見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

雲中供養菩薩に結縁/天上の舞 飛天の美(サントリー美術館)

2014-01-06 23:57:03 | 行ったもの(美術館・見仏)
サントリー美術館 平等院鳳凰堂平成修理完成記念『天上の舞 飛天の美』(2013年11月23日~2014年1月13日)

 あけましておめでとうございます。これが、2014年初訪問の展覧会。1月2日から開けてるなんて、サントリー美術館、えらい!

 実は「平等院鳳凰堂平成修理完成記念」と聞いて、平等院所蔵の宝物がたくさん並ぶのかと思っていた。そうしたら、冒頭は「飛天の源流と伝播」と名うって、インド・西域・中国・朝鮮等の文物(石彫・玉・瓦・金属工芸)に表された「飛天」のイメージを探る。サントリー美術館って『鳳凰と獅子』とか、こういうイメージ蒐集型の展覧会、好きだよね。あ、これは芸大美術館の飛天像(北魏時代)だ、とか、泉屋博古館の舎利容器(唐時代)だ、とか、見覚えのあるもの多し。薬師寺東塔の水煙の実物大模造品も来ていた。先日、見て来た本物より、黒光りして美しい。

 そして「天上の光景(当麻曼荼羅図)」から「来迎図」へと、飛天のイメージは展開していく。迦陵頻伽のイメージもいろいろあったが、艶めかしい天女の腰から、細く猛々しい鳥の脚が生えた図は、妖しく倒錯的な感じがする。ヨートカン出土の共命鳥(ぐみょうちょう)は可愛かったな。以前、近江札所で集めた「浄土の鳥」土鈴シリーズにも「共命之鳥」がいたことを思い出す。

 飛天イメージの地域・時代的変遷としては、まず西域では、西洋の天使と同様「有翼」のイメージが見られること。東アジアの飛天には翼がなく、風になびく天衣や、顔を下にし、手足を上方にした姿勢が、飛翔・浮遊を表現していること。時代が下ると絵画でも彫像でも「雲」の表現が必須になること、などを学んだ。

 平等院本尊のように、飛天を配した光背を「飛天光背」と呼ぶ。本展では、埼玉・今宮坊(秩父か?)や愛知・長暦寺の飛天(光背残欠)像が見られて、面白かった。単独像のように見えるが、実は「飛天光背」の一部として作られたものと推測されている。

 さて、階段を下りると、ようやく平等院鳳凰堂の飛天(雲中供養菩薩像)の登場。中央に阿弥陀如来坐像の巨大な写真パネル。その左右に、ガラスケースに収まった計6体の金ピカ厚塗りの「飛天」が6体。ん?何、君たちは?と、正直、戸惑った。視線を上げると、少し上方の壁には、見慣れた木彫の「雲中供養菩薩像」が何体か、自由なポーズで行き交っている(僧形も)。

 パネルの説明を読んで、やっと呑み込めた。ケース内の金ピカ飛天は、本尊の光背に付属する《阿弥陀如来坐像光背飛天》だったのだ。全12体のうち、6体(展示)が平安時代に作られたものだという。いずれも少しずつポーズが違うので、中央の写真パネルの光背に注目し、どれがどの位置にはめ込まれたものかを確認しようとした。しかし、写真の精度が粗いので、いまいち確認しにくかった。金ピカすぎて、みうらじゅんの「つっこみ如来」を思い出してしまったことは…内緒だ。

 「雲中供養菩薩像」は、原品のほかに、仏師・村上清氏による模刻や彩色想定復元模刻も来ていた。1体だけ、観客が一列に並んでいるものがあったので、不思議に思ったら、展示ケースのガラスの一部(腰のあたり)が開いていて、そこから手を入れて、飛天に触れられるようになっている。展示に供する仏様は「魂」を抜いてしまうものだが、この像には「魂」が入っていて、「結縁」できるのだという(※さすがに原品ではなく模刻像)。

