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【COGHCC聖書通読】 2019/01/24

2019-01-24 08:10:22 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 3:1-8

では、ユダヤ人のすぐれている点は何か。また割礼の益は何か。 それは、いろいろの点で数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。 すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。 断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてあるとおりである。 しかし、もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。 断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。 しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。 むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。

パウロはまず神の義を知るユダヤ人には霊的に優れた点があると認めつつも、神の義を知りながら義の基準である律法を全うすることのできなかった人々によって、神の義が無になってしまうことはないと力説しています。これは何を意味しているのかと言うと、神様が本当ないるならばどうして戦争や災害が起こるのかと、この世の悪を神様の責任にして、神様は正しくないと判断する人々がいますが、それは誤りだとパウロは反論しているのです。あるいは、自分が罪を犯すことによって神が正しいとされるならば、大いに罪を犯しても構わないではないかと開き直る人々に対しても、パウロは彼らの過ちを指摘しています。ちなみに「」で括られた箇所はパウロの伝える福音に反対する人々の言い分であり、()内の箇所はそれに対するパウロの見解です。神の義を知りながら悪を行ってしまうのは、また神を認めずに悪事を重ねることも、すべて人の心の奥底深くに根を下ろした罪の故です。

https://www.bible.com/81/rom.3.1-8.ja1955

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ローマ人への手紙 3:9-18

すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。 次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。 彼らの足は、血を流すのに速く、 彼らの道には、破壊と悲惨とがある。 そして、彼らは平和の道を知らない。 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。

神の義の基準である律法をいただきながらも罪を犯してしまっているうユダヤ人が、他の民族と何の違いがあるのか?という疑問に対して、パウロは詩篇14篇を引用して、神の義の基準に照らして罪なしと認められる人は誰一人としていないと答えています。これは、民族によって義なる人と罪人とが決まるのではないこと、神様には人種による偏見はないことを意味しています。私たちは時折、国や民族、文化や考え方の違いによって人々にレッテルを貼って、意味なき差別をしたがります。しかし神様は決してそのような目で私たちを見ておられるのではなく、絶対的な基準に従って、人を偏り見られないお方です。

https://www.bible.com/81/rom.3.9-18.ja1955

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ローマ人への手紙 3:19-26

さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

義の基準である律法を知っているからというだけで、人は義とされることはありません。律法を完全に守り通すことができるならば義と認められましょうが、そんなことは不完全な人間には到底できないことですから、律法によって義とされる者は誰一人としていません。そこで神様は御子イエスを人間としてこの世に送り、罪なき完全な人として生涯を送らせ、しかもイエスを十字架につけて私たちの罪の身代わりに裁かれたことを信じる信仰によって、私たちは罪なき者とされる道を開いてくださいました。神様は人には到底できないことを命じられたのではなく、人にできない部分は御子イエスに負わせ、人にできること、すなわち罪を認めて御子イエスを信じることだけを、私たちに命じられたのです。何という至れり尽くせりの恵みでしょうか。私たちがキリストの十字架を信じないで良い訳がありません。

https://www.bible.com/81/rom.3.19-26.ja1955

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ローマ人への手紙 3:27-31

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。

ここでパウロは律法と信仰の関係について言及します。信仰によって義とされるならば律法なと不要ではないかという人がいますが、それは誤りです。なぜなら信仰は自らを罪ある人間と認めることから始まるのですが、自分が罪あるかどうかを客観的に判断する基準が律法なのですから、律法なしに信仰は始まらないのです。確かに律法は私たちの知られたくない罪を暴くものですから心地よいものではありませんが、罪の呵責と自認なしに信仰が芽生える土壌はなく、律法が信仰を生み出すきっかけになるのです。イエスも、わたしは律法を廃するために来たのではなく成就するために来たのだと断言されています。聖書全巻を学ぶことの重要性を身をもって感じることができるならば、私たちの信仰はなお一層豊かなものとなり、神様の恵みの絶大さを幾倍にも受けることができるようになりますから感謝です。

https://www.bible.com/81/rom.3.27-31.ja1955
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