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見もの・読みもの日記

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怒りのエネルギー/民衆暴力(藤野裕子)

2020-08-29 23:06:09 | 読んだもの(書籍)

〇藤野裕子『民衆暴力:一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書) 中央公論新社 2020.8

 妙に刺激的な副題だが、扱われているのは、明治初年の「新政反対一揆」「秩父事件」、明治末の「日比谷焼き打ち事件」、そして関東大震災時の「朝鮮人虐殺」という、日本近代史の常識と言うべき四つの事件である。

 新政反対一揆は、廃藩置県・徴兵令・学制・廃止令・地租改正など、明治新政府の一連の政策に対して起きた一揆の総称である。徴兵制度に反対する「血税一揆」がよく知られていおり、1960-70年代の歴史研究は新政反対一揆を、支配権力に対する「民主主義的」な闘争であると高く評価した。一方で、廃止令への反発から、非差別への襲撃が西日本で多発したことも知られている。解放令反対一揆のことは、以前、塩見鮮一郎氏の『解放令の明治維新』で読んだが衝撃だった。この明治初年の混乱と暴動については、近世末の「世直し一揆」の系譜や、「異人」への脅威、血統の乱れが起こることへの恐怖など、さまざまな要因が議論されている。

 1884(明治17)年の秩父事件は、秩父地方の農民が減税や借金10年据え置きなどを求めて蜂起したものである。秩父困民党には自由党員が参加していたことから、自由民権運動の一環ととらえることもあるが、著者は、むしろ近世の世直し一揆との類似性を重視する。ただ、世直し一揆と明確に異なる点は、秩父困民党のリーダーたちは、国家と暴力で対決することの困難をよく理解しており、だからこそ、最後まで蜂起には慎重だったという。

 1905(明治38)年の日比谷焼き打ち事件は、近世や明治初年の農民一揆とは全く異なる、都市の暴動である。発端は日比谷公園での国民大会だが、焼き打ちが広がるにつれ、大会に参加していなかった見物人が路上で途中参加し、また離脱するパターン(隣接区で行動を終えるケースが多い)を繰り返した。焼き打ちという行為が、異なる人から人へリレーされながら東京の街路を移動していった、という表現が面白いと思った。暴動参加者は男性労働者(職人・工場労働者・日雇い)が多かった。著者は、当時の男性労働者には「通読道徳」とは別の、「男らしさ」の価値体系とエネルギーが共有されていたことを指摘する。ちょっと『ハマータウンの野郎ども』を思い出した。

 そして、1923(大正12)年の関東大震災時の朝鮮人虐殺である。東京・四ツ木や埼玉・本庄警察署などで起きた虐殺の顛末は、すでに別の書籍でも読んでいたので驚かなかった。ただ、著者の指摘で重要なのは、人々の間に自然にデマが流れ、自警団が殺害したという、いわば「民間人によるデマ、民間人による虐殺」のイメージが漠然とつくられていることへの異議である。「朝鮮人を殺害した罪で被告になったのは自警団などの民間人だけで、軍隊や警察が犯した殺人については起訴されることはなかった」。そもそも殺害者数に関する司法省調査には、警察や軍隊による虐殺が含まれておらず「自警団による被害のみがカウントされている」という。

 埼玉・本庄警察署では、自警団が警察署になだれ込み、収容中の朝鮮人(70人前後と推定)を殺害した。その翌日、今度は本庄署そのものが民衆の襲撃の標的となった。これも恐ろしいが興味深い。権力に対抗する民衆と被差別者を迫害する民衆とは、別の民衆であるかのように考えがちだが、事実は決してそうではないのだ。表面的な「サヨク」も「ウヨク」も根は同じということだろう。ひとたび暴力が解き放たれれば、ひとりの人間からどちらが噴き出すかは分からない。両方向の暴力が噴き出す可能性もある。

 過去の民衆暴力を簡単に否定することにも、権力への抵抗として称揚することにも慎重であるべき、という本書の結論は理解するが、現実にいま、目の前にある(メディアを通じて伝えられる)さまざまな暴力にどう向き合うべきかは、難しい問題だと思う。

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