 もちろん私も「結縁」させていただき、思わぬ「初詣」で、新年のスタートとなった。案内の方がそばに付いていたが、特に混乱はなく、みんな、神妙な面持ちで飛天像をひと撫ぜふた撫ぜして、次の人に順番を譲っていた。博物館や美術館の仏像や神像は「展示」に過ぎないが、多くの日本人の観客は、どこかに「参拝」の気持ちを残しているように思う。
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2013-14年末年始・覚え書

2014-01-05 22:06:49 | 日常生活
年末年始休暇は今日まで。明日からまた、仕事が始まる。

暮れの30日は、東京のもと住んでいた住宅街で、友人2人とゆったりディナー。







年始の4日は、別の友人と横浜で食事。あとは実家で家族と過ごした。

行ってきた展覧会。

・サントリー美術館 平等院鳳凰堂平成修理完成記念『天上の舞 飛天の美』
・東京国立博物館 『博物館に初もうで』他
・山種美術館 『Kawaii 日本美術』
・横浜美術館 生誕140年記念『下村観山展』
・横浜ユーラシア文化館 開館10周年記念特別展『遣唐使は見た!』
・五島美術館 『茶道具取合せ展』

レポートは追々。
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生き過ぎたりや廿三/豊国祭礼図を読む(黒田日出男)

2014-01-04 00:32:10 | 読んだもの(書籍)
○黒田日出男『豊国祭礼図を読む』(角川選書) KADOKAWA 2013.11

 面白かった! 面白すぎて、感想を書こうとして、ハタと困っている。本書の面白さは、謎解きミステリーの趣きなのだ。私は、本書の結論がどこに向かうのか、全く予備知識なしに読み始め、一つ目の謎が解かれ、二つ目が解かれ、最後の三つ目の謎解きを読んだときは呆然、いやむしろ陶然となった。著者の掌で転がされる快感を味わいたい人は、こんな中途半端なネタばれ記事を読むのはやめて、即刻、本書を読み始めたほうがいい。

 という注意書を掲げた上での読後レポートである。「豊国祭礼図(ほうこくさいれいず)」または「豊国祭礼図屏風」とは、慶長9年(1604)8月、豊臣秀吉の七回忌に行われた臨時祭礼を描いた作品。本書は、まず絵画作品成立の背景として、秀吉がどうして死後すぐ神になったか(天下人の人神信仰)、秀吉の死と箝口令、豊臣氏滅亡に至る政治史のプロセス、臨時祭礼の挙行の記録について論ずる。秀吉の死に関し、イエズス会宣教師の報告が大量に引用されていて、非常に興味深い。

 次に本書は「豊国祭礼図屏風」諸本の研究史を紹介し、注目すべきは、豊国神社本、徳川美術館本、妙法院模本の三本であると結論する。制作年代順には、(1)豊国神社本。狩野内膳が制作し、慶長11年8月の豊国大明神臨時祭礼に際して「下陣立置、諸人見物」(舜旧記)の後、片桐且元から豊国神社に奉納された。昨年、東博の『国宝 大神社展』に出陳されていたから、記憶している人も多いのではないかと思う。祭礼の主人公は高台院(秀吉の妻おね=北政所)であるはずだが、桟敷には御簾が下ろされていて、高台院の姿は見えない。しかし、画中には、目立つところに身分の高そうな「老尼」の姿が描き込まれている。著者は、この「老尼」こそ高台院であり、「皺だらけの怖い顔」に描かせたのは、陰の注文者である淀殿・秀頼の意図であったと考える。これが第一の謎解き。

 続いて(2)妙法院模本は、天明期の写本だが、慶長後半期にさかのぼる原本があったと推測されている。本書はこれを慶長17年4月「新調」(舜旧記)の記録に当てる。この作品にも、桟敷の御簾の内側をはじめ、数ヶ所に高台院らしき尼姿が見られるが、いずれも穏やかな面貌をしている。先行する豊国神社本で、皺くちゃな怖い顔に描かれてしまった高台院とその周辺の人々にとって、その「描き直し」は宿願であったろう。これが第二の謎解き。

