〇国立科学博物館 ご生誕120年記念企画展『昭和天皇の生物学ご研究』(2021年4月20日~6月20日)
緊急事態宣言で一時中断を余儀なくされた展示だが、最終日に見に行けてよかった。昭和天皇(1901-1989)は、生涯にわたる標本収集と、変形菌類や植物、ヒドロ虫類についての分類学研究などにより生物学の発展に大いに貢献した。本展は生誕120年を記念し、生物学者としての昭和天皇を紹介する。
最初の見どころは、いきなり入口に並んだ標本の数々。大きなウミガメ、小さな哺乳動物の剥製(アマミノクロウサギだった)や蝶の標本もあったと記憶するが、壮観なのは、円筒形のガラス容器に入った液浸標本の数々である。魚類、ヒトデ、ホヤなど海の生物が多かった。昭和天皇の標本コレクションは総数6万点を超え、その多くが国立科学博物館に移管されているのだという。
展示室の中央には、テーブルを覗き込むような高さの年表パネルがあった。5歳(1906年)のとき始めて東京帝室博物館にお成りになり、動物の剥製などをご覧になる。ああ、まだ「帝室博物館」(現在の東博)の収集・公開対象が「美術品や文化財」なのか「博物資料」なのか、はっきりしなかった頃だ。9歳(1910年)のとき、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の科博)へお成りになる。科博の年表を見ると、湯島聖堂構内にあった時代みたい。
この年表、8歳のとき、伊香保で憧れの蝶オオムラサキを2匹採集し、嬉しくてちょうちん行列をした(日経新聞 S64.1.7)とか、11歳のとき、学校でトノサマガエルの解剖があり、帰殿(帰宅と言わない)後に自分で解剖を体験し、庭に埋めて「正一位蛙大明神」を授けた(実録 M45.4.27)とか、くすっと笑えるエピソードが多数散りばめられていて、編集者の愛を感じた。
また会場内の柱には、生物学とのかかわりを感じさせる御製の和歌が掲げられていた。「しほのひく岩間藻のなか石のした 海牛をとる夏の日ざかり」「潮ひきし須崎の浜の岩の面 みどりにしげるうすばあをのり」など。いいなあ、上から下へ堂々とケレンなく読み下す感じが帝王ぶりでよい。「わが国のたちなほり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり」は昭和62年(1987)の歌会始の御製である。あけぼのすぎはメタセコイア。私はこの歌を丸谷才一さんのエッセイで知った。
生物学者としての昭和天皇のライフワークは変形菌類とヒドロ虫類である。これは植物学者・服部廣太郎の助言によるもので、当時日本にその生物を研究する研究者がほとんどいなかったことが理由のひとつだという。昭和天皇ご自身の言葉として「競争する相手がいない分野だったから」という趣旨のことが、会場のどこかに掲げられてた。まあ確かに、一刻も早い発見や研究成果を争うような分野はやりにくいだろうと思う。
昭和天皇は、1925(大正14)年、赤坂離宮内に生物学御研究室を設け、1928(昭和3)年には吹上御苑に生物学御研究所(ごけんきゅうじょ)を設けている。会場には写真パネルのほか、御研究所で使われていた顕微鏡やプレパラートボックスが展示されていた。標本類のいくつかは、展示説明に「科博所蔵」とあるのに、実物には「御研究所」のラベルがついていたのは、前述のように現在は管理が移管されているためらしい。
那須や葉山の御用邸が、重要な研究拠点だったことも理解した。葉山では海岸で採集をしたり、船で沖合に出たりもしていたのだな。しかし研究にいそしむ昭和天皇のお写真は、本当にどれもいいお顔をされている。
海外の博物館には、昭和天皇が海外の研究者へ贈ったヒドロ虫の標本が保管されているという。逆に生物学者天皇に対して、各国の元首からさまざまな標本が献上されることもあった。こういうアカデミックな外交の伝統は、ぜひ末永く続いてもらいたい。