ここから始まる北条氏の物語を読みたい。