 第三の謎解きは、いよいよ、岩佐又兵衛の初期作品と目される(3)徳川美術館本。制作時期は、慶長19年から元和4年頃と推定されている。よく知られた作品だが、私は、2010年の徳川美術館『尾張徳川家の名宝』展が唯一の遭遇体験。作者にも注文者にも伝来にも、いろいろ謎が深いのだが、本書が注目するのは、右隻第五扇・第六扇に描かれた「かぶき者」の喧嘩の図である。もろ肌脱ぎの男の腰の朱鞘には「いきすき(生過)たりや廿三、八まん(幡)ひけはとるまい」と金泥で記されている。

 これについては、慶長17年(1612)江戸で処刑されたかぶき者、大鳥逸兵衛も刀の茎(なかご)に同様の文句を刻んでいた(→Wiki「かぶき者」「大鳥逸平」参照)ことが、従来、美術史家によっても指摘されてきた。

 しかし、著者は「廿三」という年齢に着目することによって、この「かぶき者」が、明瞭にある人物の「見立て」であることを解き明かす。それによって、喧嘩の相手の男たちも、間に入る僧侶も、横転する手輿の中の高貴な女性も、飛び退く老後家尼も、単に描かれたままの姿ではない「見立て」の役割を振り当てられる(※やっぱり、これ以上のネタバレは言えない)。

 さらに喧嘩図の上方に見える橋と、橋を渡った先にある別世界。著者はそれを、喧嘩=戦の後にやってきた「うき世」と見なしている。中世的な「憂き世」ではなく「浮き世」(性愛の世界)の幕開けなわけね。この「うき世」を又兵衛がどんなふうに描いているのか、確認したいのだが、詳細図版が手元にない(ネット上にもない)のが残念。

 ざっくりまとめてしまったが、本書の記述は、もっとずっと精緻で、史料論の再検討や、絵画史(美術史)と絵画史料論がお互いから学ぶべきことなど、示唆に富む指摘がたくさんあった。なお、冷静に考えてみると、こういう「見立て」は、幕末の浮世絵や錦絵では珍しくない、と思い当たったことも付け加えておこう。それから、著者の仮説以外に、画家や注文者の周辺に「廿三」の年齢に該当する人物はいなかったか、という傍証も欲しいところだが、これは読者が勝手に調べてみればいいことだろうな。

 著者は、引き続き、出光美術館所蔵『江戸名所図屏風』、東博の舟木本『洛中洛外図屏風』の読解に挑戦し、「近世初期風俗画に歴史を読む」シリーズを毎年1冊ペースで書き下ろしていく予定だという。楽しみだ~! そして、ぜひこの成果(異論があってもよいと思う)に基づく展覧会を、どこかの美術館が企画してくれないものだろうか。
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東京五輪の前に読む/ポエムに万歳!(小田嶋隆)

2014-01-03 18:46:03 | 読んだもの(書籍)
○小田嶋隆『ポエムに万歳!』 新潮社 2013.12

 正月休みのだらだら気分に見合った、軽い読みものが欲しくなって、正月二日に買ってきて、すぐ読んでしまった。2008~2013年に著者がメールマガジンや雑誌に掲載したコラムが元になっている。編集は誠実だが、ところどころネタの古さを感じることは否めない。

 実は、著者のツイッター上で本書の発売は知っていたのだが、「ポエム」の意味が分からなくて、買おうかどうしようか、迷っていた。書店でパラパラ立ち読みして、そういうことだったかと納得し、購入を決めた。

