見もの・読みもの日記

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希望をかかげる/ぼくらの民主主義なんだぜ(高橋源一郎)

2015-06-15 22:38:17 | 読んだもの(書籍)
○高橋源一郎『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書) 朝日新聞出版 2015.5

 朝日新聞の「論壇時評」に2011年4月28日から2015年3月26日まで、月1回連載されたもの。連載が始まった2011年4月といえば、あの東日本大震災から1ヶ月後である。まだ、いろいろなことの先行きが不透明だった時期だ。著者は、この「震災」が多くの日本人に「敗戦」の記憶を(不思議なことに、戦争を体験したことのない世代にまで)よみがえらせた点に注意を喚起する。しかも不気味なのは、もしかしたら私たちが向かおうとしているのは(第二の)「戦後」ではなく(第二の?)「戦中」なのではないか、という予言めいた指摘である。

 それから5年間、日本の社会は揺れ続けたように思う。出口の見えない原発事故の後始末と再稼働をめぐって。TPP問題。格差と非正規労働。荒廃する高等教育。ヘイトスピーチ。慰安婦問題。朝日新聞の「吉田発言」取り消し。特定秘密保護法。イスラム国人質事件。ふだんマスコミやSNSを流れる発言を見ていると、この国では誰もが少し「正気」を失いかけているように感じる。そんな中で、罵倒や冷笑をまじえず、希望を見つけて静かに語る著者の姿勢は尊く思われる。

 どれも印象的な時評の中から、とりわけ心に残った章をいくつか紹介する。ひとつは「ある若者」が友人の混じったデモ隊の列と並んで歩いていると、突然、私服警官に逮捕される。「警官がきみに恐怖を感じたから」公務執行妨害だという。そして留置場で、裁判を受けられず1年以上も留め置かれている窃盗犯に会い「それって人権侵害なんじゃないの」と話していると、房の外からバケツで水をかけられた。その若者が半世紀近くたって、いまこの論壇時評を書いている、と著者はいう。偶然のような書きぶりだけど、必然だったのではないかと思う。もしこの事件に遭わなくても、たぶん著者は、どこかで同じような体験をして、権力(政権、官僚、あるいはそれ以外のもの)が「ふつうの人々」に対して何をするかを賢く学びとっただろう。

 この国の政治は、国民(特に社会的弱者)を力で支配し、経済的な自立を邪魔し、それにもかかわらず自らを「愛する」ように命ずる。これは、ドメスティック・バイオレンスの加害者がパートナーに向ける暴力に酷似している。ああ本当に、いまの政治の始末の悪さは、DVにそっくりだ。そしてDV被害者へのアドバイスの多くは、こんなふうに結ばれる。自分を責めてはならない。明るく、前向きな気持ちでいることだけが、この状況から抜け出す力を与えてくれる。

 だから著者は、希望の種を探すのかもしれない。震災や原発を愚直に描いた漫画家たち。論壇誌以上の先鋭性を見せた雑誌『通販生活』や、デモの楽しさを解説したブックレット『デモいこ!』など出版界の試み。赤坂真理さんの小説『東京プリズン』で先行世代がやり残した宿題にひとりで立ち向かう少女。美智子皇后の言葉。

 標題の「ぼくらの民主主義なんだぜ」は、2014年春に起きた台湾の立法院(議会)を学生たちが24日間にわたって占拠したが、最後は立法院長から提示された妥協案を受け入れ、撤退したエピソードに拠る。この事件について、日本のマスコミの報道は少なかったように思うが、私はツイッターで固唾を飲んで現地の状況を見守っていた。妥協案が提示されたあと、リーダーの学生は、占拠に参加していた学生の意見を個別に聞いてまわり、最終的に撤退を表明した。「民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも『(意見を聞いてくれて)ありがとう』ということのできるシステム」ではないかと著者はいう。

 だから民主主義は面倒くさい。素早く効率的にものごとを決めることなんかできない。でも、怨みを残さないことが、最終的には共同体の存続に有利なのではないかと思う。そして、もしかしたら、私たちは「正しい」民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない、という著者の言葉が胸に刺さる。でも、自分を(祖国を)責めてはならない。希望をかかげて、未来に目を向け続けよう。
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