もっと粘るかと思っていた鳩山さんだが潔く首相を辞任した。小沢幹事長との道連れというのが爽やかな後味を遺した。
結局、政権発足当初から「政治とカネ」の問題が最後までボディー・ブローのように利いてしまった。
ただし、総理を経験した人間が議員として後々まで影響力を残すのは好ましくないので次期衆院選には出ないとのことで、これはたいへん立派。
自民党の総理経験者で今なお現役の「森、安倍、福田、麻生」さんたちの面々はさぞや耳が痛かろう。
ともあれ、退陣に当たって「気障」と言われるのを覚悟の上で芭蕉の一句を。
「おもしろうて やがて悲しき 鵜船かな」
元禄一年(一六八八)四十五歳のときの作として知られ「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」との前詞がある。
<句意>
鵜船が目の前で、華やかな篝(かがり)火を焚きつつ活発な鵜飼を繰り広げる時、面白さはその極みに達するが、やがて川下遠く闇の彼方へ消え去るにつれて、なんとも言い知れぬ空虚な物悲しさだけが心に残る。
300年以上も前の作品なのに「詩情」にあふれている。
さて、本題に戻って音楽の話。
音楽にはいろんなジャンルがあって曲目も数限りないが、どんなに好きな曲目でも何回も聴いていると飽きがくるというのは誰しも経験されることではあるまいか。
歌謡曲とかポピュラーなんかは1曲あたりせいぜい4~5分程度なので仕方のない面もあるが、クラシックだって例外ではない。
たとえばシンフォニーの場合、第一楽章から第四楽章まで起承転結にならって、およそ40分ほどにわたって展開されるものが多いが、そういう中身の濃い曲でも何回も聴いているとほとんどの曲が飽いてくる。
人に自分の考えを押し付ける積もりは無いが少なくとも自分はそう。
そういう中で、こればかりは”いつ”、”いかなるとき”に聴いてもホッとして心地よい曲というのがある。
そう、まるで「子守唄」のような存在。
人によって様々だろうが自分の場合は最終的に2つに絞られる。
それはベートーヴェンの「田園」とモーツァルトの「ピアノソナタ全集」。
ちょっと月並みでガッカリされる向きもあるかと思うが、これらはレコードの時代も含めてもう30年以上にわたって相も変わらずつい手が伸びる曲目。
「長い時間の経過」という天然のフィルターがたしかな役割を果たしてくれている好例である。
「自然の美しさ、優しさ、厳しさ、そして感謝」を高らかに賛美した「田園」はずっと昔のブログでいろんな指揮者の聴き比べ特集を投稿したことがある。
因みにそのときの指揮者を挙げてみると次のとおり。
フルトヴェングラー、クレンペラー、ワルター、ブロムシュテット、イッセルシュテット、ハイティンク、マリナー、ケーゲル、ジュリーニ、ジンマンの10名。カラヤン盤がないのはご愛嬌。後にチェリビダッケ盤も追加。
ブログの発足当初ということもあり変に気負ってしまって臆面も無くそれぞれの試聴結果の寸評を書いたのだが今となってはまったく赤面の至り。
当時はマリナー盤を自分にとってのベストとして挙げておいたのだが、今ではまず聴かない。自然とワルター盤に還ってしまった。
演奏の良し悪しは別として、もうアタマの中に刷り込み現象のようになっていて、これはもうワルターでないと絶対ダメ~。
次に、モーツァルトのピアノ・ソナタ。これもいろんな奏者がいる。
手元にあるだけでも、アラウ、ピリス、内田光子さん、ギーゼキング、グールドといったところだが時によってアラウが良かったり、ピリスだったりするがいつも自然とグールド盤に還っていく。
これはモーツァルトのソナタというよりもグールドのソナタと言ったほうがいいくらいで独自の解釈で自由奔放に弾きまくっていて、一風変わった奇妙な魅力が心を捉えて離さない。
コンコンとまるで汲めども尽きせぬ泉が湧き出てくるような演奏だが、自分にとってはこれはもう「子守唄」を通り越して「お経」みたいな存在といっていい。縁起でもないが通夜のときにはこれをしめやかに流してもらおうとひそかに心に決めている。
ただしグールド自身の書簡集などを見ると、決してモーツァルトという作曲家を評価しておらず、シェーンベルクやバッハなどに思いを馳せていて、このピアノ・ソナタ集録音への言及は一切ない。
しかし、CD盤の帯封に「世界中のグールド・ファンの愛聴盤」とあるように作品自体が一人歩きしている感がある。
これは演奏家の思惑と人気が必ずしも一致しない実例の一つだろう。