 著者は、「ポエム」とは「強いて定義するなら『詩になりそこねた何か』、あるいは『詩の残骸』と呼んでしかるべきもの」だという。「バターとマーガリンの関係に似たもの」という対比が、私はすごく腑に落ちた。そして、詩が無条件に素晴らしくて、ポエムが無価値なものだとは言えない。金子みすずは「詩」で、相田みつをは「ポエム」かもしれないが、詩とポエムの境界領域には「ピンク色のグレーゾーンが広がっている」という説明にも共感できる。相田みつをについては、高橋源一郎さんの『国民のコトバ』も確か、けっこう好意的な言及をしていた。健全な社会のために、一定量の「ポエム」は常に必要なのではないかと思う。

 しかし、そのあとに本書が紹介している東京オリンピック招致委員会のメッセージの初期バージョン(現在は改訂済み)はひどい。これは「ポエム」の域にも達していない。日本の公的機関のコトバがこれほど退廃しているとは思わなかった。この事実を知っただけでも本書を読んだ甲斐はあったと思う。

 そのほか、本書には、さまざまな社会現象やメディアをめぐる、比較的長い文章が収録されている。「『式』と名のつくもの」は、式典やイベントが大嫌いで、ショーだのミュージカルだのにも一貫して冷淡な態度をとってきた著者が、あら不思議、たまたまテレビをつけた2008年の北京オリンピック開会式に、まるまる4時間つきあってしまった感慨に始まる。分かる分かる、私も全く同じだったので。そこで思い出す長野五輪の恥ずかしさ…。「若いアスリートにはトラウマになっている」と著者は書いているけれど、むしろ、私自身を含め、十分に物心ついていた世代の「日本で五輪なんて二度と嫌」というアレルギーの原点は、あの寒すぎた開会式なのかもしれない。

 「電子メールはあと2年で終わる」はいつ頃の文章なんだろう。実際、若者のコミュニケーションツールとして、もう電子メールは終わっていると思う。で、彼等は就職と同時に「電子メールの書き方、送り方」を習得しなければならないのだろうな。かつての我々が、慌てて「手紙の書き方」を学習したように。

 あとは「体罰」「偽装」「高齢者の犯罪」など。総じて、ネットの海に棲息する顔のない「群集」への違和感を表明しているものが多いが、「レッズサポに『群集』の未来を見た」は異色。「な。罵るよりは応援する方が楽しいぞ」って、オジサンの本当に言いたいことは、それに尽きるように思う。
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まだ夜は明けない/維新の後始末(野口武彦)

2014-01-02 23:47:29 | 読んだもの(書籍)
○野口武彦『維新の後始末:明治めちゃくちゃ物語』(新潮選書) 新潮社 2013.12

 「はしがき」によれば、「週刊新潮」連載の歴史読み物シリーズ、『大江戸曲者列伝』2冊、『幕末バトルロワイヤル』4冊、『明治めちゃくちゃ物語』2冊は、本書をもって完結となる。最初の『大江戸曲者列伝・太平の巻』の刊行が2006年。その直前に、著者の『長州戦争』(中公新書、2006.3)を読んではいたけれど、私は、だいたい幕末・維新史というのが苦手だった。だって、昨日までの攘夷派がいきなり開国に転じたり、とにかく「めちゃくちゃ」なんだもの。

 それが、どうやら幕末・維新史の流れを理解し、主要登場人物の役どころを掴むことができるようになったのは、ひとえに本シリーズのおかげである。多少、見方に偏りがあるかもしれないけれど、それは、これから徐々に修正していけばよいことだ。

 おおよそ暦年順に進んできたシリーズの最終巻にあたる本書は、明治2年(1869)9月の大村益次郎暗殺に始まり、明治11年(1878)5月の大久保利通暗殺で終わる。著者によれば、『明治めちゃくちゃ物語』を大久保暗殺で打ち留めにしたのは「明治二十年頃から日本はめちゃくちゃでなく、尤もしごくな国策に沿って突っ走り始めるから」だという。

 この期間の歴史イベントで、私が小中学校の日本史で習った記憶のあるものを挙げるなら、「版籍奉還」「岩倉使節団」「鉄道開設」「徴兵令」「地租改正」…まあ「西南戦争」も習ったけどね、たぶん。

