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【COGHCC聖書通読】 2019/01/25

2019-01-25 07:50:00 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 4:1-8

それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。 もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。 なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。 罪を主に認められない人は、さいわいである」。

もし義と認められる基準がよい行いをしたかどうかで決まるとしたら、生まれつき体の不自由な人は一生義と認められることはできません。しかし神様はそんな不公平なお方ではありません。パウロはユダヤ人たちの父祖アブラハム、そしてイスラエルの王の模範であるダビデを例に挙げて信仰による義認を説きました。アブラハムもダビデもよい行いをしたから義と認められたのではなく、神を信じたから義と認められたのです。人の外見ではなく心の内を見られる神様は、私たちの信仰をも見極めることのできるお方ですから、行いはなくとも信仰によって人を義と認めることができるのです。

https://www.bible.com/81/rom.4.1-8.ja1955

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ローマ人への手紙 4:9-15

さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。 それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。 そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、 かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである。 なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。 もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。 いったい、律法は怒りを招くものであって、律法のないところには違反なるものはない。

ここでパウロはユダヤ人たちに根強く残る割礼論争にピリオドを打つために、アブラハムが義と認められたのは割礼を受ける前であったことを論説しました。だからこそ割礼を受けていない私たち異邦人も、アブラハムと同じまことの神を信じる信仰によって義と認められるのです。割礼も律法も神を信じた証として、また神を信じる者の行動規範として、信仰によって義と認められた後に与えられたしるしです。神がアブラハムに「あなたを祝福の基とする、あたなとその子孫によって世界は祝福される」と言われたのは、アブラハムと同じ信仰に立つ者が神の祝福を受けることができるという契約の証です。

https://www.bible.com/81/rom.4.9-15.ja1955

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ローマ人への手紙 4:16-22

このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、 「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。 すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。 彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、 神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。 だから、彼は義と認められたのである。

信仰とは、既に見えるもの、得たものを認めることではなく、まだ得ていないもの、見ていないものを、既に得たりと信じることです。アブラハムが神を信じたのはまだ信仰の子イサクが与えられる前に、かつ既に老齢となり子を産む肉体的能力を完全に失った後に、あなたの子孫はこの夜空の星のように、また海の砂のように多くなると約束された神の御言葉を信じたことにより、義と認められました。人にはできないが神には何でもできると確信できることが、信仰の力です。この信仰を受け継ぐ者には、人種を問わず、国籍に依らず、権勢にも能力にも依らず、信仰によって義と認められ、神の約束の成就を身に受けることができますから感謝いたします。

https://www.bible.com/81/rom.4.16-22.ja1955

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ローマ人への手紙 4:23-25

しかし「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、 わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。 主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。

神かアブラハムに与えられた約束は、アブラハムだけのものではなく、アブラハムの子孫、ダビデの末裔としてこの世にお生まれになり、私たちの罪をすべて肩に担って十字架で滅ぼし、かつ死の中からよみがえって永遠の義のいのちに生きることを立証されたイエスを、わが主、わが救い主と信じる信仰によって、義と認められるのです。神とアブラハムとの個人的契約にとどめることなく、全人類の救いの契約と為してくださった神様の恵みを心より感謝して、イエスを信じる信仰によって義と認められ、永遠の神の祝福を自分のものとする私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.4.23-25.ja1955
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