見もの・読みもの日記

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近代国家の統治の技法/感染症の中国史(飯島渉)

2020-05-18 21:00:50 | 読んだもの(書籍)

〇飯島渉『感染症の中国史:公衆衛生と東アジア』(中公新書) 中央公論新社 2009.12

 近所の書店で目についたので、おや新刊かな?と思って奥付を見たら違った。帯に「緊急復刊」とあるように、話題性をねらって増刷したものらしい(2020年4月 第4版)。商売上手だなと思いながら、乗せられてみることにした。本書は、19世紀末から20世紀の中国と周辺諸国における感染症対策と公衆衛生の歴史を論じたもので、ペスト、コレラ、マラリア、日本住血吸虫病が取り上げられている。

 最初に詳述されているのは、19世紀末の東アジアを襲ったペストの大流行。この時代の歴史を読んでいてもあまり意識したことがなかったが、実は日本でも多い年は300人以上が死亡している。香港は死者1,000人以上の年が連続し、台湾は多い年だと死者が3,000人を超える。実際の死者はさらに多かっただろうという。中国では、広州、上海、天津など沿海地域を北上し、満洲、北京でも患者が発生した。ハワイにも伝播し、人種的偏見を背景にしたチャイナタウンの大火災(ハワイ黒死病事件)も起きている。また、中国の地方志(省志、県志など)には、ペストに関する多数の記録が残されているという指摘が興味深かった。

 このペスト流行は、中国の人口動態への影響は小さかったが、政治社会には大きな影響を与えた。そもそも中国の伝統社会では、感染症対策は「善堂」などの民間団体が行うもので、政府は個人の生活に介入しないことが前提とされてきた。清朝は「小さな政府」だったのだ。封建社会と聞くと、個人の生活が隅々まで管理された社会のような気がするが、実は政府の力は大きくなかった(管理もされなかったが、保護もされなかった)というのは重要である。

 19世紀末、感染症の原因が細菌などの病原体微生物であることが解明されると、欧米諸国は予防医学を発達させ、公衆衛生事業を整備し、感染症による死亡率を低下させた。この結果、公衆衛生事業を進める主体として政府の役割が拡大し、「大きな政府」が一般化した。

 19世紀半ばから衛生行政を整備してきた日本は、ペストに対して機敏な対応をとった。満洲の開港場・営口では、外国人社会の要請により、日本政府に医師団の派遣が要請された。日本人医師団は、共同便所の設置、下水の整備、塵埃の清掃等々の対策を立て、戸別訪問・巡回を実施した。日本人医師団は、こうした対策が中国人社会に受け入れられたとしていたが、中国側の史料では、強い反発があったことがうかがえるという。日本は、植民地・台湾に対しても徹底的なペスト対策を行った。衛生事業の制度化はしばしば統治政策の「善政」として語られるが、著者の評価は慎重である。終章の記述によれば、日本の帝国医療は、ペスト、コレラ、天然痘などを抑制したが、赤痢、ジフテリア、結核など、むしろ増加した感染症もあるそうだ。

 やがて中国側でも、日本に学び、本格的な衛生事業が始まる。その嚆矢となったのは袁世凱の天津。そうだ、むかし見た中国ドラマ『走向共和』にそんな描写があった気がする。天津における衛生事業の歴史を研究したロガスキー(Ruth Rogasky)は、身体の保護(protecting the body)から民族の防衛(defending the nation)という言葉で、その意義を語っているそうだ。なお、著者は戦前日本の公衆衛生行政の特徴は「警察が大きな役割を果たしたこと」だと指摘する。これが袁世凱などを通じて、20世紀前半の中国に移植されたのである。

  1920年代には中国を指す言葉として「東方病夫」という言葉が用いられた。国内の感染症対策が不十分で、周辺地域への影響が大きいことを揶揄する表現であった。これに対して中国では「衛生救国」が唱えられ、衛生の制度化が国家建設の一環と位置づけられるようになった。次第に日本の影響を離れ、欧米留学組を中心に法や機関が整えられていった。

 戦後、日本の感染症医学と中国の衛生行政の間に直接の関係はなさそうに見える。しかし、中国・江蘇省における日本住血吸虫病の駆逐に、戦前、共産党員として「国外追放」された小宮義孝(1900-1976)がかかわっていたというのがとても面白かった。

 国家による医療・衛生の制度化は、教育と並ぶ近代国家の「統治の技法」であり、まだ解決されていないさまざまな問題を内包しているという指摘は、2020年の今、身につまされる感じがした。

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