 しかし、目次を見ると、そうした輝かしい維新の改革政策の間に、実に多くの反理性的で血なまぐさい事件が並んでいる。早い時期には「奇兵隊反乱」なんてのがあったんだ。「浦上四番崩れ」(キリスト教徒への大規模弾圧)もこの時期なのか。広沢真臣の暗殺、岩倉具視の暗殺未遂。佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱。わずか10年程度の間に、こんなふうに国民が殺し合っていたのだから、当時の一庶民だったら、先行き不安でたまらなかっただろうと思う。明治の始まりを明るく希望に満ちた時代としてとらえるのは、後世の願望で歪められた結果ではないだろうか。

 興味深かったのは、明治政府が「財政」をどのように切り盛りしたか。どんな時代も理想だけで政治はできない。しかも明治政府は、幕末の対外戦争の賠償金の払い残しや公債・藩債の支払い責任を背負い込んだ上で、新しい国づくりを始めなければならなかった。著者は明治政府の方針を明快に割り切って言う、外債はきれいに返すが、国内債はできるだけ踏み倒す、と。あくどいなあ。このくらい鉄面皮でなければ、維新は成り立たなかったのだろうが、外圧に敏感な今の日本の経済政策の原型を見る思い。

 自分の中で、まだ咀嚼できていないのだが、いろいろ記憶に残った名言やエピソードも多い。内村鑑三が「明治元年の日本の維新は西郷(隆盛)の維新であった」と語っているとか、その西郷が「西洋は野蛮ぢゃ」と言ったとか。著者は、西郷隆盛の生涯が我々に突きつけてくる問いは、日本及び日本人について根本的に考えさせるという意味で「西郷問題」と名付けるに足りる、と述べている。私は、西郷隆盛という人物の魅力が、どうもよく解らないのだけど、解らないということは「問題」の根が深いのかもしれない。

 本書の最終話は「紀尾井坂の変」すなわち大久保利通暗殺事件であるが、前島密の回想によれば、大久保は暗殺の数日前、西郷隆盛と取っ組み合って谷へ落ち、砕けた自分の脳がピクピク動いている夢を見たという。これは有名なエピソードなのだろうか。

 明治維新の第一期、土着的なもの、反理性的なものが、来たるべき近代と格闘していた混乱の時代は、こうして終わるのである。
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「岩波の子ども」だった頃/どうぶつ会議(ケストナー)

2014-01-01 13:51:52 | 読んだもの(書籍)
○エーリヒ・ケストナー(文)、ワルター・トリヤー(え)、光吉夏弥(訳)『どうぶつ会議』 岩波書店 1954.12

 2013年の歳末は、12月26日の安倍首相の靖国参拝と、それに対する国内外の反応を暗い気持ちで観測しているうちに過ぎてしまった。

 大晦日に神保町の書店街をふらふらしていたら、三省堂で「岩波書店創業百年記念フェア」の企画棚を見つけた。順に見ていくと、最後に絵本や児童書がまとめられていた。そうそう、これ! 先日、中島岳志さんの『岩波茂雄:リベラル・ナショナリストの肖像』を読んで、ひとつ残念に思ったのは、岩波書店の児童書に対する言及がなかったこと。冷静に考えると、岩波書店が本格的に児童書、特に海外児童文学の翻訳出版に乗り出すのは戦後、二代目店主・岩波雄二郎の時代からのようだ。(ただし、戦前の岩波文庫には『小公子』『小公女』『ピーターパン』『十五少年漂流記』など今日の児童文学の定番がいくつも入っており、『熊のプーさん』は昭和15(1940)年に刊行されている)
※参考:岩波書店児童書全目録 1913-1996 刊行順(個人サイト)

 1960年生まれの私は、望んだわけではないけれど、岩波書店の児童書とともに育った「岩波リベラリズムの子ども」である。ようやくひらがなと少しの漢字が読めるようになった頃から、繰り返し読んで育ったのが「岩波の子どもの本」。1953年創刊の名作絵本シリーズで、確か、ほとんどひらがなばかりで活字の大きい「小学校低学年向き(?)」と、文字数が多く、話の筋も複雑な「中・高学年向き(?)」という二種類の設定がされていた。本書は後者だったと思う。

 翻訳絵本には、日本人が日本人のために「世界を舞台に」書いたものとは全く違う何かがあった。特に英米以外への関心を覚ましてくれた『金のニワトリ』『ツバメの歌』『九月姫とウグイス』(←挿絵は武井武雄)など。異なる文化伝統への基本的な信頼や尊敬って、こういう体験から育まれるのだと思う。あと、すでに都会の子供だった私には『やまのこどもたち』もほとんど異世界の話で、でも好きだったなあ。

 この『どうぶつ会議』も好きで、繰り返し読んだ。たぶん、会議に駆けつける動物たちが、クジラの腹の中に乗り込んだり、白クマが温泉を浴びて真っ白におしゃれしたり、キリンが上下二間続きの部屋を予約したりという、法螺話みたいなディティールが好きだったんだと思う。分からず屋の人間たちに圧力をかけるため、ネズミの大群が書類をずたずたにしたり、蛾の大群が軍服や制服を食い破ってしまうところも。ワルター・トリヤーの明るい水彩画がどのページにも満載された贅沢な絵本だ。

 もちろん作品の「主題」も分かっていたつもりなのだが、久しぶりに手に取って読み始めたら、涙が出そうになった。人間たちの会議の失敗続きに業をにやしたゾウのオスカーは言う、「かわいい子どもたちが、いつも、戦争や、革命や、ストライキに、まきこまれなきゃならないなんて! それなのに、おとなは、まだ、こんなことをいっているんだ。子どものために、世の中がよくなるように、あらゆることをしているなんて――。ずうずうしいはなしだ!」

 そして、動物たちは最初で最後の会議を開き、「戦争や、貧困や、革命が、二どとおこらないこと」を要求し、「平和のための、もっとも大きな障碍」である国境をなくすことを人間に要求する。人間(政治家)たちは抵抗するが、動物たちは(やや非合法な)非常手段に訴え、ねばり強く交渉を続け、ついに合意を勝ち取る。

 「非合法な」と書いたけれど、動物たちが世界中の子どもをさらって、隠してしまうに際しては「みなさんの法律では、じゅうぶん、めんどうをみてもらえない子どもたちは、親の手からはなして、てきとうな保護者にわたしていいということになっています。みなさんの政府は、子どもたちのめんどうをみるのに、ふてきとうだとおもったので、わたしたちは、けさから、その責任をとることにしたのです」という説明が用意されている。とはいえ、動物たちが、長期的に責任をとれる保護者でないことも、算数の本をみて、頭をなやます動物たちの姿(子どもたちが、いつまでもここにいるようなら、だれかがおしえてやらなければならないでしょう)にさりげなく描き込まれている。

 政治家たちがサインした「とりきめ」は五箇条。長くなるけど、書き留めておこう。

1 すべての国境をなくす。
2 軍隊と大砲や戦車をなくし、戦争はもうしない。
3 けいさつは、弓と矢をそなえてよい。けいさつのつとめは、学問が平和のためにやくだっているかどうかをみることにある。
4 政府の役人と書類のかずは、できるだけすくなくする。
5 子どもを、いい人間にそだてることは、いちばんだいじな、むずかしい仕事であるから、これからさき、教育者が、いちばんたかい給料をとるようにする。

 残念ながら、第二次大戦後の世界は、ケストナーが描いた理想の方向には十分に進まなかった。でも「軍隊と大砲や戦車をなくし、戦争はもうしない」というのが、日本にだけ押しつけられた特殊な結論ではなく、当時、世界中にこの理想を共有した人たちがいたことを、もう一度、思い出したいと思